キリスト者としてこの世をどう歩んでいくか。
修道院に入って生活するのでない限り、
自分の子供にそれを示し教えないと、
子供はこの世をどう渡っていけば良いかそのモデルがなくなってしまう。
教科書はどうやって読めば良いのか、
因数分解をする意味はどこにあるのか、
またこの世の文書とどう接すれば良いのか・・。
そういう意味で大学その他で専門的な各種の学問の学びをすることは、
信仰的にも大きな意味がある。
それによって与えられる試練こそが大事だ。
だがその試練の中でどう歩めば良いのかが分からなければ、
それはただの罠にしかならない。
この世の中で歩む中で、聖書の言葉の意味が迫ってくるということがある。
いや、むしろそういうこの世の人たちのために聖書は記されたのであって、
研究対象として提示されたのではない(聖書の研究はそれとして意味のあることだが)。
荒野の中での40年の歩みの中で旧約の民は試練試みにあい、
その中で信仰が試されていった。
ユダヤに王国を築いた後も、神はイスラエルを、
周辺民族、また同じ民族の中での様々な人生劇を通して、
彼らの信仰を試みられていった。
それによって彼らはその信仰のあり方を確立していことが出来た。
何が主の御心なのかを知っていったわけだ。
それは単なる知識ではない。肉削がれる体験に基づく知識だ。
聖化の歩みはクリスチャンにとって、今もなお、
試練試みを通してもたらされる。
それらを感謝して受け取ること。
またその中で信仰の歩みを子供達に示していくこと。
親の務めがそこにある。