さっき
の続き:
小学6年の時に市のミニバスケットボールの大会があった。確か卒業間際の2月くらいだったと思う。その小学校はミニバスチームがあったわけではなく、この大会に向けて、11月くらいから希望者を募り、それから週3回くらいだったと思うが、練習をし、大会直前にメンバーを決めるというやり方だった。
練習に参加し始めてしばらくして、入院している祖父が危ないということになり、12月15日くらいだったか、鹿児島に戻ることになった。そのままおれは、冬休みいっぱいまで鹿児島に滞在した。つまり練習に参加できなかった。
大会のメンバーを決める時期になり、先生に呼ばれた。おれとT君の2人だったと思う。
先生が訊いた。
「残り1人を君たちのどちらかにしたいと思うが、決められない。
そこで、どれだけ練習を休んだか、それを教えて欲しい。
欠席の少ない方にしたいと思う」
T君は、1回だけ休んだと答えた。そして、おれは祖父の事情で鹿児島で帰っていた時期があり、その時期は練習に参加できなかったが、それ以外は出席した、と答えた。
先生は、おれを(公欠は数回だが、欠席無しと判断し)最後の1人に選んだ。
ところが、翌日G君がケンカ腰にやってきた。
「おまえ、卑怯だぞ! さぼったことあるくせに嘘つきやがって!!」
酷く責められた。
おれはいじめられ(!)慣れてたこともあり、彼の言いがかりに、なんだよ・・・と思いながらも、ある程度聞き流していた。
・・・・が!!
だいぶ後になって思い出した。G君と練習をさぼったことがあったことを!! 先生に訊かれた時は、まったく記憶に無かったことであった。
思い出したのは、大会よりは前だったと思う。だが、そのことを告白する勇気がなかった。
こうして、いろいろとクラスで浮いていたおれは、自分で決定打を作ったのであった。
T君、あれはおれが悪かった。物事が悪い方に動き出すと止まらないんだな、と今でも思う。まるでデフレスパイラル。
あの時の、クラスメイトは、そんなおれの記憶があるのだろうか。
嫌な奴だったでも、何でもいい。記憶に残っているのか、おれは興味がある。
おれは基本的に鹿児島育ちなのだが、小学校3年から6年までは親の仕事の都合で沖縄に居た。
転校した時は、(後から思えば)恐怖とも言えるくらいの不安を感じたが、クラスメイトに快く迎え入れられ、とても充実した生活を送れた。・・・・最初の一年(3年生時)は。もともと、沖縄は人の出入りが激しい地域。だからこそ、受け入れる側に、そういう土壌があったのだと思う。
しかし、4年生になるとたびたび登場するI先生にリズムを崩され、そして5年生になると、いじめられっ子になった。まあ、深刻ないじめではなかったが、仲の良かった友達が年々転校していなくなり、気が付いたら、馴染めない場に自分が居た。いじめというより、正確に表現すれば、意地悪な人たちに自分が適応できなかったのだろう。それに加え、いじけた振る舞いをすることにより、周りはなおさら離れて行ったという構図だ。
6年生になると、一部の中学生の悪ぶった連中からも目を付けられたりもした。このころになると、かなり鹿児島が恋しくなった。小学校卒業と共に鹿児島に戻ったわけだが、その決定を親から聞いた時は、そりゃあもう、うれしかったもんだ。
6年生では、友達が居なかった。きっと親も心配したと思う。担任が(沖縄に残るなら)、ある私立中学行きを薦めたのは、単に勉強ができるからということだけではなかったのだと、今では思う。
まあ、友達が居なかったというと、酷く深刻に聞こえるかもしれないが、休み時間にはそれなりに話すクラスメイトはいたし、修学旅行でも、ある仲良しグループにくっついて、楽しんだりはした。ただ、卒業文集で、友達3人に個人メッセージを記すコーナーがあったのだが、誰もおれへのメッセージが無かったことは、当時は酷く傷ついた。
こんな、小学6年時の思い出として、真っ先に思い出すのは、音楽の授業だ。音楽は、音楽の先生に、音楽室で習っていた。つまり担任では無い先生だ。
ある時期、おれらのクラスは毎回音楽の授業で叱られていた。その理由が、はっきりとしない(おれの記憶として)のだが・・・・、毎回誰かが教科書を忘れるとか、そういうことだったと思う。
当時、担任はすごくおもしろい先生で人気はあったが、怒ると怖い、そして
怖さ以上に、「けつバット」が痛くてみんな恐怖だった(今では体罰で問題になると思う)。そのバットは新聞を丸めたもの・・・・というと痛くなさそうだが、実際は全く隙間なくバットの太さに作られた物で、新聞紙思えない硬さなのだ。
ある時、音楽の授業で、ひとりでも忘れ物をすると、全員“けつバット”という宣告がなされた。そしてその後の最初の音楽の授業、誰かが教科書を忘れた。
音楽の先生もガッカリしていた。
音楽室から教室に帰ると、担任が居た。一番目に教室に着いたおれは伝えた。「また、教科書を忘れた人がいた」
そして、恐怖のけつバットを全員が喰らうはめになった。
