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KengoBlog 日々是思考

主に日々の思考の記録。たまに言動の記録。嗜好の記録も。

久しぶりに行ってきた。この手のライブ。気がついたら3年ぶり。
長いこと冬眠していたもんだ。

ちょっと前にあった「鹿児島ウェスタンカーニバル」も名前だけで行かずにはいられないと思うライブだったが行けず、しかし今回は、やっと行けた「鹿児島ケントスライブ」。いやあ、これも名前だけで素晴らしい。

かつて鹿児島にもあったケントス。一夜限りのケントス復活@鹿児島CAPARVOホール。宮崎日帰りの仕事を終わらせて急いで会場に向かった。キャパルボホールも久しぶり。2部構成の第2部へ。


受付を済ませて、会場に入った瞬間にトップバッターのビリー諸川さんのステージがスタート。すごいタイミング。ロカビリーのスタンダードナンバーを次々と。
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2番手はビリーさんの娘さん、LIKA。初めて聴いたけど、パンチの効いたボーカルで、かっこよかった。1曲目の間奏に入る頃には・・・・「気に入った!」と自分に呟いてた。自分の学園祭を休んでまで、ようこそ鹿児島へ! 


LIKAさんのCDを早速買って、親子のサインを頂きました。早速今日は車内でガンガン聴いた。話も少しできて貴重な時間を・・・。あ、せっかくなら3ショット写真をお願いすればよかった。少なくとも頼める状況だったのに。日本男児のカメラには自分が写っていないという典型的なヒトです。
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いったん外に出て、ビールを補充してから(その間1バンド見れなかった、すまぬ)、The Screamers。メンバーチェンジ&コンバートがあったこともあり、また、ひさしぶりだったこともあり、楽曲構成が結構変わっていた。ま、かっこよさは相変わらず。
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最後に福岡ケントスより、シャドーズ。典型的なオールディーズ構成で、(実は行った事ないけど)いかにもケントス!っていう内容だった。60年代中盤から80年代はおれのツボではないけど、知っている曲ばかりで楽しめた。
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今となっては、ボーカルの女性のこの格好・・・・はるな愛に見えてしょうがなかったが。

いろんな人に久しぶりに会えて、やっと話すことができた人もいて、ついでに思いがけない人にも会えて、いやあ、楽しかった。おれがいつも行くライブより客の年齢層が高く、というか、高い年齢層の方がいつもより多く、元気よく踊っているさまを見ただけで嬉しくなった。


自分でもまた何か奏でたくなったな。
これだけは言っておきたい。

TPPに対して賛成する人、反対する人、そりゃ両方居るだろう。立場によって考え方は違う。ニュースになるのは、“誰誰が賛成”や“何それが反対”ということばかりで、なぜ賛成・反対しているのかがイマイチ伝わってこない。項目が多岐にわたり、複雑なのにもかかわらず、農業と工業で対立しているかのような報道も相変わらずで、そうじゃないと言いたげに取ってつけたようにそれ以外の分野の話をおまけ程度にやっていても、全体像は見えてこない。

参加して、すべてがプラスになるわけではない。すべてがマイナスになるわけでもない。だからこそ、意見が対立するのだが、それらを総合して見た時に、国として、日本として、プラスなのかマイナスなのか、そうやったらよりプラスになるのかを調整・遂行するのが、政府というものの役目だろう。

単純な話ではないと前置きするが、“仮に”単純に参加したら農業が損して工業が得する仕組みだとするのなら、国内の農業をどう守るか、それができるのか、どうやったら国全体の産業が活きていくのか、その方法を探っていくことが政府として大事なことだ。

おれは具体的にどうやったら良いのかわからないが、これこそ政治家の、政治の本来の役割であるはず。各分野の専門家の意見を上手く集約させて、国家全体が活きるような方法を選んで欲しい。


おれの少ない知識で意見するならば、TPPは基本的には賛成だ。ただ、まとめて議論するのではなく、相手国によって個々の取り決めをして、個々にFTAを結んだ方が良いという意見も納得するものがある。そうなると、TPPそのものは賛成とは言えなくなるか。


冒頭に「これだけは言っておきたい」と書いたが、言いたいのは上記の話ではなく、ここから先だ。


「TPP参加に反対」ではなく、「TPP交渉参加に反対」という意見はどうにかならんか。交渉そのものを放り出す意義は何だ? 

