ウガンダの学校が再開されて、2週間が経ちました。今回は、この2週間学校生活を見てみて感じた、日本とウガンダの学校の違いをまとめてみました。


自分の中でウガンダ流が「当たり前」になってしまう前に、新鮮に驚きを感じている間に、その感覚を記録しておきたいと思います。

※また不満のような文章が多くなってしまいましたが、僕が感じた個人的な感想です。ウガンダの学校すべてが同じとは限りませんし、僕の感覚こそが正解だ、と言いたいわけでもありません。現時点で感じていることをまとめただけのものだとご理解ください。


  時間を守ること

日本の学校では当たり前に鳴っているチャイムですが、こちらの学校では鳴りません。代わりに、木にぶら下げられている車のホイール?を、生徒が石でたたいて合図を出します。当然時間はまちまち。


チャイム代わりがこれ

その合図が鳴ったからと言って、生徒たちが急いで教室に戻るわけでもありません。そのままおしゃべりや遊びを続けている生徒がほとんど。合図を聞いて教室に向かう生徒たちも、ゆーっくりと歩いています。

それもそのはず。先生たちも同じような感じなのです。時間になっても合図が聞こえても、職員室でおしゃべりしていたり、寝ていたり。20~30分経ってようやく動き出す先生もいました。これでは生徒も、時間を守ろうという気にはなりません。

開始が遅い分、授業が終わるのも遅れます。ウガンダの学校には1時間ごとの休み時間はありません。1~3時間目が続けて行われ、30分のブレークタイム。4,5時間目の後にランチタイム。6,7時間目の後に15分のショートブレークを挟んで8時間目、というのがこちらの基本的な時間割。


ちなみに時間割は手書きです

合図が鳴るのはブレークやランチタイムの始めと終わりだけです。なので、続けて行われる授業の切れ目はあいまい。遅れていった先生が長いこと授業をしているせいで、次の先生の授業が短くなる、なんてこともしばしば起こります。

この前はランチタイム前の授業が延びたらしく、2時からの僕の授業に生徒全員が集まったのは2時半を過ぎていました。

日本ではチャイム着席が当たり前。何ならチャイムで開始、チャイムで終わり、というくらい時間の管理は徹底していました。


でも、国が違えばそれすらも当たり前ではなくなるのだな、と痛感しています。でも、「時間を守る」ことの大切さって教えなくていいのだろうか?

  ルールを守ること

学校にはブレークタイムにおやつを買える売店があります。生徒たちは毎回長蛇の列を作っておやつを買っているのですが、列に割り込む子も。


これならまだ短い方です


日本であれば、それを見つけた先生が注意して並びなおさせると思うのですが、こちらの先生方は見て見ぬふり。並んでいる生徒は文句を言っているのに…

服装もそう。一応、シャツはしまわなければならないという決まりのようですが、シャツを出している生徒がいても(そんな子ばっかり。そもそもシャツ脱いじゃう子もいる)注意する先生は一人もおらず…


日本の校則は、確かに厳しすぎると思います。不要な決まりもたくさんあります。でも、「ルールを守る」という感覚は大切ではないでしょうか?

こんなにルールがないがしろにされていて、それを指導もしなかったら、「ルールを守る」ということの大切さを学習できないのでは?と不安になりました。

  教室をきれいにすること

ウガンダの学校では週に2回、「クリーニング」が時間割に組み込まれています。また、ショートブレークの時間には、生徒たちが教室掃除もしています。

でも、教室も校内も一向にきれいになりません。なぜなら…

先生も生徒も、ポイ捨てが常識だから。おやつの包み紙は校庭にポイ。飲み終わったペットボトルもポイ。授業中にインクが切れたボールペンも窓からポイ。


昔捨てられたのであろうボトルキャップが地面に埋まっている、なんてのもざらに見る光景です。

100歩譲って、バナナの皮とかならわかります。土にかえるだろうから。でもペットボトルとかボールペンとかはどうなんだろう?

