日本経済新聞のマーケット総合欄にある『大機小機』というコラムを毎日楽しみにしている購読者も多いだろう。執筆者のペンネームを付すかわりに、結構、筆の勢いに任せた内容、展開が許されている。

 

 8月15日付けの朝刊では、「心理的安全性とは言うけれど」と題して、批評家にそんなものが求められているのかといった趣旨の論を張る。吉田秀和によるホロヴィッツの演奏に対する有名な論評が引用される。「この芸術は、かつては無類の名品だったろうが、今は――最も控え目にいっても――ひびが入ってる。それも一つや二つのひびではない(原文ママ)」。(1983年6月17日付朝日新聞夕刊「音楽展望」)「こういった厳しくも味のある批評がめっきり減った。相手の胸をえぐるような言葉を投げつけることがはばかられる時代だからなのか。」という執筆者、三剣氏の嘆きに激しく同意。

 

 クラシック音楽の作曲家が活躍していた時代には、曲そのものに対する批評があった。擁護もあり批判もあり、その度に作曲家が得意になったり落胆したりする様子が伝記には必ず描かれている。しかし、現代は、曲ではなく演奏に対する批評がほとんどだ。曲の書き直しは計り知れない気力を要する。挫折することもある。一方、次の演奏機会は近いうちにやってくる。その間、指揮者や演奏者は、考えを改造・強化し、技術の反省・鍛錬を重ね、再起・挽回を図る、さらには称賛を勝ち得ることができる。にもかかわらず、三剣氏の嘆きや音楽評論の商業化といった社会と経済の変化が、この国の芸術をダメにしていくのだろうか。プロ批評家に見識と勇気あれ!

 

~例えば、シューマンによる音楽評論、『音楽と音楽家』(吉田秀和訳)

 

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