「交渉の席に着いておきながら、やっぱりやめますは国際社会ではルール違反だ」という意見を聞いた。そんな馬鹿な話があるか! それは“やめます”の理由が明確で無い場合だろう??

日本の立場を明確に主張し、日本の思うようなルールが作れば理想だろう? しかし交渉事なのだから、譲れる部分は譲る。譲れない部分は譲らず、最終的には不参加の結論を出せばいい。譲れない部分が何であるか、なぜなのか、を明確に主張する以上ルール違反である筈もない。これまでやってきたような、うやむやにする日本の政府のやり方をここでやってしまうとおかしな非難を浴びる結果になるかもしれないが、そんなやり方をしなければいいだけの話。これは重要なことだ。



反対派が大勢を占めているわけではない現状を考えると、交渉破棄だけは避けるべきである。
こういう悩みは、高くないレベルでもスポーツをやっている人にとっては、よくあることなのだろうか?

おれは現在33歳。決して老けてはいないが、若くもない。バスケットボールのチーム練習は毎週日曜日の夜2時間。仕事で行けないこともあるので、平均すると月2~3回だろうか。個人練習無し。試合は年7回程度。これも行けないこともあるし、行っても出られないこともある(むしろ最近多い)。

中学2年の6月くらいにバスケット部に入った。実は1年の時は野球部だった。根性が無くて辞めてから、毎日がつまらなくて、バスケット部のやつにバスケットボールの魅力を聞かされてすっかりやる気になって入部した。中3最後の大会では3年生19人中、ギリギリ15人目としてベンチに入れた。結局試合には出たことがなかった。高校では腰を傷めたり、つまらなかったり、根性が無かったりして2年の秋で辞めた。試合どころか1回もベンチにも入れなかった。中3からNBAにはまり、すっかり観る方に漬かっていった。今でもNBAだけじゃなくて、NCAAや日本代表、日本のトップリーグから高校まで、見ていて楽しいし、観戦仲間が居なくて寂しかったりもする。

まあ、だいたいこういう観戦マニアっぽいやつは下手なもんである。

高校を卒業して、中学の同級生が社会人チームを作り練習・試合をしていることを知った。そのチームに2年目から入り、はや14年経つ。当時は、誰でも社会人チームというものを作れてリーグに入れるということに驚いた世間知らずのおれだったが、中学高校でまともにやれなかったのに、長くやってると言えば長くやっている。練習も厳しくないし、厳しい指導者も居ないし、周りは同級と後輩ばかりだしっていうのあるけど・・・。


おれがバスケットをしていることを知っている周りの人は多いだろうが、おれが恐ろしく下手だということに知っている人はきっとあまりいない。実際に一緒にやった人からすれば一目瞭然だが。何よりスタミナが無い。昔から下手ではあったが、ここ数年本当に酷い。分かり易い例を挙げると、ノーマークのゴール下シュートを外してもチームメイトからブーイングされないくらい、みんなから下手と認識されている。

そんな状況だから、どれだけチームメイトに迷惑をかけているか計り知れない。基本的には“楽しくやろう”というチームだが、ここまで酷いとな・・・・。最近は試合には、とても恐ろしくて出る気にもなれん。大差が付いて、終了間際に少しやれれば十分だ。今、チームには若くて上手いのが何人か居る。ベンチで見てて惚れ惚れするくらいだ。

チーム状況を別にしても、たった数十分練習しただけで、翌々日まで全身が痛かったりする。自分だけを考えても続けることに疑問を感じることもある。たった週1回しかやらないのがいけないのだが、練習しても上手くなる感じがないし、激しく動いて痩せようと思ってもその通りにならない。

今年いっぱいでやめようかって話は、同世代では毎年のように話題にあがるが、なんだかんだでチームと深く関わっているメンバーはずっとやっている。下手なおれでも、練習して今のスキルがある。やめたら一気にもっと下手になるという怖さがある。体力の衰えも急激なものになると思う。試合にほとんど出られないとはいえ、試合があるから練習が実のあるものなのだと思う。こういったことを考えると、しかし、怖くてやめられない。

もし今やめれば、例えば1年間ボールに触れなければ、きっともうやることは無いと思う。競技の性質上、40代や50代になって急にやろうと思ってできるスポーツじゃない。歳とっても観戦は楽しめると思っていたが、トッププレイヤーの真似ごとすらできなくなるのかと思うと、一抹の寂しさを感じている。


おれみたいな底辺でやっている一プレイヤーがこんなことを何年も悩んでいる。トッププレイヤーが引き際を考える時っていうのは、その想いは計りしれないな。きっと、本当に微塵も後悔無しで引退するプロ選手って居ないんじゃないかな??


