主人公の佐伯透は、四十三歳。児童相談所で働いて十六年になる。
虐待、ネグレクト、非行、家出。家庭という場所が必ずしも子どもを守る場所ではないことを、透は仕事を始める以前から知っていた。
透自身、そういう家で育った。
父親は酒を飲むと荒れた。母親は父の機嫌を損ねないことだけに神経を使い、子どものことを見る余裕を失っていた。夕食がない夜も珍しくなかった。
中学生のころ、透にはよく一緒にいた少女がいた。
水野美沙。
同じ団地に住んでいた。
美沙の家も似たようなものだった。父親はいなかった。母親には男が何人も出入りしていた。夜になると、美沙は家に帰りたがらなかった。
二人はよく、団地の裏手にある小さな児童公園で時間を潰した。
ブランコに腰掛けながら、別に将来の夢を語ったわけではない。
「あんたんち、今日大丈夫?」
「たぶん」
「うちも、たぶん」
それだけで互いにだいたいのことが分かった。
学校の教師にも、友人にも言えないことを、二人は詳しく説明する必要がなかった。
貧しいこと。
親を憎みながら、完全には憎めないこと。
家に帰りたくないのに、帰る場所がそこにしかないこと。
そうした感情を二人は共有していた。
高校に入るころから、二人の道は少しずつ分かれ始めた。
透は勉強した。
理由は単純だった。
ここから出たかった。
大学へ行けば何かが変わると思った。資格を取り、まともな仕事に就き、あの団地から遠く離れれば、自分は別の人間になれるような気がした。
美沙は違った。
高校を一年で辞めた。
透が大学受験の問題集を解いているころ、美沙はスーパーで働き始めた。
そのころから二人が会う回数は減った。
十九歳の冬、最後に会ったとき、美沙は透に言った。
「透はいいよね」
責めるような口調ではなかった。
だからこそ、その言葉は長く残った。
「頭いいし」
「そんなことないよ」
「あるよ」
美沙は煙草を消した。
「あたしは、ここから出られないから」
透は何も言えなかった。
出られない人間などいない、と言うこともできた。
努力すればいい、と言うこともできた。
だが、それを口にすれば何か決定的なものを裏切るような気がした。
それから二十年以上、美沙とは会わなかった。
*
その少年が一時保護所へ来たのは、十一月の雨の日だった。
十四歳。
中学二年生。
名前を水野悠斗といった。
学校から通告があった。
長期間の欠席。母親との激しい口論。近隣住民から何度か怒鳴り声を聞いたという連絡。そして、その日の朝、悠斗が母親を突き飛ばし、家を飛び出した。
警察が保護した。
担当職員から書類を渡され、透は何気なく保護者欄を見た。
水野美沙。
最初は同姓同名だと思った。
住所を見た。
かつて自分が住んでいた町だった。
透はもう一度、母親の生年月日を見る。
間違いなかった。
二十数年前、公園のブランコに並んで座っていた美沙だった。
透はしばらく書類を閉じることができなかった。
「佐伯さん?」
若い職員に声をかけられた。
「ああ」
「知ってる家庭ですか」
透は一瞬迷った。
「いや」
そう答えた。
その日の夕方、透は面接室で悠斗と向かい合った。
少年は痩せていた。
長く伸びた前髪の下から、鋭い目で透を見ていた。
腕を組み、椅子の背にもたれている。
「帰りたい?」
透が尋ねた。
「別に」
「学校は?」
「行かない」
「どうして」
「意味ないから」
透はその言葉に聞き覚えがあった。
二十年以上前、美沙もよく似たことを言っていた。
――学校なんて意味ない。
――勉強して何になるの。
少年の声の中に、美沙の声が混じって聞こえた。
透は無意識に悠斗の顔を見つめた。
「何」
悠斗が言った。
「いや」
「さっきから変なんだけど」
「ごめん」
沈黙が落ちた。
しばらくして悠斗が言った。
「母ちゃん、俺のこと何て言ってた?」
「まだ詳しく話してない」
「どうせ俺が悪いって言ってんだろ」
「そうは決めつけられない」
