(J)20111106現代文解説 | 講師対談 〜僕らの学問〜

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当ブログはTwitter上での国語講師城福博之と英語講師天藤崇のバトルのまとめや補足を行う場所です。内容に関するご感想はご批判を含め大歓迎ですが、真面目に議論をする気のない方やひやかし目的での書き込みはご遠慮ください。

映画の話、第二弾です




映画は無機的な静止画の連続なのではない。人間の視覚同様、有機的なものである。何故なら、人間も間歇的なリズムを持って世界を捉えているからだ。




今回も、前回に続きまして映画の話で呟きました。


ただ、今回は技術的な側面です。




今回の文章は我ながらハイコンテクストだと思います。




まず


「映画は無機的な静止画の連続なのではない。人間の視覚同様、有機的なものである」


これは


「映画は静止画をたくさん並べて映し出すだけだから、所詮は紙芝居のようなもの。ただその紙芝居の速度が一秒間に何枚も映し出すというだけで、有機的、人間的じゃないよ。それに比べて、人間の視覚は常に動的にモノを捉えていて、躍動感が感じられたりする、有機的だ」ということに対する反論です。


つまり


一見「映画は単なる静止画の連続だから無機的だ」と思われるが、実は人間の視覚と働きは同じなんだ。


という構造です。


そして、つぎにその説明があがります。どういう点で人間と一緒かというと・・・っていうつながりですね。




「何故なら、人間も間歇的なリズムを持って世界を捉えているからだ」


ここで映画と人間の視覚との間には共通点があるということを説明しています。


つまり、


人間の視覚もずっと働き続け、常に連続してモノを捉えているわけではない。


そもそも人間の集中力にも切り替えはあるし、人間は意識的に見ようとするものだけを見ている。


もっと具体的にいうなら、瞬きをすることで連続性は断ち切れますよね。


それは、映画が静止画を断続的にハイスピードで映し出していることと何も変わらない。


要するに映画にも人間の視覚にも切れ目が存在するということだ。




映画が無機的だっていうなら、人間の視覚も無機的だということなる。


でも人間の視覚は無機的なものじゃない。




まとめますと


「無機的と捉えられがちな映画も人間の視覚と同じような働きをしているのならば、有機的だと考えられる」




映画=人間


人間=有機的


ならば


映画=有機的




という構図ですね。なかなかにおもしろいですね。




前回の呟きで日本映画は切れ目のないものと呟きながら、


今回は映画は断続的だから人間的なんだという呟きです。ちょっとツイッター楽しくなってきますね。




天藤先生、くせ者な呟きですがお願いします。




P.S


呟いてほしいリクエストに


「源氏物語」が多数ありましたので、次回の古文ツイートは「源氏物語」からいきますね!!


お楽しみに!!


後は


「おもしろい話」をつぶやいてほしいとかもあったのですが、それは教室で呟くね(笑)


教室でお会いできない皆さんもリクエストがあれば、コメントしてくださいね。