きょうの1枚⑤ | 海豚座紀行

海豚座紀行

──幻視海☤星座──

これをたのしみにしているひとは世界にひとりもいないクラシック名盤シリーズ第Ⅴ弾: 「1枚」 ではなく今回はマーラーの2枚+αということになる... おくればせながら、あけましておめでとうございます。やはり年始のあいさつはしておかなければならない。ことしも土佐の海景から幕があけた。おもうさま司牡丹の美酒と極上の栗焼酎とに酔いしれたが、それはともかく──いかれまくったマーラーの転調よろしく接続助詞ひとつでのっけから話題をかえたくなる──ゆきつけの桜台二郎は年末最終日の営業がおわると、あまった生麵を販売するのが恒例になっている。わずか10分ほどで完売してしまうから開始までの長時間をまちつづけなければならないことは必至で、ながい行列にくわわって寒風になぶられる自分をこれまで想像しながら二の足をふみつづけていたが、かくごをきめて昨年末はとうとう買いにでかけた。

あんのじょうディズニーランドのスプラッシュマウンテンかというほどの行列が、はやくも販売開始30分まえから何重もとぐろをまいていた。これからしばらく寒風にさらされつづけなければならないというのに、うねる大蛇のような行列をみたジロリアンはかえって昂奮する。たまに行列もなく信じられないことに店内で空席がめだっていたりすると、ふしぎなもので味もいまいちに感じてしまうが、こんなことばかりを書いていてもしかたがない。ふたたび強引なマーラーの転調よろしく主題回帰して、おそれかしこくも宮門(みかど)に舞台をうつそう... たそがれどきがよいのではないか? ぐっとクラシック音楽も身近なものに感じられる。ここを少年のころから無数にゆききしてきた。なじみのビアホールができてからは、たそがれの皇居外苑をあるくだけでクライスラーのヴァイオリンやウラッハによる甘美なウィンナ・クラリネットがきこえてくる。


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あと数分でビル群が夜やみにしずみそうなころ大空はあぶらぎった下界の生命圏の血なまぐささから濾過された透明なコバルト・ブルーに発光して、いっぽうで皇居の壕ばかりは残照をすいこみながら血だまりのような深紅にもえあがる。ほそい首をかしげた白鳥がその水面をわたると、きょう1日もおわりをつげて、ネックレスのような黄金色の波紋にばけながら放射状にとおざかってゆく... ことさらクラシック音楽にのめりこんでいた20代のころは、このあたりにウィーン国立歌劇場やムジークフェラインのような本朝屈指のホールをたてなかった維新回天いらいの為政者たちの感性のなさに憤激したものだった。むりやり皇居をホフブルクにみたてて、いまはない三信ビルからかもされていた大正浪漫の郷愁にひたりながら日比谷シャンテをまがると、ガード下という異界にすいこまれる。そういえば三信ビルにはヌーヴェルヴァーグという安価でも上等なフランス料理店があった。シャンテの地下にあったヴェネツィア料理店もよく利用したものだが、ともあれガード下のなじみのビアホールのざわめきは帝都ウィーンの場末のふんいきにつつまれている。マーラーと邂逅したのも、このビアホール──いや過去記事にある目白のハイガイだったか? いまになって目白でやはり閉店がおしまれるのは、ボザール──かくれ家とよぶにふさわしいフランス料理店で、ひっそりと画材店の屋根裏部屋でいとなまれていた。ついでに有楽町電気ビルの地下にもひっそりとホイリゲンハウスというウィーン料理居酒屋があった。コリドー街のポップインというアイリッシュパブもなつかしい。みんな不況でつぶれてしまった。

おもいでまでもが放射状にひろがって収拾がつけられなくなるまえに、いまなお健在なガード下のビアホールに舞台をひきもどそう。ぼくはそこで友人からマーラーの交響曲第5番のCDをもらった。カラヤンがベルリン・フィルを指揮したものだった。それまでマーラーはほぼ無縁だったとおもう。クラシック初心者にとって1時間をこえる大作ばかりをこしらえた作曲家というのはハードで、なかなか手がだせずにいた。ろくにラーメンのこともわからずに二郎からいきなりトライするようなものだといったら本記事もまたもや転調をくりかえすばかりだろうが、 「巨人」 Titan も耳にしないうちから第5番はやはりハードだった。ビアホールから帰宅するや深夜のうちに大音量でそのCDをならして、きもをつぶした。おばけ屋敷にほうりこまれたような恐怖の連続/おもいもよらぬ死角からおそいかかる爆音... はらわたやバケツいっぱいの生血をぶちまけられたような感触のわるさが皮膚にこびりつく。とうてい曲の全体像をつかむことはかなわなかった。なめくじめいた巨大な円型の生物があの自動ロボット掃除機ルンバさながらに回転しながらS字にぬらぬらと蛇行するイメージがぼくの脳裡にひろがった。とおりすぎたあとには大量のどろりとした粘液が糸をひいている。しかもその生物のひらべったい頭部は、ウェディングケーキにみられる無数のろうそくの火焰をゆらめかせていた。

