今日は共依存について書いていこう。
世の中にはいろんな人間関係がある。
親子、友人、恋人、同僚、上司と部下 などなど。
この人間関係において、より親密な仲になるほど「共依存」をともなった関係が多くなっていく。
特に多いのは親子だ。
おそらく、高校生の時の俺と父親の関係はそうだった。
父親はよく酒を飲む。
45度とかの強烈なウイスキーだ。
それをいつもストレートで飲む。
割らないし氷も入れない純ストレートだ。
そんな強烈な酒を飲んでいるから、いつもベロンベロンに酔っている。
みんな酔った父親の話は理解ができない。
しかし最後に言うことはだいたい決まっている。
「自分のようにはなるな」
ベロンベロンに酔いつぶれ、最後の最後に必ずそう言う。
父親も自分自身が嫌いなのだ。
俺はそんな父親の話し相手だった。
何を言ってるかみんなにはわからなかったが、俺にはそれが理解できていた。
「仕事でいろいろな苦労があるんだろう」と思って酔いつぶれるまで話を聞いた。
時々俺も意見を挟むが、そんなことは耳に入っていないようだった。
俺が何を言っても気に入らない内容であれば話す中身を否定されたりもした。
会話ではなく一方通行の何かだった。
それでもそれは、俺の役割だった。
「誰も理解できない父親の孤独が自分には理解できている」
そういう無意識の自己暗示があったように思う。
そしてそれが、空虚な自我を埋めるために手に入れた、俺なりのやり方だったのだろう・・・。
これが共依存だ。
俺は父親に人として尊重されることなく、話し相手という役割を与えられることで足りない自己愛を満たそうとした。
父親は一方的に話す相手を確保し、不満のはけ口を手に入れることができた。
この関係ができあがるためには、前提がある。
虐げられる側の自己肯定感の低さだ。
一般的に幼少期の愛が足りなかったり、幼少期の環境が不安定だったりすると自己愛を正常に持てなくなる。
自己愛を持てないということは自己肯定感が低くなるということだ。
そうすると、一見すると自分を必要としているように見えるが、実際は自分のことを大切には思っていない相手に依存してしまう。
しかし、相手は本当に自分を尊重してくれているわけではないので、一方的な搾取的関係が始まってしまう。
メンヘラならこういう関係をよく知っているだろう。
そう、セフレだ。
はっきり言おう。
そいつは君のことなんか全く大切に思っていない。
もちろん愛してなんていないし、体以外求めてなんかいない。
「お前、セックスできないならいらないわ」
とか言って君を捨てる。
でもな、この捨てるって表現もおかしいんだよ。
何だよ捨てるって。
いらない”モノ”だからって前提がなきゃ捨てるなんて言わない。
”モノ”でいいのかよ。
いいわけねえだろ。
君は紛れもなく人だろ。
人はな、心を持ってんだよ。
ひどいこと言われたら傷つくし、優しくされたら嬉しいんだよ。
つらくても嬉しくても涙がでんだよ。
それがなんで大切にされないんだよ。
そんなやつに依存すんじゃねえよ。
人を大事にできないやつのほうがよっぽどゴミだよ。
自分のこと大事にしろよ。
絶対君のこと大事だって思ってるやつはこの世界にいるから。
もしいないって言うなら俺が友だちになってやるよ。
twitterで「@kenjunsan1111」宛てにDM送れ。
嫁が怒らない範囲でお話してやる。
以上