No.244 香春鏡山神社と採銅所③

 
宮原誠一の神社見聞牒(244)
令和6年(2024年)04月13日
 

引き続き、香春岳周辺の神社遺跡巡りです。
 
鏡山大神社  福岡県田川郡香春町鏡山705(699・1944)
宮原遺跡   福岡県田川郡香春町採銅所4925
清祀殿    福岡県田川郡香春町採銅所5746
神間歩採銅所 福岡県田川郡香春町採銅所(長光)
 
鏡山神社は神奈備の神社で、基本的に大神神社の性格を持ちます。その横に河内王陵があり、河内王と持女王(たもちのおおきみ)と恋物語が伝わっています。
宮原遺跡(みやばる)は後漢製内行花文鏡が出土した前方後円墳です。
神間歩(かんまぶ)採銅所は三ノ岳の銅採掘現場の一つです。清祀殿は宇佐八幡宮に奉納する神鏡を鋳造したところです。
その他、伽耶国の鶴賀阿羅人(ツヌガアラシト)とヒミコをさらに探ります。

 

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鏡山大神社(かがみやまだいじんじゃ)
香春一ノ岳の東、呉川の前にあります。社頭に香春町教育委員会の案内がり、鏡山大神社の前を古代官道・田川道が通り、大宰府から豊前国府(みやこ町)へ向かう官道の前に神社はあります。福岡県神社誌によれば「神功皇后の御魂を鎮めた御鏡を納めたのが社の草創」とあります。実態は「鏡山」の名が付く神社のように、神奈備をご神体とする神社のようです。その頂に社殿があります。

 

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国道201号の拡幅工事中で、いい写真にはなりませんでした 2024.03.22

 
鏡山大神社 福岡県田川郡香春町鏡山705(1944)
旧田川郡勾金村大字鏡山字南原
祭神 神功皇后(気長足姫命)・仲哀天皇(足仲彦天皇)

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勾金村 (まがりかねむら)
明治22年(1889) 田川郡高野村、鏡山村、中津原村、柿下村が合併して、勾金村が発足。
旧村の高野村、中津原村、柿下村が、かつて宇佐神宮の荘園・勾金荘であった。
昭和31年(1956) 香春町、勾金村、採銅所村が合併して、香春町が発足。

 

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社頭の二の鳥居

 

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鉄筋コンクリ製の拝殿、平削ぎの女千木に鰹木五本で女神を主祭神に男女神を祀ります
拝殿前には大幡主の六角灯籠、注連縄は古宮八幡宮と同じです

 

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本 殿

 

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神額「鏡山大神」神紋は「鏡山」紋

 

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中央に庚申塔

 

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西口の鳥居 宮司名・鶴我氏

  
鏡山大神社の祭神は神功皇后伝説に基づく神功皇后(気長足姫命)と仲哀天皇(足仲彦天皇)です。神功皇后の御魂を鎮めた御鏡を納めたのが神社の創立という。
しかし、社殿の形式は、香春神社、古宮八幡宮と同じ形式です。女神が主祭神の社殿ですが、祭神の神功皇后は突出です。ここの祭神も豊比咩(天照女神)と大幡主です。二柱の御魂を鎮めた鏡(香春岳の銅鋳造製)を納めたのが神社の創立と思うのですが。
 
「鏡山」とは、蛇が蜷局(とぐろ)を巻いた形の山で、神奈備の山です。蛇神の象徴です。神奈備の山をご神体とする神社は、奈良の三輪山の大神神社が有名です。奈良の神奈備の祭神も香春岳の二柱の御魂と同じと思うのですが。
社号の「鏡山」も神功皇后の御魂の鏡でなく、社殿がある神奈備の鏡山に基づくと思っています。正月飾りの鏡餅も蛇(カカ)の蜷局山(とくろやま)・神奈備山の象徴です。

 