・・・・という想いを書いていたのだが、バスケットシューズが左右とも全壊寸前だったので、昨日新しいシューズを買った。これでまたしばらくはやめられないな。
3年前に、10年前の今日おれは旅立ったhttp://ameblo.jp/kengojc/entry-10516344403.htmlと題し、留学に出発した日の話を書いた。

それから時は過ぎ、昨日で、今度は帰国してからちょうど10年経った。

早いもんである。

今年は、10年を意識させられる年だ。
10年前に想像しなかった現在がある。
10年後、おれはどうしているだろう?
学ぶことに専心できた日々が遠く感じる。

あの時の3年間と、この3年間の時の長さに違いがあるのだろうか?


10年前から変わらないこともある。
10年前くらいから世のヒット曲に興味が無くなってきた。

10年前に買い乗り続けた車を今、買い替えようとしている。
(この事はまた改めて詳しく書こう)



当時の仲間と、(ネット上も含めて)思い出話をすることがある。
だんだんと記憶が薄れてきている。


10年を一単位とするならば、それをあと何回人生で経験できるだろうか。
人生は積み重ねの部分も多い。



さ、次代も楽しく生きよう。
前回の続き

多国籍合宿の参加者アンケートには、スタッフへメッセージを書く欄がある。ここに書かれる内容は大きく2つに大別される。1つは、このような機会を作ってくれた事に関する感謝・お礼。もうひとつは、平たく言えばクレームである。

そして、そのクレームの内容は、これまた2つに大別される。イベントの中身に関するもの(難しかった、分かりにくかった等)と、段取りに関する事(時間通りに始まらなかった、部屋が分かりにくかった等)である。段取りに関してはどうでも良いものが多いのだが(重要性としては下位という意味)、内容に関しては基本的には真摯に受け止めるべきだと思っている。ただ、的を射ていないものも結構多く、それはそれで趣旨が伝わっていないと反省する必要があるものである。


2006年の多国籍合宿が終わって、参加者のアンケートに目を通していたら、ある意見におれは怒り狂って発狂した。スタッフへの意見として、ある日本人参加者からこのようなコメントがあった。

「何もすることがない時間帯があった」


以前は、参加費を支払って参加する参加者は、「お金を払った私を何で楽しませてくれるの?」という姿勢の人も結構居たように思う。それは年々減ってきており、ボランティアベースのイベントという物の、そもそもの仕組みが理解されつつあるように思う。が、それとは真逆のことが書かれていた。

多国籍合宿は、スケジュールが詰まっている。大人数が移動するため、合間の休憩&移動時間が30分取られていたりするが、この年は規模を小さくしたために、スムーズにその移動等がなされた。恐らくはこの時間帯を指していたと思われる上記の発言には大いに驚いた。そこらじゅうに外国人が居る。日本人も居る。何もすることが無いというのはどういうことなのだろう???

日本人の主体性の無さというものは、それ以前から感じていたが、このような意見を堂々と書いて伝えることまでもできるということは、恐ろしく恥ずべき行為ではないか? おれは頭の片隅で、自分の理解力が乏しいだけで真意は別のところにあるのだろうと信じたいが、その真相はわからない(としておきたい)。アンケートが無記名式だったことが悔やまれる。


仕事で中高生に、日本人は自主性・自立心・自己主張ができない(足りない)と訴え、それを鍛える事が国際社会で活躍できるようになるために必要だと指導している。その数年後が、多国籍合宿の主な参加者となる大学生となる。ここでおれが接する世代だ。この頃から、「自己主張ができない」日本人を鍛えていかないと日本に先は無いと考えるようになった(自分も含めてである)。