次の音楽の授業、またしても同じ光景が繰り広げられた。
誰かが忘れ→おれが教室1番乗り、
そして、担任:「今日はどうだった?」→おれ:「今日もダメだった」→全員けつバット
クラスのガキ大将みたいなやつが、おれに言ってきた。
「てめー、ちくってんじゃねえよ!」
これって、ちくり? 音楽の先生に(担任が)聞いたら、ばれることじゃないかー。しかも、訊かれて嘘は言えない。
この一件で、おれはますます一部のクラスメイトに敬遠された。
今でも、この出来事は納得がいかない。とはいえ、ヤンキー予備軍の小学生の言いがかりだったわけで、あとから思えば、まともに言い合う気もなくて正解だったんだけど。
この小学校、普通の市立小学校だったのだが、県下有数の優秀な小学校だったらしく(そう度々担任に聞かされた)、行事のたびに、新聞社やテレビ/ラジオ局の取材が来ていた。ちょっとした美術館見学でも取材が来て、おれのコメントが新聞に載ったこともあった。
その小学生が進学する、同じ地域の中学校は、県内有数のヤンキー校だった。おれが6年生の時、中学校の卒業式で、在校生が卒業式中に暴れたらしい。消火器の白い粉まみれの中学生が、何人も数百m離れた小学校のあたりまで逃げてきていた。
そんな、そこの中学校に、当時のおれは心底ビビっていた。あのまま、鹿児島に戻らず、あの中学校に進んでいたら、どうなったんだろう? 当時からずっと、時折想像している。
転校した時は、(後から思えば)恐怖とも言えるくらいの不安を感じたが、クラスメイトに快く迎え入れられ、とても充実した生活を送れた。・・・・最初の一年(3年生時)は。もともと、沖縄は人の出入りが激しい地域。だからこそ、受け入れる側に、そういう土壌があったのだと思う。
しかし、4年生になるとたびたび登場するI先生にリズムを崩され、そして5年生になると、いじめられっ子になった。まあ、深刻ないじめではなかったが、仲の良かった友達が年々転校していなくなり、気が付いたら、馴染めない場に自分が居た。いじめというより、正確に表現すれば、意地悪な人たちに自分が適応できなかったのだろう。それに加え、いじけた振る舞いをすることにより、周りはなおさら離れて行ったという構図だ。
6年生になると、一部の中学生の悪ぶった連中からも目を付けられたりもした。このころになると、かなり鹿児島が恋しくなった。小学校卒業と共に鹿児島に戻ったわけだが、その決定を親から聞いた時は、そりゃあもう、うれしかったもんだ。
6年生では、友達が居なかった。きっと親も心配したと思う。担任が(沖縄に残るなら)、ある私立中学行きを薦めたのは、単に勉強ができるからということだけではなかったのだと、今では思う。
まあ、友達が居なかったというと、酷く深刻に聞こえるかもしれないが、休み時間にはそれなりに話すクラスメイトはいたし、修学旅行でも、ある仲良しグループにくっついて、楽しんだりはした。ただ、卒業文集で、友達3人に個人メッセージを記すコーナーがあったのだが、誰もおれへのメッセージが無かったことは、当時は酷く傷ついた。
こんな、小学6年時の思い出として、真っ先に思い出すのは、音楽の授業だ。音楽は、音楽の先生に、音楽室で習っていた。つまり担任では無い先生だ。
ある時期、おれらのクラスは毎回音楽の授業で叱られていた。その理由が、はっきりとしない(おれの記憶として)のだが・・・・、毎回誰かが教科書を忘れるとか、そういうことだったと思う。
当時、担任はすごくおもしろい先生で人気はあったが、怒ると怖い、そして
怖さ以上に、「けつバット」が痛くてみんな恐怖だった(今では体罰で問題になると思う)。そのバットは新聞を丸めたもの・・・・というと痛くなさそうだが、実際は全く隙間なくバットの太さに作られた物で、新聞紙思えない硬さなのだ。
ある時、音楽の授業で、ひとりでも忘れ物をすると、全員“けつバット”という宣告がなされた。そしてその後の最初の音楽の授業、誰かが教科書を忘れた。
音楽の先生もガッカリしていた。
音楽室から教室に帰ると、担任が居た。一番目に教室に着いたおれは伝えた。「また、教科書を忘れた人がいた」
そして、恐怖のけつバットを全員が喰らうはめになった。
次の音楽の授業、またしても同じ光景が繰り広げられた。
誰かが忘れ→おれが教室1番乗り、
そして、担任:「今日はどうだった?」→おれ:「今日もダメだった」→全員けつバット
クラスのガキ大将みたいなやつが、おれに言ってきた。
「てめー、ちくってんじゃねえよ!」
これって、ちくり? 音楽の先生に(担任が)聞いたら、ばれることじゃないかー。しかも、訊かれて嘘は言えない。
この一件で、おれはますます一部のクラスメイトに敬遠された。
今でも、この出来事は納得がいかない。とはいえ、ヤンキー予備軍の小学生の言いがかりだったわけで、あとから思えば、まともに言い合う気もなくて正解だったんだけど。
