ひまわりの丘 | 海豚座紀行

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──幻視海☤星座──

「ひまわりの丘」 は松田聖子の5枚めのアルバム 『Pineapple』 収録中の1曲だが、 『風立ちぬ』 につづいて松本隆が全曲作詞を担当。もとより聖子さん絶頂期の仕事といってよいが、ぼくが恋の紅焰をたぎらせた狂熱はむしろ松本氏が作詞するまえのデビューアルバム 『SQUALL』 から3rdアルバム 『Silhouette ~シルエット~』 までの音に収斂されている... かゝる純愛のトリオロジィ゠初期3部作については後日にゆずるとして、かんたんにいうと 『風立ちぬ』 にぼくは厳然たる “終熄” をみていた。


「松田聖子を文学として結晶化した唯一の小説家」 という名声ならぼくはよろこんで拝受するし(その他の名声も随時募集中♬)、すくなくとも心情的には自分が堀辰雄☞松本隆の系譜につらなる書き手のひとりだとおもっていたりもするTwittertwitterでは松田聖子について 「珠玉の言霊」 岩本麻奈先生談のかずかずをのこしているが(自讃)、なかでも下記(あやまって削除済)のものはきめつきというべきか?

「白いパラソル」までの6枚のシングルで聖子さんは喉をつぶした。そして次作「風立ちぬ」を含む同名のアルバム全篇をつらぬく声の、情熱の燃焼からいっせいに灰がたつような衰滅ぎりぎりの美しさ... うしなわれた少女期と青春の痛々しさの永遠の刻印...


『風立ちぬ』 のかすれた痛々しい歌声に、ぼくは少女期のおわりとともに歌手業しての “終熄” もみていたかもしれないが、『Silhouette ~シルエット~』 までの歌声は曲にたいして白刃のような殺気をたてていたというか、まだ曲とのあいだに少女の緊張がはりつめていた。そして少女を脱した彼女の心神耗弱をくるんだものこそが、 『風立ちぬ』 全篇に敷衍する松本隆のせつない文学的世界観だろうし、あるいはそれはアイドル松田聖子(1980.4.1.-1981.10.21.)をつつむ屍衣ではなかったか?

『Silhouette ~シルエット~』までの松田聖子はぼくたちの恋人だった。つぎのアルバムから本格的に作詞をてがける松本隆が、ショウウィンドウごしに “みえる” だけの──ぼくたちの手がふれることもできない──もやいだ文学的異星に彼女をつれさってしまう。


のどの手術をおえて復帰した彼女の歌声を、ぼくはそれだけに違和感があるものとして耳にした。かつてない高音を手にいれたかわりに “つよさ” が... せつなくも痛々しい少女期ないしはアマテュア的(※註)といってもよい──ほんらい彼女がもつ 「怪物的」 強靭さがうしなわれたのではないか? かつての緊張感はなく、うたう曲もこの世も彼女の 「お友だち」 にばけて、いっさいは平和のなかに調和──いや強靭さは歌声という本質的な部分からきえさったぶん後年にそれはライフスタイル、恋愛、外貌などのいささか悪趣味な特徴としてふきだすことになる。

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(※註) ぼくのこの初期型聖子への固執に近似する対象をあげるなら、クリムゾンでうたっていたころのグレッグ・レイクの歌声がえがきだす頽廃的なイメージにたいする愛着、 『ルパン三世』 のやはり頽廃的でダーティだった最初期のTVアニメにたいする愛着、 『美味しんぼ』 1~2巻のまだキャラ設定がかたまっていないころの殺伐とした世界にたいする愛着、仮面ライダー2号の赤手袋をみたときの安堵感などがあてはまるかもしれない。
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「絶頂期」 「キャンディ゠ヴォイス」 とひとはいう 『Pineapple』 以降の歌声を、ぼくはサイボーグ的だとおもう。ぼくらの恋心になだれこむ奔流だった歌声は、そこで人工庭園の噴水にすがたをかえた。ただし非゠現実的なサイボーグの歌声は、 『風立ちぬ』 とともに 「どこにも存在しえぬ現実」 の情景をえがきだす松本隆の作詞世界をただよいながら、まえにもましてぼくの感情をせつなく苦悶させることもたびたびだったし、 「ひまわりの丘」 もつまりはそんな1曲だった。


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ここに松本隆がえがいたものは、さきにものべた 「どこにも存在しえぬ現実」 の情景台風たとえば少女マンガなどで丘のうえから主人公が海をながめている──じっさいに海でも丘でもこの世にあるものだし、どこかにこのマンガの舞台とおなじくらいロマンティックな 「場所」 はあるんじゃないか? いなかの少年少女はこんな 「場所」 で恋にときめいたり、きずついたりしてるんだろうとおもうと、くやしくなって湘南や葉山にぼくも足をのばしてみるが、どこにも存在しない──きっと恋とはそんなものではないか? おそるべきことに松本隆は恋そのものの情景をえがきだした。どこにも存在しないがゆえに、とこしえに消滅することもない非゠人称の 「場所」 が、ピアノの前奏にはじまって、ヴァイオリンの終奏できえてゆく5分間にうたわれる: 「青春のうしろ髪」 ともいうべき悲愁をたなびかせるフェイドアウト...

それかあらぬか文学的に師とあおいだ松本隆氏がtwitterをはじめたときに、まるきり面識がない他人とはおもわなかったのも至極当然だし(おもいこみはこわいw)、この曲についても同氏にぼくは質問することになる☞ 「ひまわりの丘」 の情景が小学校のころから今まで現実にありうべくもない幻想郷として心にやきついておりますが、あれも実際のモデル地があるのでしょうか?

それはスペインのマドリッドからコルドバに向かってドライブしたとき、視界すべてがひまわりという場所があって、そのイメージを歌に残した。


「天啓」 としてふりそそいだ同氏のことば... プルースト流にいうなら、うしなわれた 「場所」゠時間が 「見出された」 瞬間... こんな幸福゠秘蹟をさずけられた聖子ファンはおるまい? さっそく作詞家にぼくは謝意をつたえた☞ 「感激です。救われました。 『ひまわりの丘』を聴くたびに子供のころから “拷問” として感じた哀しみ、たどりつきたくとも、たどりつけなかった宿年の地が、スペインだったと... そこは日本ではなかったという詩人からの啓示が、まぶしい。なにかが救われました」



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