いまではこの曲からうけるイメージにそんな怪物性はみる影もなくなった。まっとうな後期ロマン派のスタイルで、おもしろみさえ感じない。あれからCDでも実演でも聴きこみすぎて、じっさいの凹凸も知覚しなくなった。とどのつまりはこの曲にあきた。クラシック全般にあきた。のめりこんでいた最盛期は100分におよぶマーラーの第3番のCDをいつか仕事の電話にも友だちの来襲にも妨害されずに聴きとおすことができたらと切実にねがったものだが、いまではもう30分で満腹──ひとりで音楽を聴くということに──いや映画館にひとりではいることにも、ひとりで美術館をめぐることにも、ひとりで古書街をまわることにも、なにひとつ意味をみいだせなくなった。こんにち孤独でいるということは、もっとも安直なライフスタイルのようにおもわれてならない。たえず必死にそこからはいだそうとしないかぎり現代のわれわれはむしろ孤独のその中途半端な泥沼にひきずりこまれてしまうといってもよいが、 「中途半端」 というのは現代の孤独がおよそ半世紀まえのそれと性質がことなるものだからで、ひよわな文学青年(および中年)が精神のよりどころにするそれも、こんにち規制緩和のおわらいぐさにすぎないものにかわりはてている。


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ふだんブログやtwitterをみていると、クラシック愛好家はひっきりなしにクラシックのことばかりを書いたり、つぶやいたりしている。ジロリアンは二郎の写真ばかりをアップする。どんな孤独な人間もいまやネットの回線でおびただしい他人とつながっている。ほんとうの孤独をねがうなら、さるぐつわも自分の口にかまさなければならない。そうでないなら穴だらけのビア樽とおなじで、よけいなおしゃべりで無数の他人とつうじながら、つねに生活から孤独はだだもれになってしまう。ガスぬきされまくった孤独にパワーや魅力があろうはずもない。そのくせネット上でおたがいに意思疎通することもなく、うわっつらのリプライやコメントやいいねいいね!のつけあいでお茶をにごしながら、たえず一方通行のことばをたれながしている。おたがいに聴いているふりをするだけのカラオケとかわるところもなく、みたところ文学愛好者もたえず読書のことや文学っぽい詠歎をつぶやいているが、 「ぽい」 というだけのこと──どのみち穴だらけの樽にいれられたワインが熟成するはずもなく、かれらの文章゠つぶやきには自分と音楽、自分と小説、自分と名画などとの関係があるばかりで、そばに “生きた” 他者のけはいが感じられない──いや他者がほんとうに介在しないとしたら、かれらがその生活をあげて癒着している音楽、小説、名画なども “死んだ” 素材にすぎないのではないか!?

ひょっとすると過去の偉大な名曲、名作、名画をたんのうしながら、よろこびにひたっているひとびとは、ふだん職業面でひとづきあいのわずらわしさや多忙さにうんざりさせられているのかもしれない。せめてプライヴェイトの仮想空間では自分のすきなものにとりかこまれていたいのかもしれない。ただし藝術鑑賞におもうさま酔いしれる現実逃避の花園で、われわれの創作活動もなりたつとはかぎらない。ひとづきあいのわずらわしさ、きつい仕事、かんがえたくもないお金のやりくり... ぶあつい岩盤のようにその不毛さでわれわれをとじこめる現実から花園にのがれさるのではなく、むしろ現実のその鞏固な岩盤の牢獄をぶちやぶったさきにしか創作のための空間は存在しないのではないか? 「結婚は人生の墓場」 だからといって他者とかかわらない自由をえらぶのではなく、かえって人生のその墓場をつきぬけたむこうに表現の世界がひろがっているのかもしれないし、 「はたらいたらまけ」 とばかりに親兄弟に寄生しながら部屋でこせこせと投稿のためのキイボードをたたくよりも、きつい労働のなかでキャリア・アップしてゆくほうが表現者としての成功のはるかに近道かもしれない。すくなくともグスタフ・マーラーの音楽は、あおざめた現実逃避の花園でつくられたものではない。くだんの激越な第5番ばかりでなく、メルヒェンの花園そのものともいうべき第4番でさえマーラーが果敢に執拗に邪悪にのぼりつめた人生の成功者の道の──ぶあつい現実の岩盤をぶちやぬいたさきの栄光、幻滅、まぼろし、悲劇、狂気がいりみだれる──きびしくも燦爛たる超現実世界の絶巓でえがきだされものにほかならない。おもえばベートーヴェンにしてもワグナーにしても現世的な成功にたいして貪欲だった。おのれの出世も栄光もどうでもよいなどという草食系の文学青年(および中年)はさしずめ藝術家の風上にもおけないというところかもしれない。