この小学校、普通の市立小学校だったのだが、県下有数の優秀な小学校だったらしく(そう度々担任に聞かされた)、行事のたびに、新聞社やテレビ/ラジオ局の取材が来ていた。ちょっとした美術館見学でも取材が来て、おれのコメントが新聞に載ったこともあった。
その小学生が進学する、同じ地域の中学校は、県内有数のヤンキー校だった。おれが6年生の時、中学校の卒業式で、在校生が卒業式中に暴れたらしい。消火器の白い粉まみれの中学生が、何人も数百m離れた小学校のあたりまで逃げてきていた。
そんな、そこの中学校に、当時のおれは心底ビビっていた。あのまま、鹿児島に戻らず、あの中学校に進んでいたら、どうなったんだろう? 当時からずっと、時折想像している。
これから書く話は、20年一度も誰にも話したことが無い。
それくらい、恥ずかしく、情けない話だ。
しかし、もう20年経った。それなりにおれも大人になり、「子どもの頃の話」として話せるかなと思う。
と、その前に、先週からみょーに小学時代の話を思い出し書いているが、
それは、仕事で沖縄での本格展開を再開する流れがあるようで、
(再開と言っても、おれにとっては入社後初めてになる)
仕事で沖縄に行くことがあったら・・・と思うとやはり当時を思い出してしまうのである。
まず1つ目は(実は2つある)、水泳大会での話である。おれは、泳ぐのが苦手だった。今もだけど。それでも何かの競技に出ないといけないというので、プールを横向きに使う、恐らく一人12mくらいのリレーに出た。4人泳ぎ、2往復する。おれは第2泳者だった。その日は、プールの授業の1年のうちの最終日で、沖縄とはいえ、とても寒かった。
寒いし、苦手な泳ぎをしないといけないということで、おれは酷く焦っていた。第2泳者のおれは、第1泳者が向こうから泳いでくるのを待たないといけなかった・・・・・・のだが、寒さと緊張で焦っていたおれは、よーいドン! のピストル音と同時にプールに飛び込んでしまった。
その先は、ご想像通り。
おれはプールの中で第1泳者とぶつかった。その時は何が起きたか理解できなかった。当然、第3泳者と第4泳者は、泳がずに終わったと思う。しばらくあとに、何が起きたか・・・というか、自分が何をしたか気付いた時は、本当に恥ずかしかった。誰も責めなかったが、慰めもしなかった。あれだけの孤立感を感じたことは、今思っても、他に無いかもしれない。
当時のクラスメイトとは、小学校卒業とともに、誰とも交流が無いが、この出来事を、みんなは覚えているだろうか? 少なくとも、あの時のリレーメンバーは覚えていると思うが。
20年経って、小学生ならそんな間抜けなこともやっちまうよな、と思えるようになった。もうちょっと前から、そう思えたかもしれないが、最近久しぶりにこの出来事を思い出した。
それくらい、恥ずかしく、情けない話だ。
しかし、もう20年経った。それなりにおれも大人になり、「子どもの頃の話」として話せるかなと思う。
と、その前に、先週からみょーに小学時代の話を思い出し書いているが、
それは、仕事で沖縄での本格展開を再開する流れがあるようで、
(再開と言っても、おれにとっては入社後初めてになる)
仕事で沖縄に行くことがあったら・・・と思うとやはり当時を思い出してしまうのである。
まず1つ目は(実は2つある)、水泳大会での話である。おれは、泳ぐのが苦手だった。今もだけど。それでも何かの競技に出ないといけないというので、プールを横向きに使う、恐らく一人12mくらいのリレーに出た。4人泳ぎ、2往復する。おれは第2泳者だった。その日は、プールの授業の1年のうちの最終日で、沖縄とはいえ、とても寒かった。
寒いし、苦手な泳ぎをしないといけないということで、おれは酷く焦っていた。第2泳者のおれは、第1泳者が向こうから泳いでくるのを待たないといけなかった・・・・・・のだが、寒さと緊張で焦っていたおれは、よーいドン! のピストル音と同時にプールに飛び込んでしまった。
その先は、ご想像通り。
おれはプールの中で第1泳者とぶつかった。その時は何が起きたか理解できなかった。当然、第3泳者と第4泳者は、泳がずに終わったと思う。しばらくあとに、何が起きたか・・・というか、自分が何をしたか気付いた時は、本当に恥ずかしかった。誰も責めなかったが、慰めもしなかった。あれだけの孤立感を感じたことは、今思っても、他に無いかもしれない。
当時のクラスメイトとは、小学校卒業とともに、誰とも交流が無いが、この出来事を、みんなは覚えているだろうか? 少なくとも、あの時のリレーメンバーは覚えていると思うが。
20年経って、小学生ならそんな間抜けなこともやっちまうよな、と思えるようになった。もうちょっと前から、そう思えたかもしれないが、最近久しぶりにこの出来事を思い出した。
漫画スラムダンクでも紹介された(と書けば、みんなピンとくる?)、ジャバーが大病を患っていると報道された。
