聖書を読むということ、また聖書が自分にとって、どういう意味を持つかということ、それは、
人それぞれの人生の経験の中で開かれていく世界だと言える。
私も、聖書を専門的に、少なくとも学問的に学ぶことの出来る、
日本では数少ない神学校で学んでいたときは、
私にとっての聖書の世界は、実のところそれほど広くなかった。
むしろ、聖書を単純に記事として読んでいただけだ。
聖書を組織だって読む組織神学、聖書の各巻の特徴、
背景を詳細に学ぶ聖書神学、
ヘブライ語やギリシャ語から聖書を学ぶ語学など、
色々な方法で聖書を読む訓練を受けたが、
それだけでは聖書の世界は開かれない。
人生経験というものがあってこそ開かれる、
それが聖書の世界であるということを知ったのは、
神学校を卒業してからだ。
神学校という場所は、自分で聖書を学んだり、
研究したりする方法論を学ぶ場所だ。
あくまでもその方法論だ。それが習得出来るようになれば、
むしろ神学校という場所は、その役割をほとんどの部分、
無くしてしまう。あとは、教派的な意味合いが残るだけだ。
つまり神学校は、卒業してからそこで学んだことが意味を持ち始める。
そのことをようやくになって私も理解しはじめ出したところだ。