西東三鬼は1900年生まれ1962年没の俳人。

出身は岡山県。

京大俳句に所属していた。

治安維持法による取締りが厳しい時代。

1940年に検挙されたことがある。

京大俳句は戦意高揚の時期に、

厭戦的・反戦的句を多く発表していたため

特高に目をつけられていた。

 

 

神戸・続神戸 (新潮文庫)

 

 

 

 

 

お勧め度

★★★★★

 

1925年、東京歯科医専(現日本歯科大学)を卒業し

長兄のいるシンガポールへ渡り、

歯科医院を開業する。

身体を壊したこと、

反日運動の高まりで帰国し、

東京・大森で歯科医院を開業している。

 

その後、自営をやめて、埼玉県の朝霞綜合診療所、

東京の神田共立病院などに勤める。

33歳の頃、患者に誘われて俳句を作り始める。

晩年は角川書店の「俳句」の編集長をしている。

戦争を挟んでいるとはいえ、波乱万丈の人生を生きた人。

 

本書の「神戸」は、「俳句」誌に、

昭和29年から31年にかけて掲載された10話。

内容は昭和17年から21年における、

神戸での出来事で、当時著者は商人をしていたらしい。

 

 

神戸にある古びたホテル。

多くの人が長期の止宿人としてホテルで暮らしていた。

日本人は12人。他にはエジプト人、ロシア人、

台湾人、トルコタタール人、朝鮮人など個性的で

何をして暮らしているのかわからない人たち。

戦時中とはいえ、混沌として、無政府な暮らしぶり。

奇人・変人が蠢いている様子が描写されている。

 

しかし、その根底にある精神は「自由であること」。

戦争などには無関心乃至は反対の人たち。

国際都市・神戸には、その頃、生活こそ厳しかったが、

他所ではない自由で気ままな雰囲気があったらしい。

三鬼は、登場する人物たちは皆善人ばかりで、

「非常時態勢」に最も遠い人たちであった、と書いている。

彼らは「自由」を希求していたのだ。

 

三宮の駅近くトーアロードという坂道があって

その道沿いにあった国際ホテル。

三鬼は昭和17年(1942年)東京での生活を

すべて投げ出して、神戸へ来たという。

神戸に着いた三鬼は、アパートを探すために、

夕刻、バーに勤めていそうな女のあとを尾行する。

バー勤めの女はアパート暮らししていることが多く、

住処を紹介してもらうことが目的だった。

 

 

女はバーに入っていき三鬼もそのバーに入った。

そして1時間後には、

アパートを兼ねたホテルを紹介してもらった。

それがトーアロード沿いに立つホテルだった。

 

ある晩、ホテルに戻ってストーブのところに行くと、

眼帯をした見かけぬ女がいて、

三鬼のことをチラチラ見てくる。

よく見ると見覚えのある顔である。

「ああ、あの女だ」と思いだしたとき

その女が「センセイでしょ?」といってきた。

彼女は、本牧でチャブ屋にいた波子だった。

 

(チャブ屋というのは外国船の船員を相手にしていた

飲屋のようなもので、

1階にダンスホールがあり飲食ができ、

2階が個室になっていた。

一種の買春宿で横浜に多かったという)

 

 

波子は、歯科医をやっていた頃の患者なのであった。

三鬼はせっかく捨ててきた東京の残滓を感じる。

眼帯をしているので、

見てみるとひどい状態になっている。

そこで親戚の眼医者のところに電話をし、

夜間であったが見てもらう。

急性淋毒性結膜炎だった。

点眼薬を処方してもらうが、

2時間おきに差さなければ、失明してしまう、という。

三鬼は一晩中付き添って目薬を注してやる。

波子はそれをさせたがらなかった。

「恩を受けたくない」という波子の言葉に三鬼は驚く。

男の親切が、のちに自分の苦労の種になるかも知れない、

と波子は考えたのではないか、

男で苦労をし、その分不信を抱いているのだ。

その後、三鬼は奇妙な流れで、

波子と同棲することになる。

ホテルにはバー勤めの女性が結構止宿していて、

三鬼の部屋は女性たちの集いの場となってしまうのだった。

 

ホテルの人の好い老支配人、友情に篤いエジプト人、

生真面目な台湾人、戦時中の厳しい生活の中、

個性的な人たちが巻き起こすエピソードが面白い。

文章からは当時の街の匂いが漂い、

時代を感じさせる描写があり、

苦労も多かったことだろうと思うが、

飄々としたユーモアのある文章で

短めだけれども読み応えがあった。