ががんぼの壁はががんぼだけのもの   けんぢ

    ぎしぎしと門扉をゆする黒揚羽

    雨蛙その涙目が問題だ

    蘭鋳も金魚のふりに疲れてる

    ででむしに知ったかぶりを笑われて

 

   ブログ「窓と窓」(2023.5.31)の「常連の俳句」として投句した私の

  5句です。この句群へのねんてんさんから、次のような批評をいただきました。

 

    ガガンボの句がいいなあ。これは私たちの句会に出て、その句会でも、

   いかにもこれはガガンボの壁だ、と共感したのだった。でも、ランチュウと

   デデムシの句はちょっと理が勝っていて川柳的な表現になっている。「疲れ

   てる」「笑われて」に作者の見方(思い)が直接に出ているから。

 

   「理が勝っている」と言われた「蘭鋳」の句は、別の句会に出したものでし

  たが、確かに、そこでも誰にも選ばれなくて、話題にはのぼりませんでした。 

   自分では、「ががんぼ」より言葉選びに時間をかけて練った自信作だったの

  ですが、結果は、ぱっと思いつきでつくった「ががんぼ」のようには共感して

  もらえなかったのです。これは、句会ではよく経験することですが。(笑)

 

   ねんてんさんの言われる「作者の見方(思い)が直接出ている」ということ

  で、共感してもらえなかったのだとしたら、それはどこに原因があったのか、

  自分でも考えてみようと思います。

 

   ねんてんさんは、「疲れてる」「笑われて」という言葉が、作者の見方の直

  接的表現になっていると指摘されました。確かに、蘭鋳やででむしを見ていて

  感じたことであったのですが、それなら「ががんぼ」だって、その様子を見て

  いて感じたことを言葉にしているのです。はて、どこがどう違うのかと考え込

  んでしまったのです。(このあたりが、「理」にいきすぎると言われる所以か

  と思いながら、・・・。)

 

   しかし、よくよく思い出してみると、「蘭鋳」の句も「ででむし」の句も、

  作った時に、自分でもちょっと「あざとさ」を感じていたようなのです。

   蘭鋳を思い浮かべて「金魚のふり」を思いついた時、いける!と思ったもの

  です。その独特な姿態からの思いつきをどう着地させるかを考えていて、「蘭

  鋳も」と、見ている自分に引きつけ、「疲れてる」という見方に収めたのでし  

  た。まさに、「も」と方向づけ、「疲れてる」と決めつけたことで、独りよが

  りな思いの直接的表現になってしまったようです。

 

   出会い頭に、壁にしがみついているががんぼを見て、瞬間的に感じたことを

  そのまま言葉にしたのですが、こちらは直感と表現の間に「理」が入る間もな

  く、言葉を投げ出した感じです。直感から離れない言葉は、無責任で読み手任

  せになっているのですが、その方が読み手の共感の生まれる余地があるのかも

  しれません。