No.239 宮崎神宮とヒミコ(天照女神)

 
宮原誠一の神社見聞牒(239) 
令和6年(2024年)01月10日  
令和6年(2024年)1月13日追記

 

神武天皇、和風諡号・神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)を宮崎県に祭る神社が三社あります。

宮崎神宮 宮崎県宮崎市神宮二丁目4-1
皇宮神社 宮崎市下北方町横小路5872(宮崎神宮の元宮)
狭野神社 宮崎県西諸県郡高原町大字浦牟田117(社名は神武天皇の幼名「狭野尊」に因む)

日向の宮崎の地は、神武天皇が東征以前に宮を営んだ地であるという。
「記紀」によれば、鵜草葺不合命と玉依姫命を父母とされ、吾平津姫(あいらつひめ)の間に手研耳命(たぎしみみのみこと)がおられます。手研耳命は阿蘇の神です。
百嶋学によれば、神武天皇の后は吾平津姫でしたが、後に吾平津姫は神武天皇を離れ、阿蘇の神沼河耳命(神渟名川耳尊)の妃となられ、阿蘇の神・手研耳命を誕生されます。
これらの関係からか、宮崎神宮の相殿には鵜草葺不合命と玉依姫命を祀り、皇宮神社の相殿には吾平津姫命、手研耳命、渟名川耳尊を祀るということでしょうか。
※宮崎神宮由緒から

宮崎神宮を、私が当初訪れたのは、フィルムカメラの時代で、当時は、宮崎神宮に神武天皇が祀られているとは思えませんでした。
最近、宮崎神宮と皇宮神社を調べてみれば、創祀は古く、江戸時代までは地方の一古社に過ぎず、宮崎神宮が広く全国的に知られるようになったのは、明治維新の王政復古の大号令で脚光を浴びるようになったからという。(Wikiから)

 

記紀での神武天皇の表記
『日本書紀』では、鵜葺草葺不合命の第四子。母は玉依姫、兄は彦五瀬命、稲飯命、御毛入野命。実名(諱いみな)は彦火火出見。
皇后・吾平津姫(あいらつひめ)の間に手研耳命(たぎしみみのみこと)を生む。
和風諡号・神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)

『古事記』では、鵜葺草葺不合命の第四子。母は玉依姫、四兄弟の末子。兄は五瀬命、稲氷命、御毛沼命。
日向の阿比良比賣(あいらひめ)の間に多芸志美美命(たぎしみみ)、岐須美美命。
和風諡号・神倭伊波礼毘古命

 
皇后が吾平津姫で、その子が手研耳命ならば、
神武天皇は阿蘇(越)の神、神沼河耳命(神渟名川耳尊)となります。




宮崎神宮について
宮崎神宮は鎌倉時代初め、地頭職の土持信綱(つちもち)が皇宮屋(こぐや)を造営し、建久8年(1197年)、皇宮屋(こぐや)を現在地に遷座したのが宮崎神宮であるという。
明治前までは皇宮神社であり、明治6年に「宮崎神社」と改称、明治11年に「宮崎宮」と改称され、大正2年に「宮崎神宮」となっています。
宮崎神宮の呼称は大正時代からであり、明治政府の宗教政策の結果、「神宮」に格上げされました。明治維新前までは、地方の一古社に過ぎず、大和朝廷にとって、九州の神武天皇とその神社の存在は「記紀」に述べられるほどの存在感はなかったと思えます。伊勢神宮にも神武天皇は祀られていません。
神武天皇と皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命を祀るとされる橿原神宮は、明治天皇によって明治23年(1890)4月に官幣大社として創建されました。しかし、神武天皇の皇后は媛蹈鞴五十鈴媛ではありません、日向の吾平津姫です。これでは橿原神宮は崇神天皇と媛蹈鞴五十鈴媛を祀ることになります。

 

※橿原神宮境内社・長山稲荷社 奈良県橿原市久米町934
橿原神宮鎮座以前からこの長山の地にお祀りされており、橿原神宮の御造営・御鎮座を御加護されてきました。


宮崎神宮 宮崎県宮崎市神宮二丁目4-1
祭神 神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)
後に神武天皇を主祭神に、父母神とされる鵜草葺不合命と玉依姫命を配祀

1

 

2

(https://ja.wikipedia.org/wiki/宮崎神宮)

 