まずはその現状に気づいてもらうこと。その前に日本人スタッフに気づいてもらうこと、そして、日本人の参加者に伝える立場になってもらうこと。おれが多国籍合宿に関わる個人的な目標が定まった。


ここ数年400人の参加者全員が一堂に会する「総合討論」というものが組まれている。各国のパネリスト4~8名程度とコーディネーターが一通りの話を進め、それから意見がある方は・・・と会場に投げかける。すると半数以上を占める日本人から意見が出てくることはほぼ皆無だ。ある年は一生懸命に発言していた唯一の日本人が小学生だったこともある(大学の先生の息子だったと後に知った)。


異文化理解の唯一の方法は、相手文化の事を知り、自文化を相手に伝えることであり、そのためには意見を交わし合うことだと思う。日本人は外国に興味を持つが、自文化を発信しない。異論もあるかもしれないが、一般論としてはそう言えると思う。


ここ数年、スタッフ同士、しかも日本人同士でこの姿勢が見られなくなってきている。意見の交換・情報の共有がなされない。日本人同士でさえこれをしなくて、異文化と本質的な“交流”ができるのか、甚だ疑問である。4~5年前に掲げた個人的目標は、スタッフの時点で大きな課題として留まっている。この点は去年もしつこいくらいに書き記したが、この難題(となってしまった物)の大きさに、いつも呑み込まれてしまいそうで、時におれは怯えてしまうくらいだ。


また、この数年、時を同じくして、「日本人の留学生が減っている」というニュースが形を変えて幾度となく報じられた。社会問題である「ひきこもり」が、国家的な規模となりつつある。自己主張をしなくなった日本人と、このニュースは無関係では無いはずだ。


しかし・・・・・今のところ、自分としてできることとして、解決の糸口さえ見つからない。大きなトンネルに入ったままだ。
前回の続き

2006年頃から見えてきた課題のことを書こうと思っていたが、思い出した事があるので、その話を先に。

この年は、なんとか大学から鹿児島大学への第一号交換留学生だったと思うが、台湾からの留学生が大活躍した。そんな中、台湾を国と表現した(確か「30ヵ国」などというような表現に、台湾が含まれていた)資料に対して、中国人留学生が「台湾は国じゃない!」と反発するという出来事があった。中国と台湾の件は、ひととおりは知っていたが、実際に当事者同士が複雑な感情を持ち合わせているということを初めて実感した。日本人にとって日本という国が存在するのは、当たり前過ぎる事実であり、国という物の概念は、他国と比較することこそあれ、絶対的に国が何なのか考える機会は皆無に等しい。

中国・台湾双方の感情にも驚きを感じたが、それ以上に驚いたのが、「台湾って国じゃないの?」とか「台湾って中国じゃないの?」という反応が日本人からあったことだ。しかも意外と多く。先の件は結局よく使われる表現「30の国と地域」に改められた。


「国」を考えさせる出来事で、思い出す事がもうひとつある。

合宿の申込書には、国を書く欄がある。日本人なのか、外国人なのか、どこの国の人なのかということなのだが、ここが「国籍」という項目になっていることに、おれは疑問を感じ、「これは国籍という表記が良いのか?」とスタッフのみんなに疑問を投げかけた。

例えば在日韓国人で、韓国に行った事もなく、韓国語も全くしゃべれない人に、「韓国」と書かせる意義は何なのか? 生まれた国と、育った国と、今拠点にしている国(どこから日本に留学しに来ているか)と、国籍とがすべて違うというのも、世界を見渡せば極端に珍しい事では無い。アイデンティティがどこにあるかが大事なことで、国籍(nationality)と指定するのは適切ではなく、「国(country)」を書いてもらおうという提案をし、そうしようとの結論が出た。

国籍にこだわらないということは、「“多国籍”合宿」という名称の根幹にかかわるものなのかもしれない。しかし、そもそも国籍や多国籍という言葉は、極めて日本的・日本語的である。「国籍」という制度が重要では無いのだ。「多国籍合宿」も、いろんな国籍の人を集めているのではなく、いろんなアイデンティティを持つ人が集まっている合宿ということだ。上で挙げた在日韓国人の例も、日本人と何ら変わらず生きてきていると思うなら申込書に「日本」と記載すれば良いし、自分が韓国人というアイデンティティが強いのであれば自分の国は韓国とすればいい。


