次の話は、根本的なところを解決しない話です。
応急処置的な、方法です。
気持ちが、明るくなりようがなくなった状況の場合、どのように挽回する必用があるのか。
気持ちの持ちようで、意外と変わるもの。
トンデモな例を挙げてみよう。
・ひでえことが起きたが、自分の人生は、これをあと100回、経験することになるだろう と考えること。
男の人しか意味が分からないかもしれない。
一生のうちで、一度も起こらないようなことが起きても、それはまだ、はじまりにすぎない と考えることは、
一見、より落ち込むような気がするが、人によっては、ああ、そうか、と明るくなれる人もいるだろう。
ダイナミックに生きるなら、その感覚を忘れてはいけない。
五体満足な人にも関わらず、気持ちだけで、勢いがなくなっている人は、上の方法で、元の自分に戻れると考えられる。
まあ、人間、気持ちだけで回復できるなら、問題は起きないわけではあるけれど。
少しいやなことが起きた程度なら、
・誰かがしぬわけじゃないし とつぶやくこと。
自分の内々で感情が凝り固まってしまっている場合は、これで、解決する。
他の建設的なものへ、パッと意識を変えていくことができるだろう。
『自分の』命がなくなるわけじゃないし
と考えると、必ずしも否定できない場合もあるので、使わない方がいい。
全部否定できるようなものを中心にもってくることが、気持ちを切り替えるコツになる。
ジサツする人と、しない人、大きく違う点がある。
あまり気づかれていない点。
誰でも、その可能性があるから、安易に考えるのは危険だ と思う人もいるでしょう。
たしかにそう。ですが、ほぼ確実にジサツしない人になる方法はあります。
何らかのやるべきことをもって生きている人 になればいい。
なんか、うさんくさい雰囲気がいっぱいですが。
身近な人の命より大事なものをもっている人は、少々の不幸では、ジサツしません。
なぜなのか。
自分ひとりの命ではないと、無意識ながら感じているからでしょう。
自分だけの命ではないと考えている人は、当然、自分の独断で、命を終わらす発想が生まれてこない。
これは原作、風の谷のナウシ○にも出てくる考えですね。
ジサツする人は、命を全力で使い切るという発想がない。
仕事などの社会のシステムは、そういう発想を作り出してしまったりしますけど。
逆に、惜しみなく命を使っている人は、そんな命のムダ遣いをすることがよくわからない。
しかしまあ、
命を惜しみなく使っている人というのは、死の近くにいる人の感じがするなあ。
どちらにせよ、人というのは、死の近くから離れられない生き物なのかもしれない。
なんかどっかで言ってそうなセリフ。
たぶん読んでる人、最初の話、忘れてる。
話がとぶのが問題だなあ。
でもこの話の飛び方は、将棋では表現できないでしょう。
そして、飛ばないと、書く方もつまんない。