奈良の大神神社神奈備と大鳥居

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奈良県観光公式サイト「なら旅ネット」
『記紀』に記される日本最古の道 山の辺の道
http://yamatoji.nara-kankou.or.jp/
18course/09naratabi-course/03east_area/ympdkbe2cj/1day/

 
案山子(かかし)
日本の童謡・唱歌に「山田の中の一本足の案山子・・・」という「案山子(かかし)」があります。明治44年(1911)『尋常小学唱歌 第二学年用』に掲載され、田んぼや畑でスズメなどの害を追い払うための人形「かかし」が曲のテーマとなっています。
本来「かか」は蛇を、「子」は人や人形を意味するという。
昔は、一本の竹竿に蛇をつるし、田のなかにスズメが入らないように脅した。文字通り、一本足のカカです。情景が余りにもイビツなので、後に一本の竹竿に人形を着けるようになったという。(No.35)
 
 
※覚書メモ(宇佐口伝)
宇佐公康氏による宇佐口伝では、
「仲哀天皇と神功皇后の間に産まれた誉田別皇子は応神天皇であるといわれているが、この皇子は四歳で亡くなっている。しかもこの皇子は仲哀天皇の子供ではなく、武内宿禰と神功皇后の間に産まれた不義の子供であったというのが真相である。」
「神功皇后は誉田別王と共に、香春岳の麓、勾金(今の香春町勾金)に幽閉されて、その地で亡くなり、誉田別王もまた四歳にして早世した」
とあります。これが本当なら、ここはすごい地となります。
後の参考とします。

 

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社頭左に万葉集石碑があります
按作村主益人従豊前國上京時作歌一首(3の311)
梓弓[アズサユミ]引き豊国の鏡山 見ず久しならば恋しけむかも
香春の鏡山との別れを惜しんだ歌とされます。
鞍作村主(くらつくりのすぐり)は飛鳥時代の仏師・鞍作止利を連想します。

 

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さらに西へ行くと、河内王陵(宮内庁陵墓参考地)前です 香春二ノ岳

 

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「石戸破る 手力もがも 手弱き 女にしあれば 術の知らなく」

 

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円墳の河内王陵(宮内庁陵墓参考地)

 
河内王陵
鏡山大神社の近くに位置する王陵、横穴式の円墳、鏡山大神社より西100mに位置。宮内庁により「勾金陵墓参考地」として陵墓参考地に指定されている。
太宰師(だざいのそち)として都より下向中、鏡山に住む手持女王(たもちのおおきみ)と恋に落ち、死後ここに葬ってほしいという遺言により作られた墓地と言われている。王陵の近くに、手持女王が河内王の死を悼んで詠んだ歌碑があり、歌碑には「石戸破る 手力もがも 手弱き 女にしあれば 術の知らなく」とある。
  
河内王 (かわちおう)Wiki
持統天皇朝に九州にあり、筑紫大宰帥を務めた人物。
天武天皇皇子・長皇子の第一王子と推定される人物。
奈良時代後期の皇族で、系譜は不詳。
確実な史料に系譜が見えない

 
※私の想像です
天武天皇の長皇子の河内王、太宰師として都より下向中という。
一応、河内王を天武天皇の孫としておきましょう。
旅の途中での偶然の出会い、そして強烈な一目惚れと想像します。
唐津の鏡山の大伴狭手彦と松浦佐用姫の出会いを連想します。
しかし、恋相手は手持女王、河内王はこの近くに住んでおられたからこそ、恋に落ちるきっかけがあったと思うのです。
 
すると、天武天皇もこの近くにおられたと想像します。
持統皇后もこの近くに居たから、倭三山の歌が詠めた。
持統天皇が天香山(香春岳三の岳)を眺め詠んだ歌
「春過ぎて 夏きたるらし 白妙の 衣ほしたり 天の香具山」
藤原京の大極殿から天香具山の麓は見えません。北の耳成山は見えるのですが。
香春岳は石灰岩の山です。石灰岩のその白く点在する山肌を「しろたへの衣」とみたのではないかと。
 
