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「ケンクルーズ」Kenちゃんの相方、
Naokoです。

本日7月3日。
昨年のこの日、
私の父、勝(マサル)が
緊急入院したと、妹たち(次女、三女)から
連絡をもらいました。

そして
今年に入っての2月13日の明け方に
息をひきとりました。

81歳でした。

昨年6月初旬に
愛知で私が高校の同窓会に参加するため
帰省したとき
久々に実家にとまりました。
Kenちゃんもいっしょでした。

到着したその日
「お父さん、なんかいっしょに
食べにいこっか?」と
夕食に誘ったら

「あんまり調子よくないんだ。
食欲ないから、やめとくわ。」

と言われて。

病院の定期検診が
7月にあるからその時に診てもらう、と
言っていましたが

その後、検診日を待たずに
病院に行き、そこで即検査入院。


食道がんのステージⅣとの診断を受けました。

そこから
父は回復することを前提として
胃瘻をすることを自分で決めて

近くに住んでいる妹たちには
「明日、胃瘻の手術をするから」と
決めた段階での報告。

胃瘻をしてからの
がん治療開始で
入退院を繰り返すことになるわけですが

父は
私たち家族が住んでいた家に
母が亡くなってからは一人で住んでいたので

妹(次女)の住むマンションにうつって
次女にサポートしてもらいながらの
入退院。

私は
8月の終わり
そして11月に
いろいろタイミングを作って
父の顔を見に行きましたが

もうがん治療というよりは
途中で肺炎をおこしてしまったりして

どんどん体力もなくなっていき
弱っていくのが目に見えてわかりました。

12月の頭からは
次女の負担軽減、および父の意思もあり
病院から紹介してもらった
医療型介護施設に入居。

ところが
数日後に救急搬送されて
12月いっぱい、そして1月終盤までは
病院にお世話になりました。

病院では
1週間に1回15分、2人までしか面会できず。

12月に一度愛知に戻った時は
妹たちが配慮してくれて
そのタイミングのときに
次女と2人で父に会いに行きました。

その時は
口の中が乾いて痰も出て苦しそう。

手を握ったら
握り返してはくれました。

そんな微かな力はまだ残っている、というかんじ。

1月末に介護施設に戻ると
「覚悟しておいたほうがいい」時期に。

妹たちからの連絡を受け
2月上旬に沖縄から愛知へ。

次女のところにお世話になりながら
施設にいる父に会いに行ったら

もう父は
言葉もしっかりはっすることができない状況で。

でも私の手を握りながら
何かを言おうとしていました。

でもそれが何を言おうとしているのか
わからなくて

「ごめん、お父さん。
わかんないよ、、、。」

と言うしかありませんでした。

でも私たち・娘3人と
最愛の孫(♂)が来ていることや
それが誰かということもわかっていて。

父は私が愛知入りしてから
一週間後の
2月13日の明け方、息を引き取りました。

その数日前から
施設の人に
「夜もいっしょに
泊まっていただいていいですよ」
と言われていて

その晩
私は父の側にいることにしました。

父は時々息がとまるようになっていて
そのインターバルが少しずつ長くなっていて

明け方、、、とまりました。

不思議なことに
父が亡くなったその日の夕方
叔父さんも亡くなりました。

父の実の妹である叔母の旦那様。

父よりも長い間入院した状態だった
この叔父は
あとから知ったことですが
父も叔父もサラリーマン時代に
近くで働いていたこともあるようで
そのころは時々
いっしょに飲みに行ったりしていたらしい。

父が叔父さんを誘って
いっしょの日に旅立ったのかしらアセアセ



父が緊急入院してから
今日で一年。

父が叔父を連れ立って旅立ってから
4ヶ月ちょっと。



なんだか不思議なもので
母が亡くなったとき以上の喪失感。

両親ともいなくなる、というのは
こういうことなのか。


、、、と今でも時々
しんみり考えちゃいます。

私の家族は
祖父
祖母
妹たち2人

の7人家族でしたが

私が社会人になって家を出て
妹たちも家を出て
祖父も亡くなり
祖母もなくなり
次女が一旦戻り
母が亡くなり
そしてまた次女が家を出て。

父は
一人で住んでいました。

寂しかったかな。

寂しい、って呟いていたときもある。

でも父には
ありがたいことにたくさん友人がいて

通夜・葬儀は
家族葬で行うことになっていたのに
蓋を開けたら
たくさんの人たちが足を運んでくれて

「家族葬じゃなかったんですか?!」と
葬儀場の人にプチ切れされるという爆笑
珍事もおこってしまいましたアセアセ


そんな父に
私は自分の思いとかもろもろ
生前伝えたりはできていたので

大きな後悔とかはないんですが

でも、、、
ちょっとした心残りはあります。


Sora号に乗ってほしかった。

父は私が沖縄に移住してから
3回来沖してくれましたが

Sora号に乗る機会がありませんでした。

乗ってほしかったな。

それから

キャンピングカーで
いっしょに旅をしてみたかった。

闘病中だいぶ弱くなってきたとき
(11月に会いに行った時に)

「お父さん、元気になって
キャンピングカー、買ってよ!
運転は私とKenちゃんがするから
いっしょに日本国内旅行しながら
沖縄行こう!
で、飽きたらキャンピングカー、
私たちにちょうだい(笑)」

と、励ますつもりで
そして半分以上本気でいったところ

「そうだなぁ、
◯◯(甥っ子、父の最愛の孫)に
運転させて沖縄まで行くか」と

結構乗り気に?
なってくれてました。



キャンピングカーは

父が亡くなったあと
私たちは手にするわけですが、、、。
(前投稿参照)


母が亡くなったときも
そうだったな。

母には
「いっしょにピースボートに乗ろう!」と
彼女が入院中に励ましてたけど

亡くなって

母と乗るはずだった
ピースボートに

私は一人で乗ってきました。

そこでKenちゃんに会った。
それが12年前。




父と乗ろうと
イメージしたキャンピングカー。



私とKenちゃんは
それを手に入れて

沖縄生活に活用していくわけですが

そこから
どんな出会いや展開があるのかな。


まぁ、お父さん。
のんびり見守りくださいませね。






キラキラ追記。おまけの写真です。キラキラ


私が就学前に父が建ててくれた家。

建てたばかりだったのか?

次女を抱く母と私。


建てたばかりの頃の写真。

家の前の道も舗装されてないし、増築前です。



今年5月末。もう誰も住んでいない我が実家。


Kenちゃんが庭の草むしりしてくれました。


実家と、我らのキャンピングカー。

この5月に愛知に購入したキャンピングカーを取りに行き、実家に寄った時。








晴れ晴れ晴れ晴れ晴れ晴れ晴れ晴れ晴れ晴れ晴れ晴れ晴れ晴れ 晴れ晴れ 晴れ晴れ晴れ晴れ晴れ晴れ晴れ晴れ晴れ晴れ晴れ晴れ晴れ晴れ晴れ晴れ晴れ晴れ晴れ晴れ

「ケンクルーズ」って❓
3分でわかる、紹介動画(素人作成ご容赦を爆笑
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「ケンクルーズ」のご案内(HPなど)

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琉球放送「海DO宝」に

「ケンクルーズ」が登場しました

(2022.05.11放送)下矢印