与謝野晶子と源氏物語について Part01 | コンデジ片手に出かけよう

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私の旅の思い出を紹介します。


現代語訳を最初に行った堺出身の女流歌人・与謝野晶子(よさのあきこ)さん。実は彼女は3度も現代語訳を行っています。源氏物語の現代語訳をされている作家には「瀬戸内寂静」さんなど複数の方がおられますが、おそらく与謝野晶子さんの現代語訳を読まれているでしょうし、ある種の影響を受けられていると思っています。



晶子さんの出身地・堺市堺区には『さかい利晶の杜』という文化観光施設が有り、そこに『与謝野晶子展示館」というのがあります。そこでの展示内容や晶子さんが夫・鉄幹と出会うまでの育った場所、晶子さんが育った時代背景などを考えると、なぜ3回も源氏物語の現代語訳を行ったかの謎などに触れることが出来るかなと思っています。




あと「紫式部の生涯 と 与謝野晶子の生涯には似た点がある」と書かれている有るサイトがありました。そんな面も含めて、与謝野晶子と源氏物語についてまとめていけたらと思っています。




「与謝野晶子倶楽部」というサイトが有り、そこに晶子さんの生涯が記されていたので下記にアップします。尚、晶子さんの生涯についていくつかの時期別に紹介されていました。
与謝野晶子倶楽部の公式サイト

 

 


<与謝野晶子の生涯年表:堺時代> 
1878年:堺県泉国(現・堺市堺区)甲斐町の和菓子商駿河屋二代目・鳳宗七の三女として誕生。戸籍名は「鳳志よう」。母親は津祢という後妻。
1884年:宿院尋常小学校(現・堺市立松林寺小学校)に入学
1887年:漢学塾に入り、琴・三味線も習う
1888年:堺女学校(現・府立戦用高校)に転校
1889年:この頃より、父の蔵書中の古典や歴史関係の書物を読みふけるようになる
1892年:堺女学校卒業、同校の補習科に入学
1894年:堺女学校補習科を卒業
1895年:9月 雑誌「文芸倶楽部」に投稿した歌が掲載される
1896年:5月 和歌の会の堺市岸間会に入会




<与謝野晶子の生涯年表:花開くロマン主義> 
1900年:1月 浜寺鶴廼家で催された関西青年 文学会堺支会の新年会で河野鉄南に初めて会う
1900年:4月 東京新詩社機関誌『明星』創刊。東京新詩社社友となる。
1900年:5月 『明星』第2号に「花がたみ」の題で短 歌6首が掲載される。
1900年:8月 関西を訪れた与謝野寛(鉄幹)と初めて出会い、堺浜寺の歌会に同席
1900年:8月 関西を訪れた与謝野寛(鉄幹)と初めて出会い、堺浜寺の歌会に同席
1900年:11月 寛、山川登美子とともに、京都で再会
1901年:6月 晶子が上京する
1901年:8月 処女歌集「みだれ髪」を刊行
1901年:9月 寛、先妻林滝野と離婚する
1901年:10月 寛と結婚
1902年:11月 長男光出産。以後12人の子供を出産する。
1903年:9月 父・鳳宗七が死去 
1904年:9月『明星』辰歳第9号に「君しにたまふことなかれ」を『明星』に発表



<与謝野晶子の生涯年表:文化活動の転機>
1908年:1月 北原白秋、吉井勇、木下杢太郎等新詩社脱退する。
1908年:11月 『明星』第100号で廃刊 
1909年:9月 小林政治のすすめにより『源氏物 語』の口語訳執筆始める。
1909年:秋頃 自宅で『万葉集』、『源氏物語』の講義を寛とともに始める。
1911年:11月 寛渡欧する 
1912年:2月『新訳源氏物語』刊行開始
1912年:5月、晶子渡欧する
1912年:10月 晶子単身帰国する。



<与謝野晶子の生涯年表:第2次「明星」と「冬柏」時代>
1921年:4月 建築家・西村伊作、画家・石井柏亭、夫・鉄幹らと文化学院を創設
1923年:9月 関東大震災により「源氏物語」の完訳原稿数千枚が文化学院とともに焼失。
1939年:10月「新訳源氏物語」を刊行(~翌年9月)
1940年:10月「新訳源氏物語」完成祝賀会開催
1942年:5月29日に63歳で死去