奈良時代以前、香春岳三山は、それぞれ、畝尾山(うねび 一の岳)、耳成山(みみなり 二の岳)、天香山(あまのかぐやま 三の岳)と呼ばれていたという。

 

松浦佐用姫(さよひめ) Wiki
松浦佐用姫は、現在の唐津市厳木町にいたとされる豪族の娘で、単に佐用姫とも呼ばれる。弁財天(市杵島姫)のモデルとも言われる。
大伴狭手彦の妻・佐用姫は、夫の朝鮮遠征(6世紀)を鏡山から見送り、領巾(ひれ)を振って、別れを惜しんだとされ、その時の鏡山は領巾麾之嶺(ひれふりのみね)と呼ばれるようになった。

 

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昔の姿(昭和初期)の香春三岳 「香春町の文化財」から

 
香春三山に因んで、中大兄皇子(天智天皇)の大和三山の興味深い歌があります。
 
 香具山(かぐやま)は 畝火(うねび)を愛(を)しと 耳梨(みみなし)と 相あらそひき 
 神代より 斯(か)くにあるらし 古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ 
 うつせみも 妻を あらそふらしき (巻第1-13)
 
意訳 香山(かぐやま)は畝尾山が愛しいと、耳成山と争った。
   神代の時代からかくあるらしい。昔もこれだからこそ、今の世でも妻を争うらしい。
 
中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)は額田王(ぬかだおおおきみ)をして妻争いをされたという。額田王は初め大海人皇子の妻となり、十市皇女(とおちのひめみこ)を生み、後に天智天皇(中大兄皇子)の後宮となります。中大兄皇子(天智天皇)が耳成山に、大海人皇子(天武天皇)が香具山に位置づけされています。
 
この興味深い話、中大兄皇子も大海人皇子も香春に住んでおられたのではないか?
香春にかぎらず、二人の皇子は筑後川流域に足跡を残されています。
中大兄皇子は脊振南山麓に居られたらしく、脊振神社の祭りの話がでます。
天武天皇は、福岡県久留米市山本町豊田に皇后・鵜野讃良(うのさらら 後の持統女帝)の病気平癒を祈願する勅願寺の永勝寺(えいしょうじ 本尊薬師如来)を建立され、白鳳二年(662) 高良玉垂宮(高良下宮社)の社殿を府中に創建されています。(No.205)

 
 
 
宮原遺跡(みやばるいせき)
鏡山大神社の北に宮原遺跡があり、前方後円墳であるという。現在、円墳部は削られ畑になっています。日本最古の前方後円墳とする説もある古墳です。

 

明治36~37年(1903~1904)、弥生時代後期~終末期(1~2世紀頃)の2基の箱式石棺墓から中国の後漢(25~220年)で製作された鏡2面(1・2号鏡)、大型鏡1面の破片と国産の鏡1面(3号鏡)の計4面が出土した。大型鏡の破片は破損が著しかったため、発見者により周辺に捨てられたとされ、現在は3面が残っている。

 

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パノラマ写真 左は二の岳

 
航空写真から見ると、一見畑ですが、想像をたくましくすると、前方後円墳にみえます。円墳部は削られ畑になっています。周溝も想定できます。
「marineと奈央のブログ」から参照させていただきました。詳しい報告記事は、このブログを参照ください。

 

https://ameblo.jp/cypris11/entry-12747179096.html
marineと奈央のブログ 2022-06-15
宮原(みやばる)遺跡 ヒミコの鏡? 後漢鏡内行花文鏡出土の古墳

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香春町歴史資料館 香春町町民センター2階 田川郡香春町大字高野987-1

 
 
