直木賞作品は読むけど、芥川賞作品は意図が分からないので読まない、
という方は結構いる。直木賞作品ではないにしても、
読んで楽しいかどうかということを基準に読み物を選ぶ方がいる。
直木賞作品は娯楽、とは言わないけど、
自分に引きつけて読むことのできる小説というものは確かにある。
またそのような読まれ方を意図した作品もまた確かにある。
私が出来るだけ、芥川賞作品、
特に同時代に記される文学作品を読むのは、
自分と同じ歴史の空気を吸っている人がどのようなものの考え方をして、
どのように受け止めているのかということに関心があるからだ。
自分の思いや偏見から自由になりたいと常に思っているためだ。
実のところ聖書というものも2つの読み方がある。
1つは、自分に引きつけて読もうとする読み方。
記されているものが自分にとって何を意味するのか、
ということを第一として読む読み方だ。
聖書は究極的には人間の心の罪の問題に目を向け、
それから来るものからの解放に主眼があるので、
その読み方も出来ないわけじゃない。
だけど、もしも聖書を通して、自分の心の中を探られ、
真に自分中心からのものの考え方や価値観からの解放を求めるなら、
聖書がそもそも、何を言わんとしているのか、
ということを読み取ろうとすることが求められる。
つまりはその趣旨を読み取るある種の知的労働が必要だ。
聖書の研究、またそれを背負う神学校は、
少なくとも聖書の学びという点で言えば、
上記の働きのための自己研鑽の機会と導きを提供する場所だ。
自己流で聖書を読んでいては必ず壁にぶつかる。それを乗り越えるためには、
地味な聖書の釈義に基づく自己研鑽が必要であるというわけだ。