あなたが輝き☆想うとおりに成幸へ導く☆母親セラピストMisaです音譜音譜



最近の学校行事は、

何かと一致団結とか

クラスの団結力とか

共同作業が多い感じがする


実際は変わらないのかもしれないけど

ここまではっきりクラスの団結力とか

声高に言ってなかった気がするのは私だけはてなマークはてなマークはてなマーク



決して悪いことではないし

みんなで作り上げるというのは

とても大切なことラブ


体育祭にしても完全にクラス対抗だから

クラスまたいでまとまるのは部活対抗リレー位


部活対抗リレーも対抗というくらいだから、

競争なんだけどDASH!DASH!



かつては、

小学校のように学年全体の種目もあった


種目というより、発表的なもの


男子は男子全員の組体操だったり、

女子はみんなでバンブーダンスやった…確か




今は全ての種目が競争DASH!DASH!


それもクラス対抗


目に見えて頑張った感はわかりやすい



リレーもただ走るだけでなく、

数人は距離を短くして

ワープコース走るとかになっている

初めて見た時はびっくりしたびっくりびっくり


足の速い人も遅い人も関係なく、

みんなが活躍できるようにという

作戦の一つかなキョロキョロ



徒競走に批判的な意見が出たりする時代だから

先生方も大変だと思う



先日の合唱祭も同じ


各学年ごとに最優秀賞と優秀賞が選ばれる


どちらも結果が全てではなく

その過程が大事というのは理解している


けれども、

その過程をどれだけ先生が

把握出来ているのだろうか!?



今も昔も変わらず

女子は仲良しグループで固まる傾向がある

特に中学生はそれが部活単位に変化する



同じ部活で同じ思いを共用し

多くの時間を共にしているだけに

その団結力たるや凄かったりする


特に運動系の団体スポーツは

その勢いは他を寄せ付けない場合も

往々にして見受けられる



その部活内部でもいろいろな

問題もあるようだけど滝汗



それはどんなに世代が変わっても

変わらないように感じられる真顔



次女は小学生の時野球チームに

女子1人という環境の中にいた


性格も正直サバサバしている

変な話、一緒にやっている子には

女子として見られていなかったのではないか滝汗


当然学年が高くなれば面倒なことも増えた汗


それはチームがらみもあるが

普段一緒にいる女子からの口撃


男子の中に女子1人でやっていることへの


嫉妬と妬みなのかもしれない


私たち似てるよね〜

私たちおんなじ〜

という曖昧な

囲い込みしたい願望かもしれない


でも、次女は野球が好きでやっているだけあせる

他にも女の子いてくれた方が楽しいと思っても

入る子がいなくて、たまたま1人あせる


というだけあせるあせる


今では小学校中学年くらいから、

女子同士のグループ問題も出てきているよう汗汗



今回の合唱祭については

どういう経緯かわからないが実行委員になった



その合唱の練習中でも女子特有の

まとまりが出来ていたらしい叫び叫び



次女はそういうのが苦手というより

面倒臭いと思う方なので


どちらの立場にもならないし

どちらにも入らない


だからこその辛さもあったのかもしれない


子供の話を聞いていると

都合の悪いところだけ委員にやらせて

まわりは自由に言いたい放題

やりたい放題だったような感じを受けた


そして先生がいる時は、

これ見よがしに一生懸命やる口笛


子供の話50%で聞いたとしても

腑に落ちないところはいくつも感じられた


先生がずっと監視しているわけもなく

どちらかといえば、知らないことの方が多いのかもしれない


流暢に先生と話しが出来る子は良い

言いたいことを臆せず話しが出来る子は良い

コミュニケーションがきちんと自分のペースで

出来る子は良い


そういう子どもに育てなさいと言われれば

それまでかもしれないけど笑い泣き笑い泣き



昔のイジメは露骨だったから

正直誰が見てもわかった


今は、それが隠れた場所で

関係者以外にはわからない形で行われる


特に何かされるわけでもないが

変な空気感を感じるのだろう


正直、本当に行きたくなければ

行かないという選択肢もあり


ということに過ぎない



今週は三者面談


一応気になるところは確認するけど

最終判断はやっぱり子ども


学校では、

我慢だったり

自分の思うようにならないこともある

ということを学ぶのも大切だろう


その上で、自分の見せ方を学ぶのかもしれない


理論的にはそれは大事だと思う



けれどもそれは、

自分を認めてくれる人がいる

という安心感があればこそなのではないか


相手は感情を持った人であるということ


自分をよく見せたい

よく見られたいと思っても


判断するのは自分ではなく相手である人

感情を持った人なんだよね


家族は当然認めてあげられるけど


今自分が長い時間いる環境の中で


認めてくれる人

認めてくれていると思える人


がいる


その安心感が得られなければ

そこに居続けるのは

苦しさ以外の何ものでもない


友達の中には心配してくれている人も

いるかもしれない


そういう友達が1人でもいれば頑張れるだろう

完全に1人で過ごすことに抵抗がなければいられるだろう



けれども今の人間関係は

昔の金八先生の時代のようなものでは

正直ないと思う


口では心配してると言ってくれていても

受け取る側がそれを感じることができなければ

仕方がない

受け取れない何かがあるのだろうから


それは当事者の人間関係であり

当事者同士の感覚で

当事者しかわからない


いくら親がうちの子心配してるよ

と言われても


本人同士でどのようなコミュニケーションが

成立しているのかわからない


思っていても言葉や態度には

見えないかもしれない



これは子ども社会の問題だけではなく

大人社会も同じ


一般的、普通の考え方と言われるが

これだって何をもってして普通なのか

正直みんな自己判断


それが悪いとは言わない


自分が

人生において何を大事にするのか

そのために何をするのか

それが世間一般の考えを方と違う時

自問自答して自分の信じる道を行くのだと思う


子どもにとっての良い環境は

親がきちんと判断してあげるのが大切ドキドキ


世間一般とは違っても

遠回りに見えるやり方でも

最終的に子どもが自立できれば良いのだからウインク


私が今

自分の生き方を強く問われる環境にいるから

子どもにとって大事なこと

目先よりももっと大事なことが何かを

考えられるのかもしれない


それは上2人の不登校の経験も大きい


子どもには本当に感謝しかないラブドキドキドキドキ


そして何より仲間の存在は大きいドキドキドキドキ


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