宮原遺跡 前方後円墳 田川郡香春町採銅所4925

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N45度
 
宮原遺跡出土1号鏡 後漢製内行花文鏡 直径 19.5cm
宮原遺跡出土2号鏡 後漢製内行花文鏡 直径 12.3cm
弥生時代に大和から離れた地方に前方後円墳はあってはいけない。
奈良の箸墓が定型化した最初の前方後円墳じゃないといけない。
考古学の世界は堅苦しい。

 

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宮原遺跡出土1号鏡 後漢製内行花文鏡 直径19.5cm
内行花文鏡1号鏡は、遠賀川流域内で最も大きい

 
内行花文鏡は糸島市曽根(有田)の平原遺跡から多く出土しています。ヒミコ時代の鏡です。大型鏡の破片が残っていれば、平原遺跡の大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)に匹敵するのかも?

 

平原遺跡(弥生時代終末―古墳時代前期)
方形周溝墓(割竹形木棺墓)。鏡(40)、ガラス製の勾玉・管玉・小玉、
メノウ製の管玉・小玉、コハク製丸玉・管玉、刀子、鉄素環頭大刀。
40面の鏡が出土し、その中でも直径46.5 cmの鏡5面の大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)が出土しています。この大型内行花文鏡の直径46.5 cmの外周は、鏡の円周の単位で八咫(やあた)あることから八咫鏡と同じ大きさになります。
鏡の文様と大きさから原田大六は「八咫鏡」と解し、伊勢神宮の八咫鏡も元々は同型の鏡であったのではないか、との説を提示しています。(No.133)

 

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平原遺跡の大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)46.5cm

 

※「宮原」の起こり 宮原町郷土誌(昭和34年)
旧熊本県八代郡宮原町は、火の国、肥の国の名称の発祥の地です。
太古は「火の邑」「火の村」と言い、その後「火の国」と称しました。
その後(平安末期)「火の村」は「宮原村」へと改め、鎌倉・室町時代は八代郡文化の中心として栄え、昭和の合併で旧八代郡宮原町は氷川町宮原となりました。
ミヤノハル(宮原)という地名は、三宮社に因んで、約八百年前の1161年にでき、その前はヒノムラ(火ノ村)と言った。「宮原」を地名として呼ぶ時は「みやのはる」と言い、名前を呼ぶ時も「みやのはる」と呼んでいたが、後に「みやはら」と呼ぶようになったという。ここ氷川町宮原の地は「火の君」の中心的地域であり、「火の国」の起源は阿蘇山の火の山から来ていると言われますが、「火の山」は島原の雲仙岳です。

 
 
 
清祀殿と神間歩(かんまぶ)採銅所
香春三の岳(天香山)の産出銅は東大寺大仏の建立や宇佐八幡宮の神鏡にも用いられ、その奉納鏡を造っていたのが清祀殿(せいしでん)です。
  
清祀殿 福岡県田川郡香春町採銅所(長光)5746

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天照大神社 男千木に鰹木三本

 

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清祀殿案内板から
御神鏡鋳造の始期に諸説あるものの、宇佐神宮の放生会に奉納する御神鏡を初めて鋳造したのは養老4年(710)であろうといわれている。
古宮八幡神官林家に伝わる「宇佐宮造営日記」等の古文書によると、奉納行事は4年から6年毎など変わっており、歴史の興亡や数々の変遷を経て80余度行われてきたようであるが、中御門天皇享保8年(1723)に実行した記録があり、おそらくこの行幸会を最後として放生会も含めて長光地区における御神鏡鋳造は廃絶したものと推察されている。

 

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清祀殿前の神間歩公園案内板(左へ)

 

 
 
神間歩採銅所(かんまぶ)
清祀殿前から左手に折れ、神間歩採銅所の坑口がある神間歩公園(香春三の岳)へ歩いて向かいます。
 
神間歩採銅所 福岡県田川郡香春町採銅所(長光)

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香春三の岳(天香山)

 

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間歩(坑口)

 

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神間歩の上部にも、銅を掘った間歩(坑口)が数か所ある。
さらに、三の岳周辺には古宮・横鶴・水晶・床屋・宗丹・ズリネなど
金・銅鉱山(間歩)跡が多く散在している。