生きた伝説と呼ばれる、NBA歴代得点1位を誇る名選手だ(しかもダントツ)。かつては、日本代表の臨時コーチを務めたこともある。目を守るため、トレードマークとなったゴーグルは、当時、一部で流行った。
トレードマークといえば、もうひとつ・・・・スカイフック。リングより高い位置で放たれる、そのショットは、「反則だ!」と、“絶賛”された。
遠くで祈ることしかできないが、この病を乗り越えて欲しいと想うばかりだ。
■往年のスター選手が白血病=NBAで活躍したジャバー氏
11月11日11時47分配信 時事通信
【ロサンゼルス時事】米プロバスケットボール協会(NBA)の元名選手、カリーム・アブドゥル・ジャバー氏(62)が骨髄性白血病を患っていることが分かった。10日付の米紙ロサンゼルス・タイムズが伝えた。
同紙によると、ジャバー氏は昨年12月に初期の慢性疾患と診断された。現在は投薬治療を受けながら出身チームのレーカーズでアシスタント・コーチを務めており、「診断結果を聞いた時、不治の病を連想して恐怖を感じたが、投薬で普段通りの生活を続けられると分かった。今後は白血病の啓蒙(けいもう)活動にも取り組んでいきたい」としている。
ジャバー氏は独特の「スカイフック」シュートで、1970~80年代を中心に活躍した伝説的センター。故ブルース・リー主演のアクション映画「死亡遊戯」(78年)出演でも知られる。
生きた伝説と呼ばれる、NBA歴代得点1位を誇る名選手だ(しかもダントツ)。かつては、日本代表の臨時コーチを務めたこともある。目を守るため、トレードマークとなったゴーグルは、当時、一部で流行った。
トレードマークといえば、もうひとつ・・・・スカイフック。リングより高い位置で放たれる、そのショットは、「反則だ!」と、“絶賛”された。
遠くで祈ることしかできないが、この病を乗り越えて欲しいと想うばかりだ。
■往年のスター選手が白血病=NBAで活躍したジャバー氏
11月11日11時47分配信 時事通信
【ロサンゼルス時事】米プロバスケットボール協会(NBA)の元名選手、カリーム・アブドゥル・ジャバー氏(62)が骨髄性白血病を患っていることが分かった。10日付の米紙ロサンゼルス・タイムズが伝えた。
同紙によると、ジャバー氏は昨年12月に初期の慢性疾患と診断された。現在は投薬治療を受けながら出身チームのレーカーズでアシスタント・コーチを務めており、「診断結果を聞いた時、不治の病を連想して恐怖を感じたが、投薬で普段通りの生活を続けられると分かった。今後は白血病の啓蒙(けいもう)活動にも取り組んでいきたい」としている。
ジャバー氏は独特の「スカイフック」シュートで、1970~80年代を中心に活躍した伝説的センター。故ブルース・リー主演のアクション映画「死亡遊戯」(78年)出演でも知られる。
前回の話: ルームメイトの思い出 番外編1
直接言わないから、理解し合えず、結果的に絶交という、日本人同士の悲しい話を書いた。この手の話には、おれは本当にうんざりした。だから、もし、おれも我慢できない不満があれば、相手に伝えるのはもちろん、自分に対して不満があれば、伝えて欲しい気持ちは常にあった。
留学最後の年、寮の4人部屋に移動しようと思っていた。理由はテレビが見られるから。といっても、ケーブルなので有料。おれが見たいのは、バスケットボールを初め、スポーツ。テレビの機械自体は、VHSを見るために持っていた。
で、その視聴料を浮かせるためということもあり、同じバスケットボールファンのMさんに一緒に住もうと誘った。テレビが見たい→金がかかる→折半しよう、と。Mさんは歳は1つ上だが、イマサラそんな上下関係でもなかったが、この時は金がかかることを頼むので、腰を低くして誘った。
彼は、二つ返事でOKをした。次の学期から、Mさんと(おそらくあと2人はアメリカ人で)部屋をシェアすることになったのだ。
それから数日後・・・・・。まったく関係無いやつが、おれに食ってかかってきた。
「Mさんが嫌がってるよ!!」
「へ・・・・??」寝耳に水とはまさにこのこと。
おれも、自分の行動に対しては、常日頃から自信が無い。そのため、強引に誘ってしまったかな・・・と、しばし悩んだ。
Mさんは年上とはいえ、遠慮がちな性格なので、本当は嫌だったのに断れなかったのかな・・・と、反省した。
断れるよう、メールで再度確認した。下手下手に、嫌なら正直に断ってください。金がかかることもあるし、本当におれとルームシェアして良いですか? と、とにかく、嫌であるなら断って欲しいので、意思を確認した。
すると、返事はまたしてもOK。テレビが見られるのを、彼も楽しみにしているということだった。
それからさらに数日後・・・・。
再び同じやつが言ってきた。
「Mさんが迷惑がってる!」
!!!!!!!!!
キレるとは、まさにこのこと。おれは、ブチっと・・・(以下略)
“なんで関係ないこいつが、おれに文句を言ってくるんや!? しかも、断じて本人は嫌がってない!!”
