プロテスタントの聖化論の貧しさ・・。
日本中にある各種神学校で聖書を専門的に学ぶ機会が、一度でも与えられた人なら、
それがどれだけ文献に乏しいかを感じた事があるだろう。

 プロテスタントはルターの宗教改革に始まった。

 カトリックの行い主義に陥った歴史を鋭く突いた。
カトリック側にはカトリック側の言い分があるのかもしれない。
ただ、それがどのような言い分なのかは、
私は説明を受けたことも自分で理解したこともない。
でも少なくとも、当時のカトリック教会が腐敗していたことは紛れもない事実だ。
・・そこでルターが信仰義認の教理を全面に打ち出したことは歴史的に大きな意義がある。

 だがそこからプロテスタント教会のある意味の試練が始まった。
さて、信仰義認は良いが、義とされた人がどのようにして変えられて、
その歩みを変えていくのか・・。
神学的にはすぐそこに、カトリック教会の行い主義が待ち構えている・・。

 結局プロテスタント派はそこで、
神学的な意味での聖化についての議論を一般の議論、
すなわち社会学や文献学に委ねてしまった。
すなわち聖化に基づく良き働きについての議論が、
神学から離れて議論されるようになってしまった。
一般の律法学、すなわちヘーゲル、カントに代表される倫理学に舞台を移した。

 他方、社会科学の分野ではマックス・ウェバーが
『プロテスタンティズムと資本主義の精神』で描き出したように、
プロテスタントにおける「良き働き」についての理解と実践が、
実のところ資本主義社会の土壌を用意したという分析を導いた。

 そう、結局のところ、プロテスタントの聖化論は、
ヘーゲルやカントに代表される倫理学や、
「良き働き」についての社会科学の分析にとりかえられたわけだ。

 でも実際のところ、この線でプロテスタントの聖化論を論じるというのは、
とても難しい話だ。
少なくとも西欧のキリスト教を背景とした言論文化が無くしては空論に近い。
日本語で聖化論を論じることの困難さがここにある。