この頃おれは、自分の中で多国籍合宿のことを、もっと人に知ってもらうためにはどうしたら良いかいろいろ考えていた時に、ふと、あの一体感を表現する一要素として、国籍や文化や肌の色で仕切り分けるものは何も無いということがあると思い、「無国籍合宿という表現もできるな」とふと思ってしまった事がある。瞬時にこの発想は恥ずかしいと思い「アイデンティティを消してどうするんだ!!」と自分で自分に激しいツッコミを入れて、猛烈に反省したもんだが・・・。


まあ、そんなこんなことがあり、申込書の記入欄を「国籍」→「国」にしたが、結局翌年にまた「国籍」に戻っていたという・・・・。しかも、「国籍」にした理由というものは存在していなかったようだ・・・。


多国籍合宿は、日本人と外国人(留学生)双方のスタッフが居て初めて成り立つものであるが、ここは日本であり、あくまでベースは日本人の考え方であるとおれは思っている。日本(人)の考え方を強制するようなやり方はよくないが、日本人と外国人の関係というものが、日本においては基本になるのだからだ。日本においての中国人と韓国人の関係や、日本においてのアメリカ人とムスリムの関係などといったものも、興味深い視点ではあるが、まずは日本人と非日本人が基盤だろう。

おれは「国際人」という表現が嫌いである。日本人でも中国人でもアメリカ人でもアフリカ人もユダヤ人でも無いお前はどこの何者なんだ!?と言いたい。「国際」という言葉に幻想を抱いている日本人が多いのは事実だが、どこまで具体性を持って理解しているかというと、ほとんどの日本人は理解していないと断言できるだろう。例えば日本人なら「国際社会で活躍できる日本人」になって欲しいものである。



つづく
前回の続き

2005年は再び職に就き、仕事が多忙だった事もあり、ほとんど手伝うことができないまま、あっという間に時間が過ぎていった。この年の合宿当日は1日目のみの参加。物足りなさと若干の虚しさを感じた。スタッフとして十分に携われないというのは、こんな寂しい感じなのか、と。

スタッフとして関わるのは大変だから、一般参加者で・・・。今もそうであるが、その頃よく聞かれたフレーズである。当時はそういった意見に対して「それもわからなくないけど・・・」と一抹の寂しさを感じていた。

2005年のスタッフは2004年から続けて携わった人が多くて、そういう意味では一定の進化を感じた。が、内容に関してはあまり変化が無かったように感じた。

(誤解して欲しくないのだが、あくまでも「感じた」ことだ。自分の関わり方が不十分になったのが最大の要因だろう)


2006年も同様に動き出した。継続スタッフも一定数居た。しかし動き始めてしばらくすると、「中止」が決定した。理由は「留学生を巻き込めず、日本人だけでやっている。この体制では日本人のためだけの合宿なってしまうから」ということだった。その頃のミーティングにも出席できていなかったので、言葉通りで受止めるしかできないが、他にも要因はあったことだろう。


しかし、ここで途切れさせるわけにはいかず、2007年には復活させないともったいない!と思ってはいたが、思っていただけで、何も行動せずにいた。本来合宿本番を迎えていたはずの6月になり、「やっぱり今年もやろう。立て直して動き出そう」という動きが出てきた。そんな動きが学生の中から自発的に出てきたのは嬉しかったが、一方では、「できなかったことが今できるのはなぜ?」という疑問も消えずにいた。動き始めてからしばらくは、アメリカ出張と重なり、ミーティングに出席できず、準備に向けてやり取りや会議議事録が知らないスタッフの名前で出回っていて、それらを目にするおれは、とにかく不思議で不思議でならなかった。

ところが、ようやく参加できたミーティングで、おれは目を覚まさせられる想いだった。活気のあるミーティングで、不安は全部吹き飛んだ。留学生も積極的に関わっていた。もうひとつ驚いたのは、スタッフ経験者がほとんど居なかったことだ。この年、多国籍合宿は刷新された。遅れてきた年長者スタッフとして、この時からおれ自身の立ち位置も変わった気がする。質問を投げかけたら、返事がすぐかえってきた。いじわるな質問にも、スタッフ同士話し合って、自分(たち)なりの答えを常に探していた。時には逆に難しい質問を投げかけられ、答えられずに戸惑う事も多々あった。