キレてから、おれはこいつと絶交した。
結局、おれはMさんと部屋をシェアし、1年間仲良く過ごした。テレビも、ケンカなく見ることができたし、一緒にバスケットボール観戦をして盛り上がったこともあった。金のことでも、もめた記憶は無い。絶対にMさんは迷惑がっていなかったと断言できると信じている。
(第三者が出てきて、ゴタゴタになったのはこの時ばかりではない。
長くなったので、またそれは別の機会に)
・・・・・・・ただし、この1年、あと2人一緒にシェアしたアメリカ人とはゴタゴタがあった。
いずれまた、この話も。
直接言わないから、理解し合えず、結果的に絶交という、日本人同士の悲しい話を書いた。この手の話には、おれは本当にうんざりした。だから、もし、おれも我慢できない不満があれば、相手に伝えるのはもちろん、自分に対して不満があれば、伝えて欲しい気持ちは常にあった。
留学最後の年、寮の4人部屋に移動しようと思っていた。理由はテレビが見られるから。といっても、ケーブルなので有料。おれが見たいのは、バスケットボールを初め、スポーツ。テレビの機械自体は、VHSを見るために持っていた。
で、その視聴料を浮かせるためということもあり、同じバスケットボールファンのMさんに一緒に住もうと誘った。テレビが見たい→金がかかる→折半しよう、と。Mさんは歳は1つ上だが、イマサラそんな上下関係でもなかったが、この時は金がかかることを頼むので、腰を低くして誘った。
彼は、二つ返事でOKをした。次の学期から、Mさんと(おそらくあと2人はアメリカ人で)部屋をシェアすることになったのだ。
それから数日後・・・・・。まったく関係無いやつが、おれに食ってかかってきた。
「Mさんが嫌がってるよ!!」
「へ・・・・??」寝耳に水とはまさにこのこと。
おれも、自分の行動に対しては、常日頃から自信が無い。そのため、強引に誘ってしまったかな・・・と、しばし悩んだ。
Mさんは年上とはいえ、遠慮がちな性格なので、本当は嫌だったのに断れなかったのかな・・・と、反省した。
断れるよう、メールで再度確認した。下手下手に、嫌なら正直に断ってください。金がかかることもあるし、本当におれとルームシェアして良いですか? と、とにかく、嫌であるなら断って欲しいので、意思を確認した。
すると、返事はまたしてもOK。テレビが見られるのを、彼も楽しみにしているということだった。
それからさらに数日後・・・・。
再び同じやつが言ってきた。
「Mさんが迷惑がってる!」
!!!!!!!!!
キレるとは、まさにこのこと。おれは、ブチっと・・・(以下略)
“なんで関係ないこいつが、おれに文句を言ってくるんや!? しかも、断じて本人は嫌がってない!!”
キレてから、おれはこいつと絶交した。
結局、おれはMさんと部屋をシェアし、1年間仲良く過ごした。テレビも、ケンカなく見ることができたし、一緒にバスケットボール観戦をして盛り上がったこともあった。金のことでも、もめた記憶は無い。絶対にMさんは迷惑がっていなかったと断言できると信じている。
(第三者が出てきて、ゴタゴタになったのはこの時ばかりではない。
長くなったので、またそれは別の機会に)
・・・・・・・ただし、この1年、あと2人一緒にシェアしたアメリカ人とはゴタゴタがあった。
いずれまた、この話も。
おれが好きだったのは、全員リレー。走る順の作戦を立てたり、バトンパスの練習をしたり、あれは楽しかった。
最近の学校では、順位付けをしないとこも多いらしいが、走る順を決めることを、イコール人間の順位付けのような解釈をする愚かな輩に合わせないといけないというのは、情けない話だよな。まあ、この手の話をし出すと、別の論点になってしまうので、またの機会に。
で、全員リレーで、すごく印象的な年があった。小学4年生のときである。おれの小4と言えば、以前書いた、人生初のスランプの年で、I先生の年である。
参照→反抗期前の思い出
この先生は、全員リレーに挑むにあたって、かなり主導権を持って、走る順番を決めた。
ふつうは、一番速い人がアンカーで、その次くらいに速い人がスターターで、
終盤に速い人を固めるでしょう?? その先生は、逆で、一番速い人をスターターにして、2番目をアンカー、そして、速い子を序盤に固める作戦をとった。さらに、一番遅い子が、その次に走るという戦略だった。
運動会当日。序盤、作戦が的中し、ほとんど速い順に並べた我がクラスは、先頭を独走した。15人くらい走った時点で、2位に半周以上の大差を付けリード。
そして、(おそらく学年でも)一番遅いH君が走った(注:H君のことは上記ブログにも書いた、あのH君だ)。前後を気にせず、とにかく一生懸命に走れという指令だった。周りも、精一杯声援を上げた。
最終的に、我がクラスは1位でゴール。(たぶん)作戦勝ちだった。
ゴールの瞬間、教育ママ風のI先生が興奮して喜び、飛び跳ねていた。そのギャップ・違和感のあるシーンが印象的で、強く記憶に残っている。
走る時は、自分より僅かに遅い人が、自分より少し前を走っている方が、力を存分に出せると、おれは今でも思っている。
だからこそ、あの時の運動会は印象に残っている。
全員リレー。今の子どもたちにもやって欲しい。
最近の学校では、順位付けをしないとこも多いらしいが、走る順を決めることを、イコール人間の順位付けのような解釈をする愚かな輩に合わせないといけないというのは、情けない話だよな。まあ、この手の話をし出すと、別の論点になってしまうので、またの機会に。
