聖書を読めば知恵がつく。基本、私の聖書の読み方の土台は、
このような信仰による。
知恵を求めるのが主眼なのではない。
そうではなくて、聖書をしっかりと読めば、
知恵は自ずとついてくる。そういう信仰だ。

 だけど実際のところ聖書というものは、面白いもので、
知恵を得ることとはまた別の筋道があり、

自分の主観や個人的な黙想だけで読み込むということも、

できる書物なのだ。
でもそれでようやくにして到達する真理は、
歴史上、すでに何百年も前に明らかれされたところの、
聖書の光の1つに過ぎなかったりする。

 だから聖書を学ぶものは、苦労しても、
少なくとも西洋の神学書を日本語である程度読み込めるくらいに、
知的な努力をしないといけない。

 また個人的に読み込めば一定の真理に到達するかというと、
そうとも限らない。
個人的に聖書を読み込もうという魂胆であれば、
創価学会の池田大作さんや、
幸福の科学の大川隆法さんがいくらでもやっている。
何と日本を代表する新興系の宗教は、
実際のところ聖書の個人的な読み込みから生じてきている。
このことは、どんなに強調してもしたりないくらい大切なことだ。

 聖書の言葉はどれも趣旨のあるものだ。
それを読み解かないといけない。
オープンテクスト理論で作者の不在が前提の読解論では、
決して聖書の真理は開かれない。
そして大文字の作者である神を見失った神学また思想はどれも、
ニーチェに至る(ニーチェは現代思想の親玉だ)。
そこに希望はない。

 ニーチェは聖書の「隣人愛の教え」を批判して、
「遠人愛」を説いた。だけどイエスのいう「隣人」とは、
そもそもがニーチェが言わんとしたような遠人のような存在だ。
イエスはパリサイ派にとっての隣人の問題をそのように捉えた。
ニーチェがいかに聖書を曲解し自己流で読み解いているかの象徴的な論点だ。

 聖書を個人的な読み込みから回避するには、
それなりの知的な努力がいる。
その努力に割く時間は決して裏切らない。