美丈夫



「きょうの2枚」 にようやくテーマは帰趨する。ハンス・スワロフスキイ指揮ウィーン交響楽団によるマーラーの交響曲第5番およびブルノ・ワルター指揮ウィーン・フィルによる同作曲家の交響曲第4番で、さきにのべたとおり第5番のほうは友人からもらったカラヤンを何度か耳にしたあとは、ながらくバーンスタイン゠ウィーン・フィル盤ばかりを聴いていた。メジャーレーベルによる王道ともいうべき名盤だが、 「巨人」 ほどには感動しない。アムステルダム・コンセルトヘボウを縦横無尽になりひびかせたバーンスタイン指揮の第1番のほうは文字どおりカロリー満点。きち○いが自分のはらわたをひきちぎって、なげつけてくるような兇暴性にぞっとさせられる瞬間が何度か聴き手をおそう。ぼくが実演であじわった最高の第1番はネーメ・ヤルヴィのもので、ガラスばりをイメージさせる透徹した“音”の大伽藍がホールにきずきあげられてゆく奇蹟/威容にかたずをのんだが、いっぽうでバーンスタインはハンバーガーの100段がさねともいうべきヤンキィのあぶらぎって肉汁がしたたりおちそうな怪演で、それにくらべるとウィーン・フィルを指揮した第5番は評判のわりに感心しない。ただしバーンスタイン盤にかわる第5番のお気にいり録音をさがさなかったのは、もとより曲そのものにさしたる興味をもたなかったからにほかならない。

かれこれ10年まえのことになる。ビアホールにむかうとちゅう銀座の山野楽器をのぞいたら、わずか1, 050円の値札がはられたハンス・スワロフスキイの第5番のCDをみつけて、ひやかし半分に買ったのをおぼえている。やすいが、あやしいものではない。ケーゲルによるビゼーの名演とおなじメジャーレーベルからリリースされたもので、ざんねんなことに現在は廃盤らしい。スワロフスキイといったらメータ、アバド、ヤンソンスなどの恩師としての名声がたかく、かんじんの指揮者としては敗戦後のウィーンでVOXなどのアメリカ系マイナーレーベルにさえない音質のこれといって特徴もない演奏をふきこみつづけた印象しかもたなかったし、 「やばいの買ったな」 とビアホールで友人にもからかわれて、たいした期待もなく聴きはじめたぶん衝撃はかえって超弩級だった。それぞれの楽器パートがこれでもかというくらいに分離してきこえるが、ちかごろのアシュケナージだとかシャイーだとか評判に腕がともなわない名指揮者のCDのような機械的処理による分離とはわけがちがう。タクトのかわりにスワロフスキイがメスをふるって、おびただしい鮮血がとびちるなかで曲をあくまでも冷静に解剖してみせているようなイメージもわくほどで、ほんとうにこれが1971年の録音かとうたがいたくもなる。くだんのバーンスタインによる87年録音よりもよいくらいで、マイクが当時の録音技術をこえて奇蹟的になまの “音” をひろったとしかおもわれない。オーストリア放送協会はどうかマスターテープをすえながく良好な状態で保管してほしいものだとおもう。