で、全員リレーで、すごく印象的な年があった。小学4年生のときである。おれの小4と言えば、以前書いた、人生初のスランプの年で、I先生の年である。
参照→反抗期前の思い出
この先生は、全員リレーに挑むにあたって、かなり主導権を持って、走る順番を決めた。
ふつうは、一番速い人がアンカーで、その次くらいに速い人がスターターで、
終盤に速い人を固めるでしょう?? その先生は、逆で、一番速い人をスターターにして、2番目をアンカー、そして、速い子を序盤に固める作戦をとった。さらに、一番遅い子が、その次に走るという戦略だった。
運動会当日。序盤、作戦が的中し、ほとんど速い順に並べた我がクラスは、先頭を独走した。15人くらい走った時点で、2位に半周以上の大差を付けリード。
そして、(おそらく学年でも)一番遅いH君が走った(注:H君のことは上記ブログにも書いた、あのH君だ)。前後を気にせず、とにかく一生懸命に走れという指令だった。周りも、精一杯声援を上げた。
最終的に、我がクラスは1位でゴール。(たぶん)作戦勝ちだった。
ゴールの瞬間、教育ママ風のI先生が興奮して喜び、飛び跳ねていた。そのギャップ・違和感のあるシーンが印象的で、強く記憶に残っている。
走る時は、自分より僅かに遅い人が、自分より少し前を走っている方が、力を存分に出せると、おれは今でも思っている。
だからこそ、あの時の運動会は印象に残っている。
全員リレー。今の子どもたちにもやって欲しい。
これまで何度か、アニメサザエさんの批判的ととられるようなことを書いてきたが、
それは、単なる内容の批判ではない。
作者の意図に反することをやり続けたということに関する批判だ。
長谷川町子さんは、その設定を変えられたことを、本当に嫌がっていたようだ。
久しぶりに、漫画サザエさんを読んだ。
ワカメも意地悪なのが良い。
文庫版1巻~3巻。
時代設定が古い。連載開始当時の社会情勢がよくわかる。
また、タラちゃんが乳飲み子だったりする。
「配給」が出てきたり、
隣家と井戸を共用していたり、
風呂を薪で炊いたり・・・・
いやはや、今アニメでそのまま使えないわな。
(もちろん、そんなことでアニメ批判をしているのでは無い)
一番古さを感じたシーンは・・・・
カツオたちが、近所の雷親父みたいなのに、窓ガラスを割ったということで怒られていた。
サザエが、「ガラスぐらいでケチねえ。私が払ってあげるわよ、いくら?」と言うと、
親父が「1枚80円」 サザエ「ひええええ」と100円札を財布から取り出す。
・・・・・・ま、それがサザエさん。
それは、単なる内容の批判ではない。
作者の意図に反することをやり続けたということに関する批判だ。
長谷川町子さんは、その設定を変えられたことを、本当に嫌がっていたようだ。
久しぶりに、漫画サザエさんを読んだ。
ワカメも意地悪なのが良い。
文庫版1巻~3巻。
時代設定が古い。連載開始当時の社会情勢がよくわかる。
また、タラちゃんが乳飲み子だったりする。
「配給」が出てきたり、
隣家と井戸を共用していたり、
風呂を薪で炊いたり・・・・
いやはや、今アニメでそのまま使えないわな。
(もちろん、そんなことでアニメ批判をしているのでは無い)
一番古さを感じたシーンは・・・・
カツオたちが、近所の雷親父みたいなのに、窓ガラスを割ったということで怒られていた。
サザエが、「ガラスぐらいでケチねえ。私が払ってあげるわよ、いくら?」と言うと、
親父が「1枚80円」 サザエ「ひええええ」と100円札を財布から取り出す。
・・・・・・ま、それがサザエさん。
■GREE、未成年の課金サービス利用を制限 テレビCM見直しも
これが誇大広告で批判されるべきものであるということは、さておき。
(「結局は有料」という噂だったから、おれは手を出さなかった)
PCからインターネットの世界に入ったおれは、ケータイのネットの世界は理解できないことがいくつかあるが、その最大のものは、有料コンテンツについてだ。
まず、有料コンテンツそのものが多い。同じ新聞社から配信されるニュースでも、PCだと無料で、携帯だと有料だったりする。
なーぜー??
スポーツ速報なんかも、PCと同じ内容で、かつ“見にくい”情報なのにも関わらず、携帯だと有料って、なんでだよ? しかも、パケット料というのもかかるし。
そして、今回の件もそうなのだが、請求がキャリアから来ることも問題だろう。
なぜ、DoCoMoなんかが、自分のサービスじゃないのに、その料金を請求するの? 個別に契約して、個別に支払いをするべきでしょう? 今の制度の方が合理的なんだろうけど、こういう問題が起こるのは目に見えたはず。だいたい、キャリアが取りすぎなんだよ。
こういったところでも、PCに追いついて欲しいものだ。スマートフォンでもまだまだでしょう?
ネットブックで完全にユビキタス化するのを期待! (←言葉の使い方、あってる?)
これが誇大広告で批判されるべきものであるということは、さておき。
(「結局は有料」という噂だったから、おれは手を出さなかった)
PCからインターネットの世界に入ったおれは、ケータイのネットの世界は理解できないことがいくつかあるが、その最大のものは、有料コンテンツについてだ。
まず、有料コンテンツそのものが多い。同じ新聞社から配信されるニュースでも、PCだと無料で、携帯だと有料だったりする。
なーぜー??
