一級遮光カーテンを買おう、そう決意した日からもう二週間が経った。
日が昇れば昇るだけ容赦なく陽光があたるこの部屋で初めて朝を迎えてから、昴は今まで頭を悩まされている。
夏のはじめの朝、伸びきったTシャツとトランクスのままベッドから降り、足元に散らばったルームシューズに視線をやるが、それを集めて履くことすら面倒で、裸足で窓に向かう。
限りなく黒に近い紺のカーテンはその色彩の意味など全く意識してはいないらしい。昴は一度舌打ちをして、その二枚の布を真ん中から切り裂くように開け放った。
足元から頭上の高さまであるこの窓から見える景色は、朝の不機嫌を含んでも美しいものだ。
通りを挟んだ正面に、昴が暮らすものとほとんど同じ時期に建てられたであろう古い石造りのアパートメントが視界の端から端まで規則正しく並んでいる。
どの建物も一階もしくはベースメント部分にギャラリーやカフェ、ブティックのような店があり、全て小振りなりに穏やかに賑わっていた。
もしかしたら、朝一番に眺めるこの景色は自分の目覚めの悪さをかなり救ってくれているのかもしれないとすら思う。
それでも今日こそ濃紺の遮光カーテンを買うのだと心に決めた昴は太陽に背を向け、数分前に忌々しく思ったルームシューズを同じ場所に見つけ、片足ずつ滑り込ませた。
マンハッタン市内ソーホー地区にある昴のアパートメントからほど近い、小さな通りに面した、小さなコーヒーショップ。
昴はいつも、例えば今のように、小難しい本を片手に時間を気にせず朝食を摂る時は迷わず此処に足を運ぶことにしている。
日本にいると長身だの筋肉質だのともてはやされる体格をしているが、この街にいるとまるで自分が未だ成長の過程にいるような錯覚に陥ることが少なくなかった。
マンハッタンは東京と同じように地方や外国から人が集まるせいで人種や肌の色、瞳の色も様々だが、アジア人と比較されない限り昴はいたって小柄で痩せ型だった。
今日も、自分より縦にも横にも大きいブロンドの中年男性が昴の前にどっぷりと立ってショーケースのサンドイッチを吟味している。
昴がその男性の重たそうな腹周りをぼんやり眺めていると、カウンター越しに黒髪に黒い肌をした女性定員が昴に晴れやかな笑顔を向けた。
「あなた、また来たの?いつまでいるんだっけ」
それが、自分でも分からないのだと昴が苦笑いを滲ませ肩を竦めると彼女は眉を吊り上げ、いいじゃないと笑う。
何がどう「良い」のか、昴は深くその言葉の意味を考えようとして止めた。
日本の喫茶店とは違い、ここでは注文と併せて当たり障りない会話を挨拶程度に交わすことがある。
気が向いたら帰るんじゃないかな、とまるで他人から聞いたような言い方で困ったように笑うと、彼女はそれ以上詮索せず注文は何かと尋ねた。
生憎この街では冷房の効いた屋内が全て禁煙のため、昴は自動的にテラス席を選ぶことになる。
初夏とはいえ今は真昼間だし、今日は冷気を含んだ風も吹いていない。アパートメントから此処までの距離でTシャツに汗が滲んだほどだ。
昴は迷わず20オンスのアイスコーヒーに氷を多めに入れるよう頼み、小さな灰皿を器用に指と指の間に挟んだ手を顔の前に掲げて、先の愛らしい黒人女性に礼を言った。
彼女が昴に気があることは何となく分かっていたし、この店の店主にも以前それらしいことを言われたことで確信したが、ろくに会話もしていないのに何故、と昴は疑問を抱いていた。
一目ぼれ、という言葉もあるが、互いのことをほとんど知らずに─実際彼女の知り得る自分といえば奇妙な発音で喋る脚の短い男、ぐらいのものだろうと思っている─恋愛感情なり、それに近い想いを抱くという感覚が昴には到底理解できないでいた。
この店のテラス席はテーブル間に十分な距離が保たれており、大口を開け手を叩いて笑う下品なティーンエイジャーがいない。
昴が家を出てこの店に来た時よりも遥か高くに昇ったらしい太陽が眩しく、昴はそれを睨みつけながら小脇に抱えた本を落とさぬようTシャツの首元に引っ掛けたサングラスを慎重にかけ直した。