 
 
間歩(坑口)に着く前に谷川が流れていました。
 
「鉱山師・金山衆は三の岳に銅があると、どうして分かったんでしょう」
 と疑問を投げかけた。
「この谷川の水を調べて分かったんじゃない」
「そうか」達観「すばらしいね」
「この谷水(器の水)に、ある溶液を注ぎ、その反応を見たのか」
「硫酸見たいなものを注ぎ、水が青銅色に濁るとか」
その技法は鉱山師にとって門外不出の秘伝の技、伝承が途絶えた時、秘伝の技も分からなくなった。と、自分なりに納得しました。
本当のところ、古代は、ここに銅鉱床があると、どうして分かったんでしょう。
 
公園の桜は、やっと、つぼみがふくらみ、咲きだしそうでした。
来る春を、お互いに、ゆっくり楽しみました。ありがとう。

 
 
 
覚書メモ
天照女神とサイテンチク
高良玉垂宮神秘書に、
「天照大神はサイテンチク出身
 伊勢の紀氏なり
 千八人の女、サイテンチクより来たりて人を生む
 倭国の「倭」は千八人の女と書くなり」
とあります。
 
「サイテンチク」がわかりませんでした。
「禾」は「稲」です。
「サイテンチク」は「西天竺」です、
「西天竺」を調べましょうと教えられました。
 
倭「やまと」とは稲の女人(禾+女人)、となり、稲の妻であり、天照女神です。
倭姫=天照女神=豊姫=豊受姫=豊宇賀姫(とようかのひめ)
稲の男人(稲の夫)が大幡主。
だから、ヒミコのヤマト国は天照女神と大幡主の国となります。
天照女神と大幡主が国造りをしたのです。日本書紀にいう「イザナギとイザナミ」です。
「佐 さ」は「霊」、稲佐(イナサ)は稲の霊で大幡主。
甕佐(ミカサ)は器の霊で、稲を入れる器で天照女神。
私のかってな解釈です。
 
その天照女神のご先祖は西天竺(インド)であるという。
 
前回①の伽耶(かや)=加羅(から)の記事の続きです。
その伽耶諸国の中でも、大伽耶が中心です。

伽耶諸国は向倭(むこうやまと)の国々で、倭国です。
 
大伽耶高霊郡の背後にある伽耶山の女神である「正見母主」と天神「夷毗訶 イビガ」とから二人の兄弟が生まれ、兄(悩窒朱日)が大伽耶の始祖となり、弟(悩窒青裔)が金官伽耶の始祖となる金首露王(しゅろおう 鉄の王キムスロ)です。首露王の王妃が許(ほ)黄玉で、48年にインドアユタ国から船に乗って伽耶に至り、首露王の妻になります。許氏のルーツはインドのアショカ王の家系であり、その時にアユタ国から石塔と鉄物を持参したという。許黄玉は息子10人を生み、長男は金海金氏(金官伽耶)となり、二人の息子は許氏を名のったという。(Wikiから)
 
百嶋学では、許氏は数代下り、その許氏伽耶姫と姫氏帥升の王女が大日孁(おおひるめ)=天照女神とします。(百嶋メモでは許氏伽耶姫は大伽耶姫となっています? 許氏伽耶は大伽耶の分家ですが、許氏伽耶が大伽耶となったのでしょうか?) 金海金氏の孫が「金越智」です。
 
伽耶(任那)諸国は6世紀になると百済や新羅の侵略を受け、西側伽耶諸国は百済へ倭から割譲あるいは武力併合され、東側の諸国は新羅により滅ぼされていった。532年には南部の金官国が新羅に滅ぼされ、562年には洛東江流域の加羅諸国が新羅に滅ぼされた。
 