スポーツ速報なんかも、PCと同じ内容で、かつ“見にくい”情報なのにも関わらず、携帯だと有料って、なんでだよ? しかも、パケット料というのもかかるし。
そして、今回の件もそうなのだが、請求がキャリアから来ることも問題だろう。
なぜ、DoCoMoなんかが、自分のサービスじゃないのに、その料金を請求するの? 個別に契約して、個別に支払いをするべきでしょう? 今の制度の方が合理的なんだろうけど、こういう問題が起こるのは目に見えたはず。だいたい、キャリアが取りすぎなんだよ。
こういったところでも、PCに追いついて欲しいものだ。スマートフォンでもまだまだでしょう?
ネットブックで完全にユビキタス化するのを期待! (←言葉の使い方、あってる?)
前回の話:ルームメイトの思い出1
ルームメイトの思い出話の第2弾を書こうと思ったのだが、書こうとすると、どうしてもこの類の話を思い出すので、番外編として書いておこうと思う。
最近書いた、空気は読むな、読ませるな にも、通じるところがある。
寮には、ほとんどの留学生が居た。日本人も8~9割方、寮に住んでいた。寮には当然ながら、ルールがいろいろあったのだが、まあそれでも、概して日本の寮に比べると、規制は厳しくなかったと思う。さすがに部屋は違うが、同じ建物に男女混合で住んでいた。門限も無かった。
寮生活というのは、特に田舎だったこともあるし、ほとんどの日本人は行動範囲が狭かったこともあるので(車を持っていても、日帰りで出かけるようなところは近所のスーパーくらいだ)、平日は一日中学校か寮にいることになる。土日だって、一日中寮に居ることも珍しくなかった。
ということは、つまり友達とは24時間の付き合いなのである。これでおれは、当時の友達と深い絆をつなげたと思うし、ホームシック等さびしい想いをしなかった大きな理由だと思う。おれの居た3年間はその大学史上まれに見るほど日本人が多かった時期だ(「成功する留学」なんかに紹介されていたらしい)。
しかし、他人との距離が近くなるのは、良いことばかりではない。おれは当時、何度も人との揉め事に巻き込まれたし、相談されたりした。で、そのうち見えてきたのだが、その揉め事やトラブルが大きくなる要因というのは、いつも同じなのである。特に女性同士の場合はそうだった。
その要因とは・・・・・
“ルームメイトへの不満を本人には全く言わずに、関係無い人たちにまき散らす”ことである。
日本人同士、仲の良い友達ができると、次の学期は「一緒に住もう」ということになり、同じ部屋に住むことになるが、その2週間後には、お互いに口も聞いていないという状況を何度も見てきた。で、両者がそれぞれに相手への不満を、他の友達に言いふらしているのである。おれも何度も聞かされた。
その不満というのが、
「部屋の使い方が汚い」とか
「音楽がうるさい」とか
「ちょっとした仕草にむかつく」とか
まあ言ってみれば、個人の価値観や感覚の違いによって生まれるものに対して、相手が腹を立てているのである。はっきり言って、どっちが悪いとかという問題ではない。
「そういうのやめて欲しい」って伝えたの? と訊くと、答えは必ず「No」なのだ。どう考えても相手に悪気があるとは思えない。ルームメイトを不快にさせてやろうなんていう意図はまず感じられず、そのことを一言伝えれば、きっと理解してくれてやめてくれるだろうと、おれは思うことばかりであった。
ところが、日本人はそういうことを言う勇気が無いのかどうかわからないが、相手に伝えようとしない。日本人同士だと、この問題はより深刻化する。
まあ、本人に言わないならそれも良いと思うが、そんな話に関することを関係無い人に言いふらして、どうするの? 狭いこの日本人コミュニティでは、必ずと言っていいほど、結局は本人に漏れる。聞いた方が口が軽いのではなく、いろんな人の耳に入ると結局は・・・という話である。
で、そんな話が第三者から本人に漏れ、その本人は当然ながら不快感を感じ、不信感を抱かせるのに十分だっただろう。仲が良かったために一緒に住み始め、1ヵ月足らずで絶交とはなんと悲しい話ではないか。
しかも、両者お互いに同じことをやっていたりする。
さらにしかも、理由がくだらない。
おれは、誰かに対する不満を、本人に伝えずに第三者にのみ伝えるということが、いかに愚かなことなのか、身に染みて認識するのだった。
おれもこの種の話の被害者になったのだが、その話はまた別の機会で。
ルームメイトの思い出話の第2弾を書こうと思ったのだが、書こうとすると、どうしてもこの類の話を思い出すので、番外編として書いておこうと思う。
最近書いた、空気は読むな、読ませるな にも、通じるところがある。
寮には、ほとんどの留学生が居た。日本人も8~9割方、寮に住んでいた。寮には当然ながら、ルールがいろいろあったのだが、まあそれでも、概して日本の寮に比べると、規制は厳しくなかったと思う。さすがに部屋は違うが、同じ建物に男女混合で住んでいた。門限も無かった。