サングラスのお陰でやっとまともに広がった視界に、いつも座るテーブルの空席を見つける。店の入り口から一番離れた、通り沿いの角の席だ。
昴はブックバンドでまとめた本と小さなラップトップをテーブルの上で解き、利き手である右側にアイスコーヒーと灰皿、ガスライターが入ったマルボロを置く。
この一連の作業、カフェの一角を自分の空間とする瞬間を昴は気に入っていた。ラップトップが起動するのを待つ間に、煙草に火をつける。
一息つきながら、昴はこの街と自分の接点を思い返していた。こうして気紛れにこの街に訪れるのは、彼にとって今回の滞在が初めてではなかった。
初めてこの街に来たのは昴の父親がアッパーイーストで仕事をしていた頃で、有名なバンドのコンサートがあるから旅行がてら来ないかと誘われた20年前のことだ。
14歳だった昴は10時間超に及ぶ一人きりでのフライトに疲弊し、到着の翌日に行ったそのコンサートの最中で興奮の欠片もなく眠りこけたのをはっきりと覚えている。
二度目の滞在はそれから4年後、昴が18歳の頃だが、親の薦める大学へ進学するのが嫌で嫌で仕方がなく、受験会場を目指していたその足をそのまま成田空港に向けて此処まで辿り着いてしまった。
高校生だった昴は航空券を手に入れるだけに十分な現金などあるわけもなく、ただ何かあった時のためにと携帯させられていた─それまで一度も使ったことがなかった─父親のクレジットカードで現金を引き出し、何とか此処までの片道チケットを手に入れたのだった。
二度目の渡航では結果として六年間滞在することになり、当時は英語も難なく使いこなせていたはずだったが、帰国後はあっという間にそのほとんどが失われてしまった。
アルバイトをしたり、南や西に旅行をしたりしながら二年ほど学校に通っていたが、その二年間を通じて両親が昴に会いに来ることは一度もなかった。
もし自分に同じ境遇の息子がいたなら、自分が父親にされたように全く同じことをしただろうと、家庭を持った経験はないが何となく分かる気がする。
当時の昴は孤独だった。勝手な我儘で両親の期待を裏切ったことへの罪悪感、当初言葉の壁にぶち当たっていたストレスからか、この喫煙癖が身体に染みついてしまった。
孤独を紛らわせるには何かしらの音が必要で、くだらないTV番組よりも音楽を好んでいたせいか、昴は興味が赴くまま卒業後の進路として中堅レコード会社を選んだのだった。
日本での展開を本格的に検討するという話は勿論すぐに昴の耳に入り、年に一度の正月にしか一人息子の顔を見られない両親を思い返しながら昴は首を縦に振っていた。
帰国したばかりの頃はマンハッタンでの暮らしを懐かしんだりしたものだが、いつの間にか腰を据え、それに心地よさを見出し始めて10年も経っていた。
結婚願望こそなかったが、いつか時が来ればそうするだろうし、このまま此処で年をとるのも良いと昴は考えていた。
そろそろ恋人の一人でもいないとまずいんじゃないのかと、もう何年も前から上司や親戚に言われ続けてきたが、昴は34年間一度も人を心から愛した経験がなかった。
昴は過去に恋人がいたこともあったし、恋や愛といったことに興味がない訳ではなかった。デートの仕方、プレゼントの選び方も知っている。
端正な顔つきと趣味の波乗りで一年通して小麦色の肌、日に焼けてはいるが潤いを保つ黒髪に筋肉質な肢体と長身。軽率でなくとも昴のことを崇める女性は少なくない。
昴にとってそれは勿論喜ばしいことでもあったが、ろくに話をしたこともない女性に慕われる度に不思議で堪らなかった。
「好きです。これ、誕生日プレゼント。」
それはほんの数カ月前、34度目の誕生日を控えた時期だった。徹夜明けに職場の喫煙所で一人窓の外を眺めていると、見知らぬ女性がガラス戸を叩いて入ってきた。
喫煙所は昴のプライベートスペースではなかったが、彼女が此処に足を踏み入れるのは初めてなのだろう、隠しきれない緊張を全身に纏ったその女性は手短に挨拶を済ませると、さっさと片付けてしまいたいとでもいうように早口で昴に想いを告げた。
