将来、僕は、Padre?それともpastor?になる??
今までの生きて来た過程の中で、生活歴や環境、主との出会い方やその他諸々を考えて見るとどう見ても、そう導かれているように思える。
点と線を結ぶと行き着くのが、そうだからだ…。
今は、不良キリスト者であり、うつけキリスト者、チャランポランキリスト者である。
今まで、多くの原罪を犯してきた…。
とてもじゃないけど、今の僕の信仰では有り得ない話だ。
で、これからの仕事と信仰に向き合う時間を考えると、どうしても信仰が僕自身の心と体に根付き、心から悔い改めをして敬虔なChristianにならざろう得ない。
自分から、願ってこのような環境に身を置くような事はしていない…。
だが、結果的にそうなっているから不思議である。
当初、洗礼志願をした時は、自分の意思というものが色濃くしていた…。
だから、あまり信仰が根付いたものではないが、そうは云っても、バプテスマ(洗礼)には、必ず主の意思が働いているのも事実。
敢えて、そういう状態に放置した主の意思も感じ取られる。
今、近くに教会があり、それよりも遠い教会に通っているが、教派が違う…。
同じプロテスタントであるが…。
諸事情により、身近な教会に通う方に選択肢を主から与えられた環境とも思える。
引越して来たときは、全然意識はしていなかったが…。
去年のXmasの時期に、徒歩約5分に位置する教会のリーフレットが入っていた。
それで、改めて意識した。
丁度、今の職場で働いている中で、これからの生活を考えるに当たって、より良い職場や待遇改善を考えた時に、転職が年齢により、厳しい状況をまざまざと意識させられて、絶望したのが事実であり、今まで僕の思いのままに、好きな職業に就いてきた。
これまでの人生、やりたい事を十分にヤラせてもらった感が半端じゃない…。
全て、神様のおかげだと確信している。
だからこそ、これからの人生は、神様との応答生活を祈りを通じて行うしか生きる術が無い…。
その状況や環境にしたのも主である神様だし…。
神様との応答生活をするのも神様を知らなければならないし…。
それには聖書は欠かせない。
礼拝も近くの教会をご用意されたし…。
自分の意思で十分に歩ませてくれた事がビンビン認識したし、それに終止符を打たれたのも感じる…。
それに、自分の人生は目に見えるものや力より、目では見えないものや力の働きのほうが遥かに動いていたのも事実であり、感じていた。
そりゃあ、目に見えるものの存在感は十分にある。
だからこそ、神様に出逢えたんだけどね。
これからは、神様の為に生きる人生…。
そこには、自分の意思は無い。
与えられた人生を全うする。
だから、行き着く先はpastor?なのかな?と感じる。
それと、プロテスタントを最初に選択したが、プロテスタントが派生した背景には、カトリックの腐敗があったが、今のカトリックはそんなものは存在しない。
だから、カトリックに転向しても構わないとも感じる。
だから、題名にpastor?それともPadre?とした。
何も、この後に及んで結婚したいとも思わないからである。
何はともあれ、今後の人生は神様のご意思通りに…