よく朝鮮半島内陸で倭軍が戦ったと戦記が出てきますが、加羅諸国が消滅するまでの倭軍とは 伽耶(加羅)諸国の軍をいったのではないでしょうか。九州倭国から海峡を越えて、さらに奥地まで簡単に大軍を送り出せるとは思えないのです。
「倭王や倭軍は大伽耶の人々」福島 巌 参考
 https://zenyamaren.net/wp-content/uploads/2020/04/yamaren20-035.pdf
 
※辛島氏は五十猛を奉斎し、加羅を経由し、筑前国筑紫神社に五十猛を祀り、
 次ぎに香春岳で加羅の神を祀り、さらに宇佐郡に入り、小椋山に北辰社を祀った。
 五十猛とはニギハヤヒ、加羅の神とは? 北辰社は宇佐神宮の上宮の回廊の内側,
 北西の隅に南向きに鎮座する。いずれもの神も辛島氏が奉際する大幡主。
 
 
インドのサーンチーのストゥーパ
西天竺って何処??から検索すると、
サーンチーが出てきて、写真を見ていると、
車輪紋、鳥居の原型、鹿、獅子、ゾウ、円墳の原型に見えたり、
日本に現存するものばかりでびっくりでしたと。
 
インド・サーンチーの第1ストゥーパの西トラナ(門)の横梁中段のレリーフ、
ブッダ 初転法輪の聖地 サールナート(鹿野苑)で、天人たちが法輪・宝座(ブッダ)に礼拝する場面。下段にたくさんの鹿が彫られている。
車輪は初転法輪。
柱頭に彫られた四頭の獅子像(考古学博物館蔵)は、インドの国家紋章に用いられており、基礎部の法輪はインド国旗にもデザイン化されている。
車紋、輪宝紋は大幡主の紋章。
ストゥーパは円墳、トラナは鳥居に、日本文化に受け継がれているように見えます。
 
第3ストゥーパ
サーンチーは、インド中部ボパール郊外にある仏教遺跡。3基のストゥーパ(仏塔)があり、第一塔はマウリヤ朝のアショーカ王が紀元前3世紀に築いたもの。

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秘境ツアーのパイオニア 西遊旅行 2020.07.25
ボーパール① サンチー仏教遺跡群とビーマベトカ壁画 から
https://www.saiyu.co.jp/blog/india/category/インド中央部/マディヤ・プラデーシュ州/サーンチー/

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天照女神の母系先祖を訪ぬれば、金官伽耶の始祖の金首露王、その王妃の許(ほ)黄玉に至り、さらに、インド(西天竺)のサーンチーに行き着きました。
古代の円墳、神社の鳥居の起源はサーンチーにあるのかとも思えるのです。
 
 
天孫降臨と高天原
大幡主の「主」の称号が、どこに起因するのか疑問でした。
もしかしたら、大伽耶の伽耶山女神の「正見母主」にあるのでは?
伽耶山(=可也山)は福岡県糸島半島にもあります。
大幡主の「夷 えびす」は、その夫の「夷毗訶 イビガ」にあるのでは?
大幡主は大伽耶王子では?
すると、「都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)が意富加羅国(大伽耶)の王子」であり、=大幡主が理解できるのです。
 
大幡主と天照女神が知り合ったのは、加羅の地。
そして、九州の那国、あるいは糸島に移動したのが、本当の天孫降臨で、高天原は大伽耶の高霊(コリョン)となります。
九州の高天原は「高原」の地名で残ったと思うのです。
 
現人神社(福岡県田川郡香春町採銅所)の近くが「高原」。
朝日の宝満宮(福岡県朝倉郡筑前町朝日)がある地区名が「高原 たこら」。
狭野神社(宮崎県西諸県郡高原町大字浦牟田)がある町名が「高原 たかはる」。
以上の三社は大幡主と天照女神を祀ります。
古宮八幡宮の近くの採銅所が「高巣」、香春駅の近くが「高野」、阿曽隈社の近くが「大隈」で、これらは大幡主に因む地名です。