かかる録音の優秀性もさることながらオーケストラの表現もきょうれつな独創性にみちている。ぼくにとっての一張羅だったバーンスタイン゠ウィーン・フィル盤とは対蹠的な演奏といえる。マーラーの交響曲はいわば音化された狂人のようなもので、バーンスタインという燃焼系の大指揮者はつねにその曲のたましいと一体化して狂人になりきろうとした。スワロフスキイもおなじくらい兇暴なのに主観はみじんもない。とりつくしまもないほどの客観的な演奏。きち○いが眼のまえにいて、わめいたり鈍器をふりまわしたり汚物をたれながしたりする生態をカメラで冷酷にとらえているような演奏といったら正鵠を射るかもしれない。カメラにはその狂人にたいする感情がない。つめたいメスのような非人称がつねにその対象をえぐりながら観察するばかりで、あまりの客観的姿勢がかえって狂的におもわれる演奏。あまつさえスワロフスキイがふるタクトはさすが名教授の理論的なもので、やりっぱなしの支離滅裂なものにみえるマーラーの楽曲がこんなにも精緻なポリフォニィだったと気がつかせてくれるのは、このひとをのぞけばわずかにクレンペラーがいるばかり... なるほど両者のマーラー演奏は相似したものではあるまいか? ちなみに83歳のクレンペラーがウィーン・フィルを指揮した1968年のライヴ録音集にはマーラーの第9番もおさめられているが、 「ホールの3列目でこのコンサートを鑑賞した」 スワロフスキイおよび弟子のアバドやメータはあまりの超絶的な演奏に舌をまいたことがHMVの同商品ページにつづられている... およそ3年後にマーラーの第5番を指揮・録音することになるスワロフスキイそのひとの脳裡にこのときの老クレンペラーの高等数学的なポリフォニィがこだましていなかったとはいいきれない。


二郎生麵



さてビアホールで友人からもらったカラヤンのマラ5をはじめて聴いて、どぎもをぬかれた直後にはなしはもどる。ヴァージンメガストアの500円均一クズBOXでこのころブルノ・ワルターが1950年にウィーン・フィルを指揮したマラ4をみつけた。あらかた海賊盤のクズBOXで、めずらしくこれは米MCAプレス。ぼくは初心者だったのでお買得品かどうかヤマシタY下達郎にたずねてみたが(※クズBOXだのヤマシタだのの詳細については上掲過去記事参照)、 「やっぱり55年盤にくらべたら、だいぶ聴きおとりがしちゃいますけどね」 というコメントは初心者にとって意味不明。たかだか500円のしろもので買うまでにさんざん躊躇したのは財布のしんぱいではなく、おばけ屋敷さながらの体験だったマラ5とおなじ予測不能の爆音攻撃でふたたび心臓にわるそうなショックの連続にのたうつことを恐怖したためだった。まよったすえに買ったCDをビアホールで友人にみせると、ワルターはこの5年後のライヴ録音がきわめつけの名演で、ウィーン・フィル創設150周年記念でそれは数量限定発売されたものだけにプレミアがついているとのことだったが、 「55年盤」 とヤマシタがよんだのもすなわち友人が口にするそれとおなじものだった。ふたりのマイナス評価のせいで期待せずに聴きはじめたぶん500円で買ったワルターもかえって感銘がふかいものになった。

おばけ屋敷さながらに心臓がこおりつく爆音攻撃をくらわないためにもヴォリュームをしぼって、おさおさ警戒をおこたらずに再生したマラ4の “音” 世界は、たおやかな鈴の音色からはじまるメルヒェン... はからずも甘美な陶酔にいざなう花園だった。ワルターのタクトは魔杖そのもので、たくまずして月光をあびながら銀色にそよぐ幽邃の草むらをそこに幻視させたが、いぜんとして緊張をとかず、ぼくは陶酔に身をゆだねることも自誡:「こいつはトラップ゠わなではないか?」 いつわりの花園にさそいこんで、だましうちの恐怖を倍増させようというマーラーの肚づもりにちがいない。うかうかとその陰険な詐謀にひっかかって、みかけは蠱惑的な花園にあそんでいたら、とつぜん銀色の草むらからはゾンビのむれがはいだして死ぬほどの恐怖をあじわわされるにきまっている。ここでの陶酔はいわば悪夢と紙ひとえのもの... おぞましいホラーやポルノばかりを撮りつづけていた監督が、ディズニー映画に転向するようなことがあるだろうか!? このままですむはずがない。かすかな音量でヴァイオリン゠ソロがつむぐ第2楽章を聴きおえて、ますますメルヒェン色がつよい郷愁のいつはてるともしれず幼年期のハーモニーがこだまする第3楽章にすすんだあとも、ぼくはゾンビの急襲にそなえて緊張をとくことがなかった。やがてウィーンの名花ゼーフリートの歌声とともに無数のこどもたちがあそびたわむれる天上的な終楽章がなりやんだあとも、ぼくのこの作品にたいする緊張はとけなかった。いまでもそれはかわらない。たんなる夢想の花園ではない。マラ4のメルヒェンは魔に魅いられたものにちがいない。