先述したように、多文化共生は簡単ではなく、多国籍合宿が鹿児島の異文化交流に十分生かされているかといえば、決してそうではない。そもそもそんなに簡単にできるなら、多国籍合宿など必要無い。では、どうやったら、もっと生かされるのか、どんな合宿ならいいのか、合宿後に参加者に生かしてもらうには何が必要なのか・・・あちこちからこんな議論が聞こえてきた。意見交換が活発だった。この勢いだと、当日も異文化間でおもしろい意見交換ができるぞと、大いに期待できた。



個人的にもこの年は、バンドで演奏をしたり、より留学生と関わることができたりして、充実したものができたと感じた。例年と異なり、秋に開催となったことにより、仕事の多忙期と重ならず、準備から当日まで十分に関われたことは大きかった。分科会では、悔し涙を流す参加者も居た(事情省略)。悔しい想いをした本人には悪いが、そこまでの想いがあることを、おれは嬉しく思ったものだ。



しかし一方で、新たな課題が見えてきたのもこの頃だ。この課題は以前からあったと思うのだが、自分にそれを見えてきたのはこの頃だったと思う。仕事で感じることと重なる事も大いに関係している。この課題が存在することを学生スタッフに知ってもらうことが、自分の役割だと感じるようになった。


つづく
前回の続き


多国籍合宿の醍醐味のひとつ(最大の醍醐味だろう)は、鹿児島に住んでいる外国人の生の声を聞けることである。それも、決してうわべだけのものでは無い。彼らが何に悩み、どんな苦労をしているのか。彼らからすれば、日本は異文化であり、異文化圏で暮らす異人であり、いわゆるマイノリティである。

おれは当初、鹿児島にはどれくらいの外国人が住んでいるか知らなかったし、どれくらいの留学生が居るのかも知らなかった。これは今でも多くの鹿児島人がそうであろう。

鹿児島に居る留学生は中国からの学生が跳びぬけて多い。次に韓国である。この2カ国(とオーストラリア)に共通するのは、日本語学習者が多い国という点である。例えば中国は、日本語学習者数が国別で2位である(ちょっと古い10年くらい前のデータですまぬ)。では中国国内で見た時に、外国語学習者数で、日本語が何位に位置しているかご存知だろうか? おれも初めて知った時には大いに驚いたが、なんと27位である(これまたちょっと古いデータ)。1位は恐らく英語だろうか。あと25個も言語をおれは知りませぬ。つまり、日本語を学習するのは中国では珍しいことであり、その延長にある日本へ留学というのは、時に「なんで日本なんかに?」と白い目で見られるのである。(2003-04年ころというのは、教科書問題や靖国問題があったことも影響しているのだろうが)

中には、「本当はアメリカに行きたかったけど、枠が無くて(試験に通らなくて)日本に留学することになった」という人も居るようだが、ほとんどが日本で学びたくて留学しに来ている学生だ。彼らは卒業後、祖国のため、日本のため、祖国と日本の架け橋のために活躍できる職を求めている。が、実際にはそんな職はなかなか無い。祖国のためというのはともかく、日本と関わって活躍するチャンスはごく一部の極めて優秀かつ運の良い学生を除いては、ほとんど無いと言っていい。日本を好きになってくれた彼らに、我々は何をしてあげられるのだろうか? アメリカ合衆国が、アメリカ留学に来た世界中からの留学生を、アメリカと祖国の架け橋に活躍させる機会を作っているのを見ると(分母となる数自体が各段に違うのであるが)、日本(人)が元来、本質的な異文化交流をいかに避けてきているのかがよくわかる。

鹿児島に居る留学生(外国人)は、差別を受けることも無いわけではない。地元住民と衝突することも無いわけではない。日本文化圏に、別の文化が住みつこうとすれば、そこに衝突が起こるのは至極当然であるはずだが、現実として、そこには摩擦すら起こらない(起こりずらい)環境なのである。良くも悪くも、日本人は彼らに距離を持って接している。なかなか本音を出し合う機会も無い。