「大人ってそういう言い方するよな」
透は少し笑った。
「仕事だからね」
「くだらねえ」
悠斗は窓の外を向いた。
その横顔を見ながら、透は奇妙な感覚に襲われていた。
目の前にいるのは美沙の息子だった。
だが同時に、十四歳のころの自分自身を見ているようでもあった。
もし自分が勉強をしなかったら。
もし大学へ行かなかったら。
もし、あの町から出なかったら。
自分はこの少年のようになっていたのだろうか。
その考えが浮かんだ瞬間、透は自分を恥じた。
まるで大学へ行った自分だけが正しい道を選び、美沙が間違った道を選んだような考え方だった。
児童福祉の現場で十六年働いてきた。
家庭環境が人間の人生にどれほど大きな影響を与えるか、誰より知っているつもりだった。
それなのに美沙のことになると、心のどこかで思っていた。
自分は抜け出した。
彼女は抜け出さなかった。
その差は何だったのだろう。
努力なのか。
能力なのか。
運なのか。
あるいは、自分だけが偶然、細い梯子を見つけただけなのか。
*
三日後、美沙が児童相談所へやって来た。
透は担当から外れることも考えた。
過去に親しい関係があった保護者である。
本来なら、その方が適切だった。
だが上司に事情を説明するためには、美沙との過去について話さなければならない。
透は躊躇した。
結局、同席することになった。
面接室の扉が開いた。
最初、透には美沙だと分からなかった。
髪には白いものが混じっていた。
頬は痩せ、化粧気もほとんどなかった。
だが目だけは変わっていなかった。
美沙は透を見た。
立ち止まった。
「……透?」
職員たちが二人を見た。
透は静かに頭を下げた。
「久しぶり」
美沙は笑わなかった。
「何で、あんたがここにいるの」
透は答えた。
「ここで働いてる」
数秒の沈黙があった。
美沙は椅子に座った。
「そう」
そして、小さく笑った。
「やっぱり、ちゃんとした人になったんだ」
その言葉を聞いた瞬間、透の胸の奥で何かが痛んだ。
二十年以上前。
十九歳の美沙が言った。
――透はいいよね。
あのときと同じだった。
面談が始まった。
悠斗の生活。
学校への不登校。
家庭での衝突。
経済状況。
美沙はほとんど表情を変えずに答えた。
スーパーと清掃の仕事を掛け持ちしていること。
朝早く家を出て、夜遅く帰ること。
悠斗が小学校高学年から学校へ行かなくなったこと。
父親とは十年前に離婚し、それ以来ほとんど連絡がないこと。
「叩いたことはありますか」
担当職員が尋ねた。
美沙は黙った。
「あります」
「いつごろですか」
「小さいころから」
「頻度は」
「分かりません」
「最近は?」
美沙はしばらく黙ったあと言った。
「この前、殴りました」
透は美沙を見た。
美沙も透を見た。
その目には、言い訳を求める様子はなかった。
「最低だと思ってる?」
突然、美沙が言った。
担当職員が戸惑った。
透は答えなかった。
「ねえ、透」
「今は個人的な話をする場じゃない」
「そういうところも変わったね」
美沙は笑った。
そして言った。
「あたしたち、親に殴られて育ったじゃん」
部屋が静かになった。
「あたし、絶対同じことしないと思ってた」
美沙の声が少し震えた。
「ずっと思ってた」
透は何も言わなかった。
「あんな親にはならないって」
美沙は膝の上の手を握った。
「でもなった」
そのとき初めて、透は美沙の人生を、自分が想像したことがなかったことに気づく。
大学に入り、東京へ移り、資格を取り、児童相談所に就職した。
その間、美沙にも二十年以上の時間が流れていた。
恋をして、結婚をして、子どもを産んだ。
働いた。
離婚した。
一人で息子を育てた。
そして、自分が最も嫌っていた母親に少しずつ似ていった。
透は美沙から逃げたのではない。
自分の過去から逃げたのだ。
だが美沙は、その場所に残された。
そう考えた瞬間、別の疑問が生まれた。
