[紫式部コラム] 03:紫式部と与謝野晶子は似た者同士? | コンデジ片手に出かけよう

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私の旅の思い出を紹介します。


堺市堺区甲斐町にあった駿河屋という和菓子屋で生まれ育った与謝野晶子。小さいころから父親・鳳宗七の持っていた古典を読み始めて12歳で源氏物語を読んでいたと言われます。


晶子の幼いころには「女子なので望まれない子」として育てられたとも言われます。まあ、その頃には実家は斜陽だったので仕方ないかもしれませんね。



与謝野晶子さんは私が今住んでいる堺市出身の有名人、そして様々な情報を見ていると「紫式部に似ているかも」と思っています。もしかしたら、源氏物語に没頭したのも生涯が似ていると感じた点もあったかもしれませんね。
◎(もしかしたら)与謝野晶子はコミュ障だった
◎ボッチだった
◎(当時の女の子と違って)古典や歴史が好きだった。




そんな素養以外に与謝野晶子が通っていた女学校でのことも様々な影響があったと思います。尋常小学校から堺女学校に転校した与謝野晶子。補習科という上級クラスに進んだのですが、裁縫などがメインで自分の望むような知識を得られなかった可能性があります。そして卒業後に和歌の会に入会。和歌に出会うことで、自分の思いを表現できると喜んだんでしょうね。そして、人生を変えてくれる「浮気者の伴侶(与謝野鉄幹)」と出会い影響を受けたと思います。源氏物語の現代語訳を行ったのは生活費と夫・鉄幹を立ち直らせるためのヨーロッパ旅行の資金だったみたいですから。




あと、与謝野晶子が育った環境にも注目しています。
◎氏神様の開口神社は神功皇后&住吉大社と関連深い
紫式部集(和歌集)では、源氏物語を書き始めたきっかけが夫の死と言うことが書かれているみたいですね。そして、光源氏の守り神は「住吉神」。そうすると、少女の頃に夢中になった源氏物語もかなり身近に感じたと思います。



これはあくまでも推測ですが、与謝野晶子さんは紫式部が「日本紀の局」と呼ばれていたことにも関心を持ったかもしれません。彼女が育った時代はおそらく堺にある仁徳天皇陵について色々聞かされたと思いますし、仁徳天皇の即位に関する美談は聞かされていたと思います。

 



また彼女が生まれ育った甲斐町(かいのちょう)の由来が神功皇后に関連するのも「日本紀の局」と呼ばれたことと関連あると思ったかもしれません。



与謝野晶子さんの源氏物語は2回出版されています。そして、生活の糧を得るために紫式部の研究講義も行っていた様子。2024年度に「与謝野晶子と源氏物語」なんて特集展示が堺市で行われないか期待しています。