宮崎神宮 略暦
創祀は古く、「神武天皇社」「神武天皇御廟」などと称した
建磐龍命(阿蘇神社の祭神)によって創祀されたという(由緒)
鎌倉時代初め、地頭職の土持信綱(つちもち)が皇宮屋(こぐや)を造営
建久8年(1197年) 皇宮屋が現在地に遷座
文明5年(1473年) 伊東祐国が蓮ヶ池(宮崎市村角町)と下北方(同下北方町)の一部を奉献
永禄3年(1560年) 有馬永純が社領2石5斗を寄進
永禄5年(1562年) 伊東義祐が下北方・江平(宮崎市江平町一帯)領地を割いて奉献
天正5年(1577年) 島津義久が米穀や幣帛を奉献
寛永21年(1644年) 藩主有馬康純が社殿を造営
天保10年(1839年) 藩主内藤政義による社殿修造
明治6年(1873年) 皇宮神社から宮崎神社と改称
明治11年(1878年) 宮崎宮と改称
明治18年(1885年) 官幣大社へ
明治40年(1907年) ほぼ現在の姿となる
大正2年(1913年) 宮崎神宮と改称
昭和15年(1940年) 紀元2600年記念整備事業により現在の境内が完成
戦後は神社本庁の別表神社となる

 


土持氏と王宮神社
皇宮神社を創建した土持氏は、もともと大幡主と天照女神の奉斎です。
土持氏は熊本県球磨に王宮神社を創建しています。また土持氏が住居していた久米蓑毛の蓑毛氏はあさぎり町岡原北の熊野集落に熊野神社を創建しています。

王宮神社を当初訪問した時、私は、ついうっかり「おおみやじんじゃ」と読んでしまいました。大幡主を祀る「大宮」神社と思ったのです。社殿には「五七桐紋」が至る所に打ってあります。

 

王宮神社
王宮神社は古来より王宮と称し、明治元年(1868)に黒肥地神宮(くろひじじんぐう)と改称されています。由緒によれば、創建は大同2年(807)日向国(宮崎県)の住人・土持(つちもち)太郎、田部忠網が久米蓑毛(現・多良木町久米)に住み、多良木源島(げじま)に帝廟(天子のみたまや)を勧請し、その後、現在地に遷座したもので、祭神は神武天皇とされています。


王宮神社 熊本県球磨郡多良木町黒肥地1278

3

 
 祭神 神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)
 配祀 玉依比売命(たまよりひめのみこと)=神武帝の母・神玉依姫
    建磐龍命(たけいわたつのみこと)=手研耳命(阿蘇一宮)
    比売命(ひめのみこと)=阿蘇津姫(阿蘇二宮)
    ※王宮神社由緒から

 「球磨郡誌」表記の祭神
 主座に神武天皇 玉依姫命、相殿に建磐龍命 比咩神(ひめかみ) 天照皇大神
 「熊本県神社誌」表記の祭神
 祭神 神武天皇

 

土持氏と田部氏
日向国の土持氏は田部氏の一族であり(田部氏が日下部氏の養子に入り土持氏を名乗る)、土持氏も宇佐八幡宮の社人とされ、平安時代末期から戦国時代前期にかけて、日向国北部を中心に勢力を有した一族で、元々の家紋は大幡主の「亀甲に桐」紋といわれる。
田部氏の祖は辛島氏で、辛島氏の祖は筑紫神社(福岡県筑紫野市大字原田2550)の祭神・五十猛命(饒速日命)で、饒速日命は物部の太祖です。また、五十猛命は大幡主(白日別神)の子息で、家紋が「亀甲に桐」紋とあるは、「二重亀甲に五三桐」紋で正八幡大幡主の神紋です。
よって、田部氏は饒速日命の物部族であり、正八幡大幡主の流れとなります。


王宮神社の社紋の「五七桐紋」には、随分と惑わされました。

No.86 熊本県球磨郡の岡原霧島神社と王宮神社の本質 平成30年(2018年)12月17日
No.90 三足ヤタガラスの伝承を持つ球磨の岡留熊野座神社③ 平成31年(2019年)1月21日
No.154 王宮神社の再考(熊本県球磨郡多良木町) 令和2年(2020年)10月1日

上記の三ブログがその軌跡です。
神武天皇→開化天皇→崇神天皇 と、よくぶれたものです。

本来、「五七桐紋」は天照女神の神紋、「五三桐紋」は大幡主の神紋です。
時代が下がって、「五七桐紋」「五三桐紋」は開化天皇と神功皇后が使用されています。
しかし、神武天皇・大幡主→開化天皇→崇神天皇 の流れには何かの共通性を感じるのです。

再度、王宮神社の祭神表記を見てみます。

「神社由緒」
 祭神は神日本磐余彦命(神武天皇)、配祀は玉依比売命(玉依姫)・建磐龍命・比売命
「球磨郡誌」
 主座に神武天皇・玉依姫命、相殿に建磐龍命・比咩神・天照皇大神

