正月の間、去年一年間のことをずっと考えていた。いいことも、悪いこともあり、またいろいろな人間、判断、考え、そして自分自身のこと。
今年から去年までと一線を画すことを決めた。人の思いは内から出るもので、そこに例外はない。真実は真実で、偽り、虚栄、嫉妬、妬みとは全く違う。
去年一年は反省することが多く、隣人に期待することはやめ、自分に厳しくしようと思う。惰性は止め本質を追求することに専心する。
目標を明確にして実行する。
だから、神社へのお詣りはしない。
日本の神道、仏教では説明ができないし、また信ずるに足る説明や理論、記述、実態がないからだ。あなたが本当に信じているものは何ですか?お金、モノ、家族、金融資産、法然、親鸞、最澄、それとも天照大御神?
今年から去年までと一線を画すことを決めた。人の思いは内から出るもので、そこに例外はない。真実は真実で、偽り、虚栄、嫉妬、妬みとは全く違う。
去年一年は反省することが多く、隣人に期待することはやめ、自分に厳しくしようと思う。惰性は止め本質を追求することに専心する。
目標を明確にして実行する。
だから、神社へのお詣りはしない。
日本の神道、仏教では説明ができないし、また信ずるに足る説明や理論、記述、実態がないからだ。あなたが本当に信じているものは何ですか?お金、モノ、家族、金融資産、法然、親鸞、最澄、それとも天照大御神?
人は時に 大きな決断をする。その人にとって人生を大きく分けていく判断だ。
心に響く声を聞き、それに影響されて導かれるようにその方向へ歩むことがある。
自分は、それをどうにかしようとは思わない。それは個人個人で考え、判断するものだから自分の考えは示せても人を変えることはできない。人間にできることは時間や努力、すべて限られているからだ。
小さい頃、父や母に連れられて地元近くの神社やお寺、京都や奈良の神社仏閣によく行っていた。いつの頃かあの凛とした空気や佇まい、自分の出自である先祖を敬う気持ちや質素ではあるが意を尽くした食事などに心底、心酔した。
でも、冷静に考えると、自分が心酔したのは、整然とした美しさや静けさ、人知れぬ思いであって、そこに神や仏がやどっており、私たちの目に見えない何かがあったのか、というと、厳しく言えば、何も正確な根拠はないし、真実も存在していない。
先祖を大切に思う気持ちは今でもある。
だが、それは神社やお寺によるのではなく、自分の中にあるもので、あくまでも自分の思いだ。
小さい頃、父や母に連れられて地元近くの神社やお寺、京都や奈良の神社仏閣によく行っていた。いつの頃かあの凛とした空気や佇まい、自分の出自である先祖を敬う気持ちや質素ではあるが意を尽くした食事などに心底、心酔した。
でも、冷静に考えると、自分が心酔したのは、整然とした美しさや静けさ、人知れぬ思いであって、そこに神や仏がやどっており、私たちの目に見えない何かがあったのか、というと、厳しく言えば、何も正確な根拠はないし、真実も存在していない。
先祖を大切に思う気持ちは今でもある。
だが、それは神社やお寺によるのではなく、自分の中にあるもので、あくまでも自分の思いだ。
そしてそれを利用する者がいる。
いつのまにか私たちは自分の思いと八百万の神と仏と真理とを混合玉石にして、とりあえず形にしておけば、信仰している、ということにして、形だけ行って満足している。
しかし、盲目の信仰の態度は、人間に与えられた応答能力と義務を放棄していることすら直視しようとしていない。
もし本当に神が、複数存在していたら宇宙の秩序や一定の法則や調和が成立するだろうか?
いつのまにか私たちは自分の思いと八百万の神と仏と真理とを混合玉石にして、とりあえず形にしておけば、信仰している、ということにして、形だけ行って満足している。
しかし、盲目の信仰の態度は、人間に与えられた応答能力と義務を放棄していることすら直視しようとしていない。
もし本当に神が、複数存在していたら宇宙の秩序や一定の法則や調和が成立するだろうか?
宇宙とりわけ太陽系に見られる完璧な調和は、それを司る絶対的な意思が、存在しないかぎり、起こり得ない と思う。
万が一にでも、それが偶然だとしたら、その調和自体、偶発的であり、いつ崩れてもおかしくないということになる。
その偶然が続かなければならない理由など、どこにもないだろう。
あくまでも偶然に起きたのだ、と主張するのならその偶然が継続する理由は、何であると説明するのか。
そこには不毛で無責任な議論しかない。少しも建設的ではないし、無責任さを弁明しているに過ぎない。そこに真の心の平安はない。


