人間は、自分を愛するように 隣人を愛せるのか? | ken'のブログ

ken'のブログ

徒然なる思いなどを書きます…

投稿写真 
{C0601B58-D4F8-490B-B8D3-B6CA13B3661B:01}
東京 築地に聖路加病院がある。
この病院の評判はすこぶるいい。
あいにくこの病院にお世話になったことはないのだが…

都内の比較的著名な慈恵医大や厚生年金病院、帝京大学付属病院、三楽病院などは診察まで兎に角待たされ、そのわりに診察や対応は疑問が残る経験をした人は多いのではないだろうか。

主題がずれた。
医者で歴史家のルカだけが福音書に記録したJesusのサマリア人の譬え話がある。

Luke 10に出てくる
”永遠の命”を巡る Jesusと律法学者の論争を聞いていて、キリスト教の「救いの教理」について、はたと気づいたことがあった。

その箇所は、Jesus Christの語った話の中の有名なサマリア人の譬え話で、ユダヤ人指導者の律法学者と交わした論争である。

ここは実に含蓄がある箇所で、

Jesusがどのくらい律法について知識があるのか試そうと律法学者が、
「では、”永遠の命”を得るために私たちは何をすればいいのでしょうか?」
と尋ねた。

Jesusは、その問いに直接答えずに
「律法にはどう書かれてますか?  あなたは、それをどう読みますか?」
と逆に尋ね返して、律法学者との立場は一転する。
律法学者は「あなたは専門家と言いながらそんなことも知らないのか?」とJesusに言われる前に 旧約の申命記にある
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くしてあなたの主なる神を愛せよ」
またレビ記の
「自分を愛するように隣びとを愛せ」と答える。
Jesusは「その通りです。それを行えば得られるでしょう」と応える。

だが、それができてないと自覚している律法学者は、自分の言い逃れる道を作るためにJesusに
「隣人とは誰のことですか?」と尋ねる。

天の父は、遥か以前、古いヘビの時より人間の中から偽善者が現れ、多くの人々を惑わすことをすでに予見していた。
それゆえ父の一人子とされる霊を 人の子として、この世に遣わし、Messia(Christ)にしかできない 力ある業と  にわかには信じられない 神の栄光を  一人子を通して世の人々に現した。

その業を見た人々は、みな、恐れた。
と書いてある。

それでもファリサイ人は、その奇蹟を一切認めようとしなかった。

悲しいかな、私たち人間は、父祖の時代から自分が間違いを犯したり、或いは、判断や行動を誤ると言い逃れや他の原因にする性質を持っている。それは自分の親であったり、すぐ近くにいる人たちが悪いからだと。或いはあなたが連れてきたこの人が、と。

ルカ 10に戻ろう。
隣人とは誰ですか?と隣人の定義を問う律法学者に、Jesusは、有名なサマリア人の譬え話を始める。

結論から言うと、
追い剥ぎに会って、身ぐるみ剥がされて死にかけた人を救ったサマリア人がその人の隣人ということなのだが、律法学者は、口が裂けてもサマリア人と言いたがらず、その人に憐れみをかけた者だと答える。

同じ所を通ったユダヤ人祭司やレビ人は、追い剥ぎに会った人が生きているのか、死んでいるのか分からない人に触れることはせずに、避けて通る。もしその人が死んでいると、ユダヤの律法によれば、自分の影が触れただけで穢れることになる。指導者たちはそれを厭い、避けて通る。だが、隣人とは、あなたの隣にいるすべての人のことだ。

ユダヤ人指導者の律法学者たちや祭司、神官たちは、律法に書かれている
「自分を愛するように隣人を愛せよ」
という戒律を知っているにもかかわらず、その神からの律法を守らず、自分たちが勝手に作った口伝律法の穢れに縛られて律法とは真逆のことを人々に伝え、間違いを行っていることをJesusは強く非難したのだ。

ことほど左様に、人は自分が大事で、他人は二の次、迷惑なら関わることすら嫌がる、それが私たち人間の実態なのだ。

あなたがもし、全知全能の神であったとして、そのように勝手な人間が、望むからと言って永遠の命を与えますか?そういう存在が、このきれいな地球や見事なバランスで調和している宇宙のあらゆる良きものに匹敵するに値するものだと思いますか。

現実として私たちは、すべての隣人を愛することなど、できない。

自分などは、電車で隣に息の臭い人や体臭の臭い人がいると、それだけで気分が悪くなり、早くそこから離れたい、と思ってしまう。

日本やアメリカの政治家のように口でどれほど綺麗ごとを言っても私たちがすべての人を愛することなど、到底、できないと思う。それくらい人間は、自分勝手な生き物なのだ。自分が自分勝手である、ことすら認識してない者もいる。

自分勝手な生き物である私たちが、もし聖書が言う”永遠の命”があり、それを得たい、と思うのであれば、完全なる神の前では、自分の罪深さを認識して、その思いと行いを悔い改め、神の慈悲にすがることしか人間には、できないのだろう。

そこに人の子となって、私たちの中に入ってきた神の御子、Jesusの救いの意味がある。Jesusは、避けようとすれば、いくらでも避けることはできたが、自らあの残酷なローマ軍の十字架刑に向かって行ったのだ。
Jesusを神の子と信じ、完全なる神の前では罪ある存在であることを認め、悔い改めるすべての者を 天の父に取りなすために 自ら命を投げ出したのだ。

ローマ総督ポンティオ ピラトには、Jesusに関する様々な情報、ナザレ出身の大工で難病を癒したり、メシアしかできないとされる数々の奇蹟を行ったこと、ユダヤ人指導者たちと激しく対立していることなどが入っていただろう。自ら天の父に使わされた者と名乗るJesusにローマの裁判官として
「おまえはどこから来たのか?」
「真理とは何だ」と尋ねている。
{8749D8FC-9157-4EBE-8724-8B8A80F8C6B3:01}
{F6180EC1-3E9B-49DA-A352-880423F43E63:01}
ローマ軍の精鋭部隊の100人隊長の中には、Jesusの奇蹟を自ら経験して信仰している人間もいたからだ。
{7CD79D1E-22E3-4034-B3CB-7D10C9E097E5:01}
{9F7CA8F8-7F2F-48CC-AE4C-3C297A46DAFA:01}
{170EAF26-C067-4B0D-80A3-B636836D32BB:01}
{174515A2-8F83-4CF0-9104-6A66446721DA:01}
{1ADA36B5-59A6-4763-95A0-827B8CDDD124:01}
自分が殺されると分かっていて、普通の人間なら足がすくみ、途中で逃げ出してしまうのではないだろうか。

それゆえ、自分は何も悪くはない、悪いことなどしていない。あいつに比べれば、まだ余程ましだろう。或いは自分は大丈夫だ、と思っている人にはJesusの言葉は、心に何も響かない。