配祀に天照皇大神があります、これは天照女神です。
宝満宮の祭神は玉依姫でなく、天照女神と大幡主を祀ります。これに似て、
王宮神社の神武天皇と玉依姫の祭神は、大幡主と天照女神の置き換えではないか、と思えるのです。その子が建磐龍、「建磐龍」の「磐」と「龍」は大幡主と天照女神に関係します。
すると、宮崎神宮の古宮が建磐龍(阿蘇神社の祭神)によって創祀されたという由緒が理解できます。
白族の大幡主は耳族の神沼河耳と建磐龍とは別物、と百嶋学では学びましたが、大幡主と建磐龍は同系統の民族ではないでしょうか。

また、王宮神社には一位柏(イチイカシ)が植えてあります。
大幡主を祀る小郡市の吹上神社(大通宮おおとりぐう)の隣の神社・佐野古大神宮にも一位柏が植えてあります。大幡主の「三つ柏紋」は一位柏に因むと考えます。吹上神社大通宮の社紋は大幡主の矢車紋です。佐野古大神宮の境内には福田美濃大蔵朝臣種次の墓があり、氏子さんは福田さんが多いです。王宮神社、吹上神社、佐野古大神宮には大幡主を祀る痕跡が共通にあります。

 

吹上神社 (ふきあげじんじゃ) 福岡県小郡市吹上820

4

祭神 国常立尊(大幡主)
拝殿、神殿の入り口、屋根には八矢車紋が打ってあります。

5

 

佐野古大神宮 (さのこだいじんぐう) 福岡県小郡市干潟2324-17
祭神 天照大神、その他五柱

6

 

7

 

8

 

皇宮神社(皇宮屋こぐや)  宮崎市下北方町横小路5872 (宮崎神宮の元宮)

9


 祭神 神日本磐余彦尊
 相殿 吾平津姫命(あひらつひめ)、
    手研耳命(たぎしみみ)、渟名川耳命(ぬなかわみみ)

※吾平津姫は神日本磐余彦の后で、後に吾平津姫と渟名川耳尊との子が
手研耳命で阿蘇神社の祭神
渟名川耳尊と手研耳命が祀られているのは創祀に関係したことによるのか
日本書紀では神八井命、神渟名川耳尊は神武帝と五十鈴姫の皇子とされる
百嶋学では神八井命と神渟名川耳尊は兄弟で阿蘇の多氏
古事記の編者である太安万侶も多氏
多品治(おおのほむじ)は天武天皇側(越)の武将として活躍している


狭野神社 宮崎県西諸県郡高原町大字浦牟田117

10


 祭神 神武天皇(幼名は狭野尊さののみこと)
 配祀 吾平津姫命(あいらつひめ、神武天皇后)
    天津彦火瓊瓊杵尊・木花開耶姫命
    彦火々出見尊・豊玉姫命
    鵜葺草葺不合尊・玉依姫命
 社名は神武天皇の幼名「狭野尊」に因むとされる。
 当初は西約1㎞の皇子原(おうじばる)にあったとされ、この地には現在、
 境外末社の皇子原神社があり、敏達天皇の御代(6世紀)に皇子原から
 現在地に遷されたという。

※主祭神、配祀を合わせみると、四夫婦神の四所宮といったところです、日本書紀に沿ったそろい過ぎの神々です。
狭野尊の称号は、日本書紀巻第三・神日本磐余彦天皇(神武天皇)には表記されません、巻第二・神代下の本書でなく第一書に幼名・狭野尊があるのみです。
石川県能美市佐野町の狭野神社では、祭神が素盞嗚尊命・天照大神・豊受比咩命(素盞嗚尊命は大幡主の置き換えと見ています)とあり、社紋は八矢車紋です。神社覈録(じんじゃかくろく)では、狹野神社の狹野は仮字で、祭神は狹野尊か在所詳ならず。「佐野」が本来の表記ではないかとしています。
祭神が天照大御神と神徳院之大神である境内社の神徳神社(しんとくじんじゃ)があり、摂社の豊受神社(祭神は豊受姫大神)があります。さらに、社殿前の両脇に武甕槌神(大幡主)の東門守社があり、西門守社には経津主神(大幡主)を祀ります、社殿左手には水神社があり、罔象女神、大山祇神、大山咋神、白山媛神(天照女神)を祀ります。一の鳥居、二の鳥居は厳島神社の両部鳥居です。二の鳥居の脇には猿田彦神社があり、猿田彦命に加え馬頭観音(大幡主)と霧島之大神も祀ります。これらから「狭野神社」は大幡主・天照大神を祀る神社と見ています。