「割れ窓理論」という考え方があります。割れた窓をそのままにしておくと、「この建物では悪さをしても大丈夫」と思われて割られるガラスが増え、そのうち建物全体も荒れてしまうという理論です。

日本で掃除をさせる際には、この理論の話もして、「だから教室はきれいにしないといけないし、自分のうちもきれいに使わないといけないのだ」と伝えていました。

ポイ捨てがなくならないのは、誰か(先生も含めて)がポイ捨てをするから。みんなが「ゴミ落ちてるし、ポイ捨てをしても大丈夫。」と思っているから。まさに割れ窓理論のとおりですね。

掃除の活動を通して「学校をきれいなまま使おう!」という気持ちを育てることもできるのでは?と思うのですが、あくまで掃除=ただのゴミ拾いであって「きれいに衛生的に学校を使おう」という気持ちを育てるためのものではないようです…


  黒板を写すこと

こちらの先生方の授業は、大量の板書をして生徒がそれを書き写すというスタイルがほとんど。


一人一冊、教科書が配布されているわけではないため、仕方ないことではあると思います。


たくさんの情報がノートに書いてあれば、教科書代わりにノートを呼んで勉強するということができるので。

でも授業をしていて感じるのは「板書を写すこと」が授業の目的になってしまっているということです。

僕が担当しているのは算数なので、たくさん計算してほしいし、頭を使って考えてほしい。でも生徒たちは「黒板を写すこと」に忙しくてそれどころではない。

問題文は写さずに式と答えだけ書けばいいよ、と伝えても、全部写さないと気が済まないのか、全部写す子がほとんど。

結果練習問題は時間内に終わらず、誰かが言った答えを写して終わり。これでは「自分で考える力」なんて身につかないな、と悩んでいます。

黒板を写すことに集中しすぎて話を聞いていない、という問題も起きています。他の先生の授業を見ていても、先生が説明している間も黒板を写している生徒がほとんど。

黒板を写すときは黒板を写すことに集中する。先生の話を聞くときは聞くことに集中する。問題を解くときには考えることに集中する。というように、気持ちを切り替えながら授業を受けるということも、ここでは難しいようです。

日本では当たり前に求めていた切り替えも、全然当たり前のことではありませんでした。すんなりと協力してくれていた日本の生徒たちに感謝しなくては。

また小学校から(もしかしたら幼稚園や保育園から)こうした切り替えのトレーニングをしてきたから、日本ではこれを当たり前にできるのだろうな、とも思いました。改めて日本の教育のすごさを実感しています。

  体罰について

日本の学校では禁止されている体罰が、ウガンダの学校では当たり前に行われています。


少しずつ減ってきているようですし、中には「俺は体罰は嫌いだ。話せばわかるはずだ。興味を引く授業をすれば生徒は聞く。」と言っている先生もいました。


でも、残念ながら未だに体罰に頼っている先生がいるのも事実。

 僕の授業で生徒がなかなか静かにならなかった時、授業後に数名の生徒に「なんで静かにできないんだろう?」と聞いてみました。すると「先生は叩かないし叩き方を知らないと思っているから」との答えが…

しかも次の時間にその教室に行くと、生徒から体罰用の棒のプレゼントが…「日本にはケツバットという叩き方があるんだ!」と笑い話にして終わらせましたが、かなりショックでした。

これほどまで「体罰」に縛られてしまっているとは。もちろんその棒、僕はまだ使っていませんし、使うつもりもありません。



国が違えば文化も「当たり前」の感覚も違う。それは理解できるのですが、世界中の学校が共通して教えるべき「大切なこと」もあるのでは? 

例えば時間を守るとか、ポイ捨てしないとか。人の話はちゃんと聞くとか。こういう価値観が大切と思ってしまうのも、日本人だからなんだろうか。

学校が教えるべき「大切なこと」って何だと思いますか?




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