では、自分は本当に過去から抜け出したのだろうか。
児童相談所という仕事を選んだことさえ、あの団地からずっと逃げ続けた結果ではなかったのか。
毎日、他人の家庭を救おうとしている。
だが十四歳だった自分を救うことだけは、一度もできていない。
面談が終わり、美沙が立ち上がった。
扉のところで振り返った。
「悠斗に言わないで」
「何を?」
「あたしたちが昔、友達だったこと」
「どうして」
美沙は少し考えた。
「恥ずかしいから」
「何が」
美沙は答えなかった。
扉を開けてから言った。
「あの子には、あたしみたいになってほしくない」
透はその言葉を聞きながら思った。
かつて美沙も、おそらく自分の母親から同じことを願われていたのではないか。
そして自分自身もまた、父親のようにはならないと決めて生きてきた。
人間は、嫌った人間から逃げながら、知らないうちにその人間の形を引き継いでいく。
親から子へ。
子から、そのまた子へ。
では、その連鎖はどこで切れるのか。
数日後。
透は悠斗と二度目の面接をした。
悠斗は突然言った。
「佐伯さんってさ」
「何」
「昔、貧乏だった?」
透は驚いた。
「どうして?」
「なんとなく」
悠斗は机を見ながら言った。
「あんた、たまに俺の言ってること分かってる顔するから」
透は答えなかった。
職員として、どこまで自分のことを話すべきなのか。
迷った末に言った。
「君くらいのころ、家に帰りたくない日がよくあった」
悠斗が顔を上げた。
「虐待?」
「その言葉を当時は知らなかった」
「今なら?」
透は少し考えた。
「たぶん、そう呼ばれると思う」
悠斗はしばらく透を見ていた。
「じゃあ、なんであんたは普通になれたの」
透は答えようとして、言葉を失った。
普通。
自分は普通になったのだろうか。
大学へ行った。
仕事を得た。
結婚もした。
社会から見れば、きっとそうなのだろう。
だが、そのために自分が捨ててきたものはなかったのか。
美沙との関係も、その一つではなかったか。
「分からない」
透は言った。
悠斗は意外そうな顔をした。
大人が「分からない」と言うとは思っていなかったのかもしれない。
「ただ」
透は続けた。
「一人でそうなったわけじゃないと思う」
悠斗は黙っていた。
透自身、その言葉の意味を考えていた。
教師。
奨学金。
大学。
偶然出会った人々。
制度。
そして何より、中学生のころ、自分の境遇を説明しなくても理解してくれる少女が一人いた。
美沙。
自分があの家で完全に孤独にならずに済んだのは、美沙がいたからではなかったか。
もしそうなら。
自分は美沙を置いてきたのではない。
美沙から何かを受け取って、ここまで来たのだ。
その借りを返すために、彼女の息子を救う。
そう考えた瞬間、透はすぐにその考えを否定した。
それも違う。
悠斗は、美沙への恩返しのために存在しているのではない。
彼は彼自身の人生を持っている。
救う、という言葉さえ傲慢なのかもしれない。
できることがあるとすれば、彼が自分の人生を選べる地点まで、一緒に立つことだけだった。
「悠斗」
「何」
「君は、お母さんとは違う人間だよ」
少年の眉がわずかに動いた。
透は続けた。
「でも、お母さんも、おばあさんとは違う人間だったはずなんだ」
「意味分かんない」
「僕もまだ分からない」
透は言った。
「だから、一緒に考えよう」
悠斗は窓の外を見た。
しばらくして、
「そういうの、うざい」
と言った。
だが以前のように、完全に拒絶する声ではなかった。
透はそれ以上何も言わなかった。
窓の外では、冬の弱い光が、一時保護所の庭に差していた。
透はその光を見ながら、自分の人生が二十数年ぶりに、あの団地の児童公園へつながったような気がしていた。
過去は終わったものではなかった。
それは形を変えながら、現在の中に生き続けている。
そして現在で何をするかによって、過去の意味さえ、少しだけ変わるのかもしれなかった。