けんGさとうの座布団一枚 -4ページ目

けんGさとうの座布団一枚

日記的な。音楽とか本とかアニメとか趣味的な。


NO USE FOR A NAMEのギタリストが亡くなったことを受けてのKen YokoyamaのライブでのMC。からのSoulmate。

この動画見て感じたことをば。
ある人がいて、ある日その人が亡くなってしまっても、その人が残したものがあるっていうのは素晴らしいと思ったし、単純に羨ましいなと。その残したものを他の人が伝えてくれたらもっと嬉しいなと。思ったっす。今まで考えたことなかったけど、そんな一生を送ることができたら、死ぬとき満足できそうなんじゃないかなと。

俺には何を残せるのか。そこで考えてみたけど、どうやら今の俺には何も残せなそう。少なくとも今は。いや、何かしらは残せるのかもしれないけれども、それと今まで生きてきた23年ていう年月とを比べたときに、その年月に満足するようなものは少なくとも残せなそう。

そんな訳で、これから生きていく上で、何かを残すために時間を使ってみてもいいんじゃないかなと思ったわけであります。そして何かを残すためには、自分のアイデンティティを確立する必要があるのかなーと。「自分は何者か」みたいなこと。それを自分で理解した上で、そこに沿った何かを残すっていうのが、俺自身が残すことの意味なんじゃないですかね。

しかしながら、今の俺には自分のアイデンティティすら確立できていないわけでありまして。なんて言うか、小さい要素が細々と集まって俺の自我を作ってるってイメージしか湧かなくて、”これ!”っていう要素が思い浮かばないわけです。「アニメが好き」とか「バンドが好き」とか「群馬出身」とか、そういうのはあるんだけれども、どれもその要素を持っている母数が多そうなものばかりで、いまいちパリっとしない感触。もっとこう、母数の少ないものをアイデンティティとして持っていたいなと思った次第です。「母数が少ない=他の人と被らない=俺である意味」みたいな感じで。この思考は厨二病か。笑

そこで思ったのが、生きる上での軸みたいなものがあれば、それは唯一無二にかなり近いものになるんじゃないかなと。座右の銘的なやつですな。それを明確にするには、自分にとって譲れないものは何か。それを考える必要がありそうですな。

ただこれは「死ぬときに人生に満足するために何かを作る」って選択肢を選ぶ場合の話なだけであって、死ぬときに人生に満足するためには他の方法もあるはず。そんなことを知るために、いろんな人の死にゆく様を知りたいなーとか思いました。縁起のいい話ではないですな。笑

つーかKenさん短髪になってたのね。そしてAIR JAM2012がとうとう再来週に!DVD出て欲しい。
僕は何かやらかしてみたい
そんなひとときを青春時代と呼ぶのだろう

これは、大好きなバンドの一つである銀杏BOYZの「青春時代」の歌詞の一節。
例えばこれを青春時代と呼ぶのであれば、俺は一生青春時代を過ごしていたい。

「自分は他の人とは違う」

こんなふうに思うことは世間では中二病と揶揄されていて、「んなこと言ってないで早く現実見ろ」とか「厨二病乙ww」とか「お前みたいな奴いくらでもいる」とか言われるわけだ。

確かにそうかもしれない。
でも自分という存在をどう定義するかで、「いくらでもいる」かどうかは変わると思うのであります。
例えばその定義を「アニメが好きで、コミュ力がなくて、ネットばっかやってる奴」とするならば、それは確かにどこにでもいるかもしれない。
でも自分という存在を「自分が過ごしてきた時間全てで培われてきた自分の精神」と定義するならば、それは間違いなくこの世で自分自身しかいないのではないかと思うわけです。
自分という存在をそう捉えることで、「自分は他の人とは違う」ということを自分の中で肯定できるようになる。

「自分は他の人とは違う」という考えを肯定できるようになると、「自分にしかできないこともあるはずだ」と考えるようになる。そこで思うわけです。

「僕は何かやらかしてみたい」

そう考えているからこそ、俺は一生青春時代を過ごしていたいと思うわけなんですね。

ただ、この前の記事でも少し触れたように、「やらかしてみたい」と思うだけではダメなわけです。
そう思うこともいいけど、もっと大事なのはそれを実行に移すこと。

何をやりたいかの標的が定まったら、行動に移す。というか、定まってなくても、少しでも興味を持ったら行動に移す。行動しているうちに見えてくるものとか、行動しているうちにしか見えてこないこととかもあると思うから。

「とにかく行動する」

一生を青春時代として過ごしたいならば、これが大事なのかなと。

周りと同じなんてクソ喰らえ!厨二病なんぞ知らん!
と声を大にして言えるようになりたい23歳。
自分の意見を持つことは大事。
でも更に大事なのは、何のために意見をもつのかを考えること。

地元の友人の一人が「反原発」を訴えてデモを企画したみたいです。
彼が企画したデモは、俺が知るかぎりで二度目。

今回、そのデモについての記事がWeb版の東京新聞に記事として取り上げられました。

脱原発 世代超え連携 足利でデモ「地方からも声を」/東京新聞(http://www.tokyo-np.co.jp/article/tochigi/20120716/CK2012071602000143.html)

自分とは違うなーと思ったのは、自分の意見を持っているだけでなく、その意見をもって実際に行動を起こしていること。これは本当に見習いたい。

俺はまだまだ自分自身にしか思考のベクトルが向いていなくて、自分が「自分にとってダサい自分」にならないために自分の意見を持とう、って考えてるっていうのが素直なところなわけですが、彼はそのベクトルが自分の外側にも向いてて、そのうえで行動を起こせているってところが尊敬です。目指すべき姿が、またひとつイメージできました。

ところで、彼と俺とのこの差は、何によって生まれるんだろうか。
推測でしかないけど、ひとつ言えるのは”問題意識の強さの差”なんじゃないかなと。
そこに差があることで、あるトピック(ここでいう原発)に関する情報の吸収量に差が出てきて、その情報量の差によってさらに問題意識に差が出てくる、、、ってループがあって、スタート時での問題意識に差があることで現時点での問題意識の強さの差が大きくなる。このスタート時の差によって「これに関しては他者を巻き込んででも行動を起こすべきことだ」と考えるか「とりあえず自分の立場を明確にしよう」にとどまるかの差が出てきたのではないかなと。
で、スタート時の問題意識の差は、普段の生活の中でどれほど他人に気を配れているかで生まれてきたものなのかなと思う。そういう意味で俺はまだまだ自分のことしか頭になくて、それでは甘いなと。悔しいっす。またもや自戒。