昨年10月、坂入健史郎の指揮、新交響楽団の演奏で、ブルックナーの4番などを
聴かせてもらったが、アマチュアシップで全身全霊を注ぎ込む熱演であった。
今回(4/19)は、ゲストにオルガニストの石丸由佳、ピアニストの松田華音を迎え、
サントリーホールでコンサートを開催。
新響を生み育てた芥川也寸志、そして縁のある、もう2人の作曲家の手になる演目に挑む。
楽団運営に多々苦労もあろうと思うが、その意気やよし。
芥川也寸志のオルガンとオーケストラのための「響」
サントリーホール落成を記念して「響」が書かれた当時、
渋谷を遊び場とし、1,000円の学生券でNHKホールに通っていたワタシにとって、
赤坂、六本木はオトナの街で、サントリーホールはハイソなイメージがあった。
30年以上前、ここでアマオケを応援している自分を想像だにできなかったが、
決してハイソではないけれども、少しはいいオトナになったのかしらんと顧みる。
オルガニストを務める石丸由佳の紹介が、新響の投稿にあった。
シャルトル国際オルガンコンクールで優勝し、ヨーロッパ各地や日本全国でリサイタルを
行っているとこと。その紹介から石丸のオフィシャルサイトで一つの動画を見つけて、
さらに10年ほど記憶を遡るとは思わなかった。
パイプオルガンの音を初めて聴いたのは、小学生の時分。
教会でもない。クラシックでもない。
テレビを前にアニメ「宇宙戦艦ヤマト」のBGMとして。
見つけた動画は、「白色彗星のテーマ」。作曲は宮川泰。
「恋のバカンス」、「逢いたくて 逢いたくて」から「アッと驚く為五郎」まで
曲風は実に幅広いのに、どれも瞬時に心をつかんでくる。脱線は、このくらい。
泰さんもいいけれど、今日の主役は也寸志さん。
先日ここで聴いたマーラーの2番では、オルガンは音の厚みを出す役割だったが、
今日は主役だ。
マルク・ガルニエ社(フランス製)の芸劇のものとスペック上の違いはあるけれど、
音響面ではそれぞれベストのオルガンを設置しているのだろうと、
ホール設計者の考えも伺ってみたいなどと思ったことが恥ずかしくなるほど、
リーガー社(オーストリア製)のオルガンを石丸がホールに響き渡らせる。
席がステージに近いのもあり、舞台からオーケストラの擦・吹・打音が立ち昇り、
天井からオルガンの風音が降り注ぐようであった。
芥川の言を見るかぎり、作曲に当たってホールの響き方を事前に確認することなどせず、
自作をホールに――指揮者、演奏者の解釈も含めて――思い切りぶつけてきたと想像する。
それは、オルガンと弦、管、打楽器との対話といったなまやさしいものではなく、
威勢を示す阿形と吽形の仁王をホールに招来させようとしたものである、
と感じさせる今回の演奏であった。
シチェドリンのピアノ協奏曲第2番
旧ソ連におけるショスタコーヴィチの次の世代の作曲家であるシチェドリンの
ピアノ協奏曲第2番。
事前に聴いておくものの、こういう響きは、前曲同様、ライブでないと理解しえない。
ピアニストを務める松田華音は、モスクワ音楽院で研鑽を積み、優等で卒業されたとのこと。
2021年NHK音楽祭でのシチェドリンのピアノ協奏曲第1番の演奏が高く評価されたとある。
今日は、ピンクのドレスに微笑みを湛えて登場。
オーケストラの序奏がなくピアノから静かに始まる協奏曲は、ちょっとない。
パッと思いついたのが、ベートーヴェンの4番。しかし、その後の展開は対照的。
松田のタッチは、どちらかと言うと硬質で、音離れがよい。
壊れそうで壊れないゼンマイ仕掛けの人形が発するような無機質なノイズから、
ないはずの奏者のアドリブさえ感じさせるクールでモダンなメロディーまで、
不協和音とジャズを巧みに交錯させる。
舞台前方、ピアニストの背後に構えたダブルベースとスネアドラム、
そして舞台後方のヴィヴラフォンもピアノとよく絡み合う。
しかし、(無伴奏で一定の長さを持つ、いわゆる)カデンツァは見当たらない。
全曲が伴奏付きのカデンツァと言ってみようか。
最後、8分と16分の和音が連続する中で少しずつ上昇していくフレーズを
オーケストラがピアノにかぶせて、もう終わりは来ないと思わせたところで、