寮生活というのは、特に田舎だったこともあるし、ほとんどの日本人は行動範囲が狭かったこともあるので(車を持っていても、日帰りで出かけるようなところは近所のスーパーくらいだ)、平日は一日中学校か寮にいることになる。土日だって、一日中寮に居ることも珍しくなかった。
ということは、つまり友達とは24時間の付き合いなのである。これでおれは、当時の友達と深い絆をつなげたと思うし、ホームシック等さびしい想いをしなかった大きな理由だと思う。おれの居た3年間はその大学史上まれに見るほど日本人が多かった時期だ(「成功する留学」なんかに紹介されていたらしい)。
しかし、他人との距離が近くなるのは、良いことばかりではない。おれは当時、何度も人との揉め事に巻き込まれたし、相談されたりした。で、そのうち見えてきたのだが、その揉め事やトラブルが大きくなる要因というのは、いつも同じなのである。特に女性同士の場合はそうだった。
その要因とは・・・・・
“ルームメイトへの不満を本人には全く言わずに、関係無い人たちにまき散らす”ことである。
日本人同士、仲の良い友達ができると、次の学期は「一緒に住もう」ということになり、同じ部屋に住むことになるが、その2週間後には、お互いに口も聞いていないという状況を何度も見てきた。で、両者がそれぞれに相手への不満を、他の友達に言いふらしているのである。おれも何度も聞かされた。
その不満というのが、
「部屋の使い方が汚い」とか
「音楽がうるさい」とか
「ちょっとした仕草にむかつく」とか
まあ言ってみれば、個人の価値観や感覚の違いによって生まれるものに対して、相手が腹を立てているのである。はっきり言って、どっちが悪いとかという問題ではない。
「そういうのやめて欲しい」って伝えたの? と訊くと、答えは必ず「No」なのだ。どう考えても相手に悪気があるとは思えない。ルームメイトを不快にさせてやろうなんていう意図はまず感じられず、そのことを一言伝えれば、きっと理解してくれてやめてくれるだろうと、おれは思うことばかりであった。
ところが、日本人はそういうことを言う勇気が無いのかどうかわからないが、相手に伝えようとしない。日本人同士だと、この問題はより深刻化する。
まあ、本人に言わないならそれも良いと思うが、そんな話に関することを関係無い人に言いふらして、どうするの? 狭いこの日本人コミュニティでは、必ずと言っていいほど、結局は本人に漏れる。聞いた方が口が軽いのではなく、いろんな人の耳に入ると結局は・・・という話である。
で、そんな話が第三者から本人に漏れ、その本人は当然ながら不快感を感じ、不信感を抱かせるのに十分だっただろう。仲が良かったために一緒に住み始め、1ヵ月足らずで絶交とはなんと悲しい話ではないか。
しかも、両者お互いに同じことをやっていたりする。
さらにしかも、理由がくだらない。
おれは、誰かに対する不満を、本人に伝えずに第三者にのみ伝えるということが、いかに愚かなことなのか、身に染みて認識するのだった。
おれもこの種の話の被害者になったのだが、その話はまた別の機会で。
珍しくサイゾーがまともなことを書いていた。
■災害現場の困ったちゃん!? ボランティアに求められる自己責任の大原則
住民「そこは触らないでおいてくれ」
自ボ「片付けますよ」
住民「いや、そのままでいい」
自ボ「いえいえ、僕らボランティアでやってきたんです。遠慮しないでください」
住民「いや、そのままにしておいて欲しいんだ。やめてくれ」
自ボ「僕らボランティアなんですよ! なんでそんなこと言うんですか!?」
自ボ=自称ボランティア
こういう類の会話は、阪神淡路大震災で注目を浴びた。それから15年近く経つが、いまだにボランティアの概念を誤解している人が多い。ボランティアだからって、何か偉い崇高なことでもやっているとでも誤解しているようだ。
人が嫌がることをやって、何が「自分はボランティアだ」だ・・・
ボランティアとVolunteerが全く別物であると思う。
日本人は、他人のために無償の奉仕の精神で接することができる民族だと思う。そう、無償の奉仕だ。
それと同様の意味を持つはずの、“ボランティア”となると、全く別の形になる。
愚かな話だ。
■災害現場の困ったちゃん!? ボランティアに求められる自己責任の大原則
住民「そこは触らないでおいてくれ」
自ボ「片付けますよ」
住民「いや、そのままでいい」
自ボ「いえいえ、僕らボランティアでやってきたんです。遠慮しないでください」
住民「いや、そのままにしておいて欲しいんだ。やめてくれ」
自ボ「僕らボランティアなんですよ! なんでそんなこと言うんですか!?」
自ボ=自称ボランティア
こういう類の会話は、阪神淡路大震災で注目を浴びた。それから15年近く経つが、いまだにボランティアの概念を誤解している人が多い。ボランティアだからって、何か偉い崇高なことでもやっているとでも誤解しているようだ。
人が嫌がることをやって、何が「自分はボランティアだ」だ・・・
ボランティアとVolunteerが全く別物であると思う。
日本人は、他人のために無償の奉仕の精神で接することができる民族だと思う。そう、無償の奉仕だ。
それと同様の意味を持つはずの、“ボランティア”となると、全く別の形になる。
愚かな話だ。