神宮会館扉にある神紋から見る祭神
神宮会館扉に宮崎神宮の社紋が描かれています。「三つ割菊菱に三矢紋」です。
三つ割菊菱紋は、菊菱紋を三つ割りしたもので、三つ割紋は、九州では女紋に使用されます。「菊菱紋」は天照女神の神紋、「三矢紋」は大幡主の神紋です。
宮崎神宮の社紋は、この男女の二柱の神紋が組みとなっています。

神宮会館扉にある神紋

11

(https://ja.wikipedia.org/wiki/宮崎神宮)

 

12

 

13

   細石神社本殿の菊菱紋(福岡県糸島市三雲432)

大幡主の矢紋では「並び矢紋」「矢車紋」が使用されます。
今まで見てきたところの矢車紋は、先に紹介した福岡県小郡市吹上の吹上神社大通宮、田主丸町高木の高木神社、石川県能美市佐野町の佐野神社があります。



高木神社 福岡県久留米市田主丸町豊城1088
祭神 高皇産霊神(たかみむすびのかみ)=高木大神=大幡主
高木神社は大幡主を祀ります(高木大神は諱がない不明の神号です)

14

 

15


 
狭野神社 石川県能美市佐野町ノ-88-2
祭神 素盞嗚尊命 天照大神 豊受比咩命(素盞嗚尊命は大幡主の置き換えと見ています)
社紋 八本矢車
狹野神社の狹野は仮字也、祭神は狹野尊か、在所詳ならず
佐野集落の発祥の地、嘉祥3年(850)正六位上を賜った。


「佐 サ」は「稲の霊」といわれ、大幡主に因む名称によく使用されます。

 

稲佐の神は「稲の精霊」
「サ」は神聖な言葉として扱われ、「サ」は稲の霊ともされます。
田植の月をサツキ(五月)といい、田植の雨はサミダレ(五月雨)、植える苗はサナエ(早苗)、苗を植える女性はサオトメ(早乙女)といい、田植え前に作業の無事を祈る祭をサオリ、田植えの終了時に豊作を祈る祭をサナボリといった。

稲佐(いなさ)=稲の霊(委奴の神 いなのかみ)=大幡主=国常立神

 


大幡主の関係の矢紋

 

16


 
羽白熊鷲最期の戦と矢野竹神社
福岡県朝倉市上秋月の愛宕神社前付近の「椿の森」で層増岐野(そそぎの)の決戦があり、戦いに敗れた羽白熊鷲(はしろくまわし)は、今の寺内ダム付近に後退し矢野竹に陣取り、連合軍は西の小高い山・喰那尾山(くいなをやま・栗尾山)山頂に陣を置きます。そして、寺内ダム湖付近の荷原(いないばる)で最後の戦闘が行なわれます。郷土の誇りである羽白熊鷲は戦死し、墓は寺内ダムの付属施設「あまぎ水の文化村」の「せせらぎ館」前右に造られています。(古くは「せせらぎ館」建地にあったという)
倭国大乱に次ぐ大戦争は終結し、寺内ダム湖(三奈木川のほとり)の「池辺」にて戦没者の供養が行なわれました。伝承では「池辺に神籬(ひもろぎ)を建て、戦勝を奉告した」とあります。 大宝元年(751)喰那尾神社は「池辺」から栗尾山に遷宮し、現在の寺内の美奈宜神社の古宮となります。今の美奈宜神社の上宮です。天正2年(1574)領主秋月種実により麓の現在地へ遷座。明治の初期、寺内の美奈宜神社は三奈木喰那尾神社の社号から美奈宜神社と改称します。それまでは喰那尾神社の社号です。

寺内の美奈宜神社の北の山手に熊鷲軍が陣取りした矢野竹があり、そこに、並び矢紋を持つ矢埜竹神社があります。


矢埜竹神社(やのたけじんじゃ) 福岡県朝倉市矢野竹984
祭神 神功皇后 埴安命 大山祇命
由緒 大宝年間創建、元久二年(1205)より祭祀を執行 ※無格社 田神社

17

 

18


矢埜竹神社は埴安命 大山祇命を祭神とする田神社です。拝殿の後外の石祠には埴安命(大幡主)を祭神とする石祠があり、その祠の扉には並び矢紋が打ってあります。


並び矢紋を使用する神社
大歳神社 京都府京都市西京区大原野灰方町575
祭神 大歳大神(大幡主)
配祀 石作神 豊玉姫命




「日向」考
大幡主と天照大神を祀る宮崎神宮は宮崎の日向(ひゆうが、ひむかい)にあります。
「日向」は生駒神社=生目神社に関係が深いようです。

 