留学生が留学生である特徴を生かして、小中学校などで特別授業を行う機会がある。以前はこれが酷かったらしい。多国籍合宿が始まる以前は、彼らは見世物のように扱われ、例えばムスリムといえば、豚が食べられない、酒が飲めない、一夫多妻制、女性は肌を見せられない、テロといったステレオタイプな話をする(させられる)ことに終始していた。

多国籍合宿という場で、本音を出してもらう。これが国によっては非常に難しい。いわゆる言論統制に近いことがなされている国の留学生は、自分の発した言葉が祖国の政府に伝わると危険なことになることもあるようで、過去一部の分科会では厳戒態勢が敷かれた事もある(ちょっと大げさ。要するに録音・撮影等を禁止した)。結果的に、地域の日常生活で、本音(に近い言葉)で、徐々に、本当に徐々にではあるが、日本人と留学生(外国人)で交われるようになった。少なくとも自分はそうだし、また少なくとも合宿に関わった人たち(特に留学生)は、それができるようになってきている。

先述した学校現場での特別授業でも、昨今では(少なくとも鹿児島大学を通じて依頼がある分に関しては)、依頼してくる学校(つまり教員)が、事前に十分に学習した上で、そういった授業を生徒たちに向けて行うように、その仕組みができてきているようだ。


そういう意味では、多国籍合宿を通じて、ある種のレールを敷くことができた部分はあるように思う。一方では、やはり表面だけの国際交流が主流ではあり、そのシステムに呑み込まれる恐怖は常にある。かと思い警戒していると、一方では何も説明しなくても、深いところまで考えて接することができる人(や国際交流のプロ)が意外と(?)多いと気づかされることも多々あるというのも、これまた事実なのである。



つづく
前回の続き


2004年の多国籍合宿に関わってみて、ありふれた表現になるが、非常に有意義な時間を過ごせたと思った。そして、この理念は1回で終わらせてはいけないとも痛感した(4回目だけど)。

合宿の目玉である分科会ではいくつか秀逸な企画があった(2003年以前の企画も含まれる)。例えば「国際問題を話し合う」となれば、摩擦を起こす両者が対立しながらも理解しようとするものを想像するが、現実はおれの想像を超えていた。例のテロの翌年、2002年ではムスリムについての分科会が開催されたが、西洋文化圏とムスリム文化圏の間で対立(要はケンカ)が目の前で見られると目論んでいたが、実際にはムスリムの留学生同士がケンカをし始めた。

他にも「ドイツ再統一」は、日本が経験していない国家の分裂→再統一というのはどういうことなのか、ドイツの留学生や韓国の留学生から実際に話を聞く事ができた。ダンスや歌や料理を紹介したりされたり、経験したりという、表面上の一側面だけの交流ではなく、突っ込んだ部分で生の意見交換ができるのはこの合宿の醍醐味だと感じた。

また、各分科会の主催者は日本人大学生や留学生ばかりではなく、県内各機関・組織で活躍されている方々の協力があって成り立っていた。鹿児島の国際交流イベントの集大成になりつつあった。そういう意味では大いに誇りに感じながら関わっていた。



一方で、問題・課題も当然ながらあった。2004年当初から変わらないものもある。


開催に向けて動き出した時から気になってはなっていたが、スタッフはごく一部を除いて、初めて関わる人たちばかりであった。膨大な仕事量に押し潰され、貢献したスタッフほど、翌年はスタッフとして関わらないという悪循環があることを、身を持って実感した。運営面での段取りの悪さを改善させることが急務であった。しかし残念ながら、それから7年経ってもこれは改善された感が無い。恐らく正確に表現するならば、改善はされつつあるのだが、それと比例して、さらに多くのものを求めているからこそ、慢性的に作業量の負担は許容量を超えている状態が続いている。

それと、以前と比較すれば改善は見られている気もするが、相変わらずの根本的な問題のひとつとして、「国際交流」が華やかで浮ついた言葉となっている実情がある。当初聞かされていた表現が「外国人の多い400人の合コンという認識で参加する輩もいる」だった。そこまで極端な例は僅かだろうが、国際交流というものが浅い部分での楽しみだけで構築されたものという認識は、平均的な日本人のそれだろう。残念ながら、分科会主催者やスタッフとして関わった人でさえ、それだけの認識しかない人もいた。さらに残念なのは開催の2日間を過ぎてもその認識に変化が見られない場合である。