ティンパニの一撃。
時代が許せば、ショスタコーヴィチもこんな曲を書いてみたかったのではなかろうか。
アンコールも、切れ味鋭く、推進力のある演奏であった。
ショスタコーヴィチの交響曲第4番
芥川也寸志/新響が1986年に日本初演を果たした曲とのこと。
「響」とこれだけでも十分酔えるが、シチェドリンは高級なチェイサーであった。
さて、プロアマ合同セッションを終え、新響オーケストラによる素の演目を巨大な編成で。
第1楽章
ベートーヴェンの弦楽四重奏「大フーガ」のオーケストラ版のようなプレストのフガートを
荒れることなくすっきりと聴かせたのは、“いい意味で”予想を裏切られる。
ティンパニに扇動されて金管群が徐々に音量を上げていくと、
続いて木管群がショスタコーヴィチらしい旋律を奏で、
木管のトリルと弦の三連符からシンバルが一発鳴ると、
木管とシロフォンを挿み、トランペットのリードするマーチが始まる。
何も引っかかるところのない見事な遷移。
コーラングレから、ヴァイオリン、ファゴット、再びコーラングレとソロの引継も、
各自の持ち味と技を活かして、また見事。
木管、シロフォン、金管と、ハープ、弦の狭間を淡々と抜けてゆくコーラングレがぱったりと止み、
限られた伸ばされた音だけが残り楽章を終える。
第2楽章
冒頭、ヴィオラの音色を、舞台近くで運指、ボウ使いも見ながら、じっくりと楽しませてもらう。
ティンパニの強烈な打撃の後、交響曲第5番を先取りするフレーズが
弦に続いて管で聴こえてくる。ティンパニが躊躇なく一旦終了の合図を出して、元に戻る。
木管が迷走する旋律を奏でると、再びホルンが5番のフレーズを高らかに歌い上げる。
スネアドラムとカスタネットとウッドブロックが時を刻みながら、
間に挟まれた短い、暗示に満ちたこの楽章を、震えたフルートを交えて静かに終える。
ハッタリのきかないこの楽章を、弦、管、打の実力をバランスよく発揮し、難なく形にする。
第3楽章
ショスタコーヴィチの交響曲を音楽以外の芸術になぞらえて捉えようとすると、
文学であれば、詩、物語、戯曲、小説、随筆、論説など、
絵画であれば、具象画、抽象画など多くのジャンルがあるが、
そのどれにも通じているところがあって、表現領域の広さは他の追随を許さないと言ってもよい。
しかし、その器用さは、ある時は誤解され、ある時は韜晦となる。
突如の困惑を繰り返し覚えずして、ショスタコーヴィチの曲を聴くことができるだろうか。
この第3楽章は、その典型だ。
マーラーの交響曲の影響がよく引き合いに出されるが、
例えば、ベートーヴェンの6番とは象徴するものが違う郭公の動機の引用は、
ご愛嬌のようでいて、その示唆は苦い。
また、自分の耳からすると、この楽章の最後から10分前くらいのチェロとコントラバスに
マーラーの2番の第3楽章を思い出す。
パロディはパロディでしかないが、そこを割り引いたとしても、
表現する対象の幅(多様性)はショスタコーヴィチに分があると思っている
――マーラーには深さ(個人性)に分があり、そして、どちらも長さがあると、
今日のところは逃げを打たせてほしい。
芥川也寸志とも違う大胆不敵な威勢の張り方、
シチェドリンとも違う機微に通じた機転の利かせ方など、
ショスタコーヴィチの多彩な表現と多岐にわたる対象に
坂入の実直な指揮と新響の真摯な演奏が迫り続ける。
ハープとチェレスタが、近づきつつある終わりを告げる。
弦をバックにチェレスタが響いた…祈るようにタクトが下りる。
今日は奏者との一体感がほしくて、舞台にほど近い席にしたのもあるだろう。
アマチュアリズムとディレッタンティズムは波長が合うものだと、ひとり腕を組みうなずく。
新響楽団員みなさんの演奏に感謝を込め、改めて拍手!
奏者の思いの詰まったプログラムノートに近い感想もあるけれど、
たまたまの一致もあり、発想の契機もあり、メインがショスタコーヴィチということで許されたし。
芥川也寸志はもちろん、ベートーヴェンやマーラーも楽しみにしている。
次回の予定は、大野和士/アリョーナ・バーエワ/都響で
ショスタコーヴィチとチャイコフスキー。それではまた。ごきげんよう。