聖書には文体がないからダメ、と昔、
戦後日本の左翼思想を先導した吉本隆明さんが仰った。

 マタイのことをマタイと呼ぶと、キリスト教的引力に引っ張り込まれるからと、
「マチウ」と造語で呼び替えたくらいの人だ。
それだけ「独自の思想」を形成することに前進された。

 実際今も、日本の左派言論人は彼の少なからぬ影響下にある。
その彼が「聖書には文体がない」と言ったのだから、
聖書はその点で、かなり貶められて今に至っている。

 聖書を記したパウロやルカその他の記者たちには、
それぞれに特徴的な言葉遣いというものがある。
それは神学校で専門的に学ばないと浮かび上がらない視点かもしれないが、
少なくともそれぞれの文書の特徴というものはある。
だがそれと、吉本氏の言った「文体」とは、
別のレベルの話と言える。

 吉本氏のいう「文体」とは、言葉の息遣い、
生きた思想、この世や生活にに接点のあるものとして無視し得ないもので、
それは彼の文学論の決定的に重要な視点だ。
それはこの世を革命し続ける力ある言葉を重視した彼の立場として敬意に値する。

 だがヘブライ的な文書の聖書にとって大事なことは、
その語りの方法論だ。
それを読み取らないと、
聖書の読解は答えまた出口のない字義解釈の隘路に落ち込む。

 聖書に文体を読み取らなくても良い。
もしその視点に立てば翻訳論にしかならない。
でも、聖書の語りは決して、見失ってはならない。
それは聖書が根本的には、神の語り掛けを与える文書として記されているからだ。