いい文章を書きたいと思う。だけど、
内容は自分に関心のあることであって、まず、
人が関心のあることを書こうという気持ちには至らない。
仕事で書いているのではないからそれで良いのではないかと思う。

 だけど、読み手にある関心に基づく文章ではないのであるから、
少なくとも文章としての構成ということを意識したいと心がけている。

 結局、新聞であれ聖書であれ、
世に流れる情報を読み取り秩序づけるには、
まずは知的な訓練として、

構成によって整えられた文章を読むしかない。
断片的な未編集の情報は、情報とは呼べない。

 カトリック教会は、世界に張り巡らされた情報網を持つ、
というが、情報網ならそれなりの国の外務省ならもっている。
だけど、多くの国になくてカトリック教会にあるのは、
しっかりと自分の立場に立って編集された情報なのだ・・。
だから価値がある。

 聖書は、およそ文章の構成という点では、
破格の多様性をもっている。それを読み取るのであれば、
どんなに聖書を読んでも、知的に混乱することはない。
だけどしばしば、断片的な未編集の情報を、
そこに読み込んでしまう。
だから聖書を読むことと知恵を持つことが、
両立しなくなってしまう・・。

 情報を読み取るなら、それを自分なりに編集し直すこと。
そうして初めて情報は情報として機能し始める。
自分に与えられるものを、
今後もそのように読み解いていきたいと思う。