「俺の何を知ってるの?」
昴は彼女の顔も名前も知らなかったし挨拶を交わした記憶もなかったので、彼女の差し出すプレゼントを前にほとんど呆然と立ち尽くし、以前からずっと─この女性には知ったこっちゃないだろうが─抱いていた疑問をそのまま質問にして口を開く。
そこには怒りや戸惑いはなく、この不可解な出来事の真相をこの際だから教えてほしい、という純粋な思いから出た言葉だったが、彼女は昴が受け取らなかったプレゼントを力いっぱい引っこめて、委縮した身体を震わせたまま涙を浮かべて何も言わず去ってしまったのだ。
結局、その彼女とは一度も会話が成立することのないまま─寧ろ視線が交差したかどうかも曖昧だ─、きっとこれから先もう二度と会うこともないのだろうと昴は落胆した。
「昴くん、女の子を泣かせちゃいけないよ。」
先の女性と入れ替わりでガラス戸を開けたのは、薄っぺらい身体を隠したいのか、気休めのカーディガンを羽織ったマットだった。
彼は2年前に昴がスカウトしたバンドのボーカルで、春が終わる頃に小規模ではあるが全国を渡るツアーを控えている。
徐々にではあるがメディアの露出も増えてきて、昴は痩せ過ぎのマットに少しでも増量するよう再三言い聞かせているが、彼が太ることは一向に、その気配すら望めそうにない。
マットは身長が昴と同じ程度であることと髪がアジア人のような漆黒であるため、黄色人種かと一瞬見間違えそうになるがよく見ると黄色と呼ぶには白すぎる肌を持ち、イギリス人と日本人の血を半分ずつ受け継いでいるため瞳が透き通るブルーグリーンだった。
「お前は少し太らないといけないよ。」
マットの口調を真似しながら、すぐそばに備えられた自販機から缶コーヒーとココアをひとつずつ手に入れた昴はグルグル巻きにした薄手のストールを解くのに手こずっているマットの側にココアの缶をそっと置いて自分の缶コーヒーの栓を開けた。
「分かってるけど、難しいんだ。健康であれば問題ないでしょ。」
そういう問題じゃないんだと何度言ったら分かるんだ、と昴が缶を握ったまま人差し指をマットへ向けて睨みつけると、細身の男は両肩を一度大げさに上下させて惚けた振りをした。
「そんなことで怒ってたらモテなくなるよ。誕生日はどうするの?」
マットが慣れた動作でジーンズのポケットから取り出した煙草は箱の形を失っていた。薄っぺらく潰れてしまったその箱をマットが何度か振ると器用に一本だけ煙草が顔を出す。
それを彼は箱から唇に挟み、そのまま喋り続けたせいで昴に問いかけた言葉の語尾は酷く聞き取りづらかった。
「今はそれどころじゃない。」
短い溜息を吐きながら、眺めていた窓に一度背を向けて煙草の灰を落とすところでマットを視界に入れた。彼も昴がしていたように、窓の外に見える忙しない街をぼんやりと眺めている。
誕生日やクリスマスは誰か特別なひとと特別なレストランで特別なプレゼントを交換する予定を入れなければいけないという風潮には慣れた気でいるが、徹夜明けの朝に珈琲を飲みながら思いを巡らせたいことではなかったため、昴は口調が嫌味っぽくなってしまったことを自覚しながら謝らなかった。
「昴くん、誕生日は僕と過ごせばいい」
4つも年上の男からの身に覚えのない八つ当たりを気にも留めず、マットはさらりと、まるで天気を話題に上げるような口調で、僕はあなたが好きだと告げた。
「あなただって、僕を好きなはずだ」
昴が同性に心を奪われたのは、誰かを心から愛したのは、マットが最初で最後だった。
喫煙所での告白があってから、昴はすぐにマンハッタンへの異動を志望し、半ば無理矢理飛行機へ飛び乗ったのだ。
マットが自分の想いに気付いていたのは予想外だったが、その聡明さも含めて自分は彼に惹かれていたのだろう。今思い返せば当然のことだ。
昴は自分の抱える感情を口に出してはいけないと強く意識していた。これを一度打ち明けてしまえば楽にもなるだろうが、祝福された未来は自分を待っていてはくれないだろう。