いつわりの花園の樹蔭から悪魔がこちらをのぞきこんで、ほほえんでいる。たえなる鈴の音色にさそわれて、この世ならぬ月魄をあびた白銀の草むらであそびたわむれる無数のこどもたちの未来はその悪魔のほほえみでけがされている──あるものは性的凌辱の犠牲者になるかもしれないし、あるものは薬物やアルコールで正気をうしなって、あるものは自分自身がいずれ悪魔的な淫虐に手をそめることになる──いや終楽章が昇天する無垢なこどもたちをえがいているとしても、かれらは血みどろの臓腑のように地上であじわった惨劇の記憶をひきずったままではないか? みかたによっては昇天するのではなく、こどもたちの無垢な世界からおとなの汚穢にむかって堕落するのだとおもわれなくもない。いまでもヴォリュームをしぼって、ワルターのこのマラ4を精妙な室内楽のように聴いている。あまりにも自然な指揮で、たちまち音質のわるさもわすれてしまう。のちに名演のほまれがたかい55年の西独盤のほうも手にいれたが、いまわしいアイヒンガー/クラウスによるリマスターのせいか? ぼくはそれを聴きながら、いちどとして50年盤とおなじ感銘をうけたことがない。


家二郎



はじめにのべた桜台二郎の生麵は、なんと5玉で1.6㎏の重量だった。とりあえずはそれを6玉にわけて、たべないぶんは冷凍庫におしこんだ。しろうとにラーメンのだしなどがとれるはずもなく、スーパーで買った1袋100円以下のとんこつスープに豚肉ブロックをつけこんでおいたカエシのしょうゆをからめたら、なかなかの味だった。はかりにのせた上掲の生麵もすこしばかりマーラーのグロテスクにつうじるものがあるが、まあよい... ゆうべは土佐の美丈夫をあじわいながら、だしをうす味にした鍋で四万十地鶏をたんのうした。どぎもをぬかれた。ともすると胸肉かとおもわれるくらい淡白なあじわいだが、そこには生の躍動がつまっていた。まずまずの値段のものを買えばスーパーでも濃厚なあじわいの鶏もも肉は手にはいるが、まるきり次元がちがう。ぼくが口にしている四万十地鶏はまさに “生きた” ものだった。そこいらのブロイラーで生きているか死んでいるかもわからない時間をすごして、ぶくぶくと脂肪ばかりを身につけた養鶏とはちがう。とびはねて躍動的に生きた記録がぼくの口のなかの肉にやどっていた。グルメでなければならない。ひとの舌は審美性のもっとも精密なセンサーかもしれない。

ついつい2本目の美丈夫に手がのびる。こんどは燗にする。おもくるしい客観性にこの身をくぐらせながらも、いつしか酩酊はぼくを極度の主観とも痴愚ともつかない無重力圏にほうりだしてしまうが、 「死」 のよろこび... もっとも無責任な快楽といってもよい彼岸の抱擁にこの身をゆだねたいのか? 「死」 は欺瞞だといいきったバタイユはただしい。おしなべて生者はその欺瞞についえる。やしきたかじんが死んだ。このひとの歌声がすきだった。このひとと名ピアニストだった故フリードリヒ・グルダとが同一視されるくらいで、じっさいに酷似していたようにおもう。どちらも破天荒なおやじだった。グルダはリサイタルでもタキシードを身につけることはなく、ヒッピーめいたファッションでモーツァルトのあとにジャズをひきまくった。わかいころはイェルク・デムスとパウル・バドゥラ゠スコダとならんでウィーンの3羽鴉とよばれたが、 「おれ以外のふたりは永遠に2番手だ」 という毒舌をはくあたりグルダもたかじんとかわるところがない。そのくせステージにのぼると、いっぽうは少女のように可憐清純なピアノの美音をたかならせて、もういっぽうも男とはおもわれない美声でうたう。ひところグルダのピアノのうつくしさがむしろ鼻について敬遠したこともあったが、 『美味しんぼ』 のなかで山岡がなんだか吟醸香をうけつけなくなったといって日本酒をとおざけた心境とつうじるかもしれない。ワインよりも淡麗辛口の純米吟醸酒のほうがグルダの美音にちかいような気がする...