いかにして頭、もとい心並びに関心を、
新鮮な状態に保つか。これが結構、難しい。
クリスチャンは日々、いろいろな形で聖書の言葉に触れる。
子供に教えたり、教会のメッセージを聞いたり、
デボーションをしたり。
信仰生活を始めたばかりは、聖書の教えの全体が気になる。
これが本当に、信じるに足りる内容だろうか、と。
何しろ教会に献金をするんだ。
信頼するに足りない教えにお金は支払えない。
しかもクリスチャンの信仰生活では、
収入の10分の1くらいは教会に捧げることになるから、
これは安易な話ではない。
そして聖書の全体に関心を持ち始める。
だけどそのうち、それなりに聖書の内容に通じ始めると、
行き詰まりが生じる。ある程度知識として聖書を知ると、
今度は、そこに新しい情報を得ることが難しくなるからだ。
だから次には、聖書の言葉を、どのように自分の生活や生き方、
働きに生かそうかと、試行錯誤を始める。
自分のありさまをどのように、
聖書的にたてあげようかと苦労し始めることになる。
でも、その苦労こそが、聖書の新しい読み方になってくる。
自分の罪の問題はもちろんのこと、固まりまくった人間関係に、
どう、聖書で切り込むのか・・。これは一筋縄ではいかない話だ。
でも、少しずつ、聖書の言葉が肉となる歩みを始めるなら、
聖書の言葉は、日々の糧となる。
日々の新しい歩みを生み出す源となる。