気が付けば太陽はオレンジを帯び始めていて、昴は昼からこれまでまったく作業が進んでいなかったことに気が付いて慌てて本を開いた。
どこまで読んだか指で追いながら目的の行を探していると、誰かが昴の正面にある椅子を音を立てて引いたことに気が付く。
何処かで椅子が足りなくなったのだろう、許可を仰がれると予想して昴が顔を上げた先にはマットが痛々しい笑顔で、血液と見誤るほど悲しげな涙を浮かべて腰をかけていたのだ。
「何の連絡もなく逃げるなんて、よくそんなこと、できたね。」
どうやらマットは怒りに震えているらしかった。あの徹夜明けの朝からまるで日を空けずに渡航したのだ、それもそうかと昴はこの状況下でも淡々と思考を巡らせている。
もう始まっているはずのツアーはどうしたのだろう。アメリカに来るだけのスケジュールが空いていただろうか。
昴は思考を一度停止し、開いていた本をゆっくりと閉じてラップトップの上に重ねて置いた。
がらんと空いた両手の居場所がなくなって、そのまま指と指を組み合わせてマットの顔を真っ直ぐに見据える。
「誕生日も祝えなかった。」
マットの方は許すもんかといった表情でブルーグリーンの瞳を真っ赤に充血させながら、昴にその怒りという怒りをぶつけていくことにしたらしい。
「行ってらっしゃいも言えなかった。」
返事や謝罪や言い訳を待つつもりはないようで、ひとつずつ投げ掛けられる彼のやるせなさと憤りを昴は組んだ指を固く締めながら聞き入っている。
「ツアー初日も見てもらえなかった。」
とうとう涙が飽和してこぼれ落ちて来たが、マットはそれに構う余裕もなく昴への決死の講義を続けている。
「昴くんのために、昴くんがいたから僕は歌ってこれたのに。これじゃ何の意味もない。」
バカヤロウ、と声にならない声で昴の目を一度睨みつけたっきり、マットは俯いて涙と鼻水を一生懸命拭い始めた。
鼻で一度深い溜息をついた昴は椅子に背を預け、参ったなという顔で周りを伺う。昼にはほぼ満席だったテラスにはもうほとんど客が見当たらなかった。
「マシュー」
ラップトップや本を掻き分けて、昴はテーブルに上半身を乗り出した。腕を伸ばし、掌を開いて天に向けてマットに差し出す。
「マシュー。」
鼻をすするマットは、数分前から一転して顔を上げようとしない。昴は、困ったなと鼻先を掻いてマットの顔を覗きこもうとする。
「マット、きみがそうしたいならそのままで良いけど、俺の話、聞こえてる?」
昴は座っていた椅子を引き、頑なに俯いたままで未だに涙が止まっていない様子のマットの足元にしゃがみ込む。
繋ごうとしていた彼の手を探すが左右の両方ともがマットの目元にあてられていたせいで、昴はマットの太腿と腰に腕を伸ばし手を添えた。
昴がマットの顔を下からどうにか覗きこもうとしたが、マットは昴が彼を見上げている位置とは反対側に顔を向け、聞こえてる、と小さなハンドタオル越しにくぐもった声を出しただけだった。
「マシュー、俺、もう34歳だろ。今まで、本当の恋愛なんて全然分からなくて、分からなくてもいいと思ってた。」
マットは首を捻れるだけ捻った状態で向こう岸をむく、黙りこくったままだ。
「人を心から愛せなかったのは、傷つくのが怖かったからじゃなくて、誰でも良いわけじゃなかったからだ。でもな、マット。こんなにも誰かを愛おしいと思うのは、俺、初めてなんだよ。」
34にもなって・・・とマットは涙声のまま喉の奥で笑いながら、ゆっくりと昴に向き合った。昴は心から安堵し、肺の奥から深い息を吐く。
昴は椅子に座るマットに向かって、跪いて両腕を広げる。自嘲して笑う昴の腕にマットは大人しく収まり、自分のとは確実に異質な昴の背中に腕を回した。
「そうだよ、34にもなって初恋だ。馬鹿げてる。笑えよ」
愛すべきひとの背中を宥めるように撫ぜながら、昴は忌々しかった太陽に細めた眼を向ける。
遮光カーテンをまた買い損ねたことを思い出したが、もうあんな下らない毎朝の出来事にいちいち苛立つのはやめようと、昴はマットを腕に抱きながら決意したのだった。
