ダイスケの犬小屋。

ダイスケの犬小屋。

面白い事ってなんだろう。つまらないってなんだろう。
万人の為の正義がないように万人がおもしろいって今はもうありえないんじゃないか。
そんな事をずっと考えて毎日毎日考えていて脳が痺れてきました。

あくまで個人の意見ですので、深読みしないで頂きたいです。

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引っ越しましました。
配置は違えど12年前、18歳の時と同じ部屋に戻ってきました。

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あっ。
アレです。ちょっと急なのとどこまでが、なのとで。細々連絡を怠っていましたが悩んだ末に愛知の実家に戻りました。
悩んだ末でのことなので、説明省いたこと御容赦下さい。
詳細や細々としたことを知りたけれたば私に直接連絡下さい。
なんだか部屋じゅうがカオスな状態。

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反対側からもパシャリ。

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書籍系を段ボールに詰めて、空きスペースを作るために、押し入れに入れて。

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テトリスならキレイに収めると消えるのだけど…。
ちょっとボーっとしてしまう。
引っ越しにむけて、ドラフターをバラしました。
長年お世話になったコイツも今回で捨てていきます。

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とにかく重い。
特におめでたいこともないのだけれど。
たまに食べたくなる。これ。

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餅米ぢゃないので、どうかなと思ったのだけど。
上手く炊けました。


四六判用のブックカバーを買いました。

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文庫用のブックカバーは持っていましたが。
新たに次に読む本にカバーをはめるのはちょっと嬉しいものです。
沢木耕太郎 著『地の漂流者たち』を読了。

70年代に書かれたルポルタージュである。
多くのインタビューや取材をもとにその事象の姿を見つめるところが読み物としていい。
小説ならば入れ子構造といったところ、どうも私は固定の視点から深く内面動向を辿りゆくものよりもこちらのパターンを好む傾向がある。
視点を固定させぬということは、ハラハラドキドキのドラマチックな方向へ行きかけた流れに横槍をいれるようなもので、どこかそこに身を置きながらも突き放し冷めた作者の姿勢が浮かび上がる。
70年代のルポであるのもあり、読む側の私も冷静でいられた。
しかし一昔二昔前といっても、遥か昔の文献ではない。そこには現代と通底するものもある。
何処で何に引っかかりを感じるか、その引っかかりの先にはなにがあるのだろうか。
次第にそんなことを考えながら読み進めた。
もう二、三十年したら。これも当時の風俗を伝える文献になり変わってしまうのかもしれない。
今と昔の時間の流れとその繋がりを、人間はどれくらい幅で感じられるのだろうか。
ある一時期の一点を過ぎたら、それは血の通ったものとは感じられなくなる。五十年前なのか百年前なのか、あるいは大戦前後なのか文明開化前後なのか。
そういうあやふやな基点が読む側にもあるような気がした。
周防正行 監督『ダンシング・チャップリン』を観賞。

一幕はバレエ映画を創るまでの過程を追ったドキュメントで、二幕は本編。
チャップリンをモチーフにした作品なのだからだろう、昔の映画のように幕間の5分休憩もちゃんとそのまま収録されていた。そういう遊びは好きなので嬉しくなる。
映画化へ向けて振付師ローラン・プティと話をしているところで『警官のくだりをスタジオでなく実際の公園で撮るなら私は降りる』と突き返されもなお『きっと彼も演出家だから、実物をみたら色んな事を試したくなるはずだ』というような旨を話していた監督の困り顔が印象的だった。
困った顔をしながら、自分の意思を貫き通す人というのがいる。
このテの人が一番厄介で、一番成功するタイプなのではないか。と時々思う。
他者から色々と云われて、当初思い描いていたルートを辿るべきか迷う事が私をはじめ余人にはまことに多い。そして他者の意見を取り入れ過ぎたが故に、当初の志はどこへやら登り詰めたら全然違う峰にいたなんてこともある。
峰ならばまだいい、私の場合は山を登っていると思っていたのに薮を抜けたら見知らぬ海に出ていたなんて経験もしばしば。
自分の意見を通せね人には、他人に嫌われぬかという不安が付きまとっているのではないか。
頑なになって現実を見られないただのわからず屋になっていまいか、という懸念も私の中にはよくチラつく。
たぶんこの不安な心に負けるのだ。自分で選んでいないから後悔もする。
困った顔をしながら自分の意見を通す監督をみて。
こういう人に私もなりたい。と思った。
ラース・フォン・トリアー 監督『ドッグヴィル』を観賞。

3時間近い上演時間でしたが9つのセンテンスに別けられているので、あまり長さは苦にならず観れました。毎度の事ながら上演時間ってなんなのだろうかと思う。
2時間を超えると長くて集中して見られないとか、2時間では複雑な物語は描ききれないとか。双方の意見があるけれど。そこには観る側と作る側の心の余裕も、随分と加味されていると思う。
私はどちらかっていうと、無理矢理にでも2時間で収めて物足りなさが残るくらいなら3~4時間でもいいじゃないかと思ってしまう側である。
その方が作品も幸せであろう。
たぶんこの作品も、しっかり描いてもらえて幸せな部類に入る。
この映画の特徴は、美術がほとんどない事にある。
ないというより、建物の壁をとっぱらってしまいたかったと思われる。
目の前の会話を交わす人物の後ろや画面の端々に、必ず壁の向こうの人々の様子が確信犯的に映っている。それが面白い。
やりとりをする人以外を映すというのは、一見すると見せたいモノが散漫になる危険性があるが。
実は必ずしも目の前のやりとりが重要なのではないのだ。
遠景にいる人々とみえない壁を隔てたところで交わすやりとりが面白いのである。
映像の美術は、より本物に見えるようになりすぎるところがある。
たしかに本物っぽいと見栄えはするが。
その本物っぽいってことが、作品にとって良い事かってのとは違うはずで。
そこへのアンチテーゼのように、私は感じた。
打ち上げから帰ってきて。
そのまま、ずっと寝ていたら、変な時間に目が覚めて。
まだ残る少々の徒労感と、時間感覚が定まらないのとで、重ったるくぼやんとしています。


18人の大所帯なのに、とっても仲の良いカンパニーだったので皆終わっちゃうのが寂しいのか、別れを惜しむようにカラオケ屋の廊下でずっと話している人もいました。
そこには、なんとなく今一緒にいなくちゃという焦りと、だんだんそんなに話すこともなくなってきちゃう虚しさが入り混じっているのが、皆の顔から見え隠れ。

ほどよく語り尽くさず。次にあった時の為に言葉を残しておく、っていうのも。賢いやり方かも。
語り尽くせば尽くすほど、今語るべき言葉がすり減っていく虚しさや、仲が良いからこそ互いの違いがハッキリ浮き彫りにみえてきちゃう、ってことを感じてしまうなら。語り尽くすってのも、いい事ばかりじゃない。

稽古の楽しさは、これから先にある未来の計画について話すからで。
打ち上げの淋しさや虚しさは、語られることの大半が終わってしまった過去の思い出だから。なのではないか。

これからは、未来のことを語ろう。
そう思った。