個人的なモチベーションという意味では、この点を変えたいというのが最大のエネルギーになっている。



つづく
これまで節目節目に多国籍合宿に関する事を書いてきているが、ここで改めて書こうと思う。

  【これまでの記事】
   →【2006年】多国籍合宿を終えて
   →【2007年】多国籍合宿始動
   →【2007年】多国籍合宿を終えて
   →【2008年】多国籍合宿を終えて
   →【2009年】多国籍合宿を終えて
   →【2010年】多国籍合宿は今年で終了
   →【2010年】続・多国籍合宿をどうするか
   →【2010年】ドキュメント九州「多国籍合宿」が放送された
      ※募集告知等を除く

多国籍合宿とは、2001年より毎年一度、一泊二日で行われており、参加者人数の規模としては200~450人。3分の1~半分弱くらいを、留学生をはじめとした外国人が占める。“多文化共生社会構築のチャレンジ”(The Challenge for a Multi-national society)を総合テーマとし、例年15-30ほどの分科会が催され(一人が参加できるのは2つ)、総合討論と呼ばれる全員参加型の討論会が開かれ、また、夜には異文化紹介と銘打った各国文化、つまりは音楽やダンスや演奏が披露(及び、その体験)される。

単純に言ってしまえば、多国籍合宿の言葉からイメージできるような、異文化が混在することによって生じる問題や摩擦を、直に知って学び、地域社会での日常生活に生かそうという趣旨である。


・・・と、至極簡単に概要説明を書いたが、毎度毎度この合宿の説明というのは難しいものである。この合宿にはいろんな側面があり、複雑に様々なものが絡み合い、合宿そのものがSalad BowlやMelting Potと言える状態である。



さて、おれは2004年からこの多国籍合宿にスタッフとして関わり続けているのだが、最初にこの合宿について知ったのは、2002年の元日だった。2001年の6月に留学を終えて帰国したおれを、昔のバイト仲間が「鹿児島に居る留学生たちと初詣に行こう」と誘ってきた。その時に行った先で知り合った人から「多国籍合宿っていうのを6月頃にやるんだけど・・・」と誘われたのが、その存在を知った瞬間だった。その「知り合った人」は、合宿に関わった人はみんな知っている1年目から皆勤賞のギターを弾くあの人だ。

あとで思えば、この時は2001年5月に1度開催しただけで、その後も毎年開催するというのは、期待はしていても予定はされていなかったのだと思う。2002年の準備が始まる頃に声をかけられたが、やっとちゃんと就職した頃で、土日を休めない仕事でもあり、興味はあったが関われずにいた。当日参加もできなかった。2003年も同様だった。


2004年になり、その年の多国籍合宿スタッフミーティング1回目の案内が来た。仕事をやめていて時間があり、以前から興味があったイベントであり、帰国して異文化に触れる機会が激減していたこともあり、そして、鹿児島に、身近に居る留学生はどうのような人たちが居て、彼らが普段何を考えているのか興味があり、勇気を出して足を運んでみた。

学生で無いメンバーはごく僅か。元々初詣の時に誘った友達もこの日はおらず(後に仲良くなっていた)、20名くらいの前で自己紹介をしただけで非常に緊張したのを覚えている。大学生と触れるのも久しぶり(というか初めて?)、留学生は日本人より色々な意味で大人で、また、年上の社会人の方も居た。この多国籍合宿を取り仕切っている教授は「多国籍合宿(のようなこと)をやりたくて鹿児島に来た」人であり、これらすべての出会いが大きな出会いとなった。



長くなりそうなので、ここで一旦話を区切ろうと思う。


ところで、書いていて改めて思った事をひとつ。

もともとは、留学生や異文化に興味があって足を運んだのだが、それから7年も関わるなんて、この時は全く思っていなかった。そして、ここ4~5年は、自分の興味の対象が留学生では無く、日本人や日本人学生に向けられている。我ながら興味深い。



とにかく、異文化理解、国際交流、多文化共生などといった、美化されがちな事に本気で考えるようになったのは、多国籍合宿の影響が非常に大きい。そして日本人について考えるようになったことも。

ちょっと頭の中を整理して、記しておきたい思う。

つづく