「No.231 大善寺玉垂宮と藤大臣と藤」から
生目神社 宮崎県宮崎市大字生目345
主祭神 品陀和気命(ほんだわけのみこと)と藤原景清公
相殿  彦火瓊々杵尊、彦火々出見尊、鵜茅葺不合尊
※神社の本来の祭神は大幡主を祀ります
 拝殿の向拝の四本柱は高良神社を想起させます

往馬(いこま)大社 奈良県生駒市壱分町1527-1
祭神 伊古麻都比古神(大国主=大幡主)
   伊古麻都比賣神(天照女神)
追祀 氣長足比賣命(神功皇后)
   足仲津比古命(仲哀天皇)
   譽田別命(応神天皇)
   葛城高額姫命(神功皇后の母)
   息長宿禰王(神功皇后の父)
 摂末社 祓戸社(瀬織津姫神=天照女神)、水神社、稲荷社、戎神社(大幡主)
 北末社 大山祇社、春日社、神明社(天照大神)、仁徳天皇社、豊受比賣社
 南末社 月読社、猿田彦社、住吉社、伊弉諾社
 その他 観音堂十一面観音(天照女神)
 境外末社 高良社、春日社(別院)

都萬神社(つま) 宮崎県西都市大字妻1
祭神 木花開耶姫命
※実際の祭神は木花開耶姫でなくて、天照女神と大幡主です
 神紋は桜紋、千木は女千木で、祭神は木花開耶姫と思われますが、違います

都農神社(つの) 宮崎県児湯郡都農町大字川北13294
祭神 大己貴命
※実際の祭神は大己貴=大幡主です


往馬大社の祭神・伊古麻都比古神(往馬彦神)は大国主=大幡主です。生目神社が古宮となります。往馬大社の歴史は古く、創立年代は定かないが、大神神社や石上神宮と同様に神奈備(生駒山)を御神体とする日本有数の古社であるという。本来の祭神は伊古麻都比古神・伊古麻都比売神の二座です。「火の神」であり、「大嘗祭」の火熾しに使われる「火燧木(ひきりぎ)」は、代々この往駒大社から奉納されるという。往馬姫神は天照女神であり、「水の神」です。

さらに、大幡主と天照女神を祀る大神神社(おおみわじんじゃ)について

 

大神神社(おおみわじんじゃ)奈良県桜井市三輪1422
主祭神 大物主大神(おおものぬしのおおかみ、倭大物主櫛甕玉命)
配祀神 大己貴神(おおなむちのかみ)少彦名神(すくなひこなのかみ)
摂社
本社近辺拝殿の半径200mより内側の摂社
 活日神社(いくひじんじゃ)祭神:高橋活日命
 磐座神社(いわくらじんじゃ)祭神:少彦名神
 
神坐日向神社(みわにますひむかいじんじゃ)祭神:櫛御方命・飯肩巣見命・建甕槌命
本社周囲拝殿の半径200mより外側の摂社
 檜原神社(ひばらじんじゃ)祭神:天照大神若御魂神
 高宮神社(こうのみやじんじゃ)祭神:
日向御子神


祭神の大物主大神、倭大物主櫛甕玉命、大己貴神、少彦名神は大幡主の異名同一神です。
大神神社の祭神は大物主大神(倭大物主櫛甕玉命)= 大幡主と天照女神です。
摂社神坐日向神の祭神では、櫛御方命=櫛甕玉命=大幡主、飯肩巣見命=吾田片隅命、建甕槌命=大幡主 となり、飯肩巣見命=吾田片隅命 の神名が浮きます。
博多の櫛田神社の境内社に石堂神社があり、祭神が「吾田片隅神」です。出雲大社の摂社の伊奈西波岐神社「いなせはぎ 鷺社」の資料には、祭神は稲背脛命(いなせはぎ)であり、別名「天夷烏命 あめのひなとり」「天鳥船命 あめのとりふね」とあります。本来、鷺社は大幡主を祀ります。吾田片隅神とは大幡主のことでしょう。天鳥船命は鵜草葺不合尊とされますが、天夷烏命も天鳥船命も大幡主のことでしょう。
高橋活日命は熊本県小国の宮原両神社の祭神です。
高宮神社の祭神は日向御子神とあります。高宮は大幡主です。

どうやら、「日向」は大幡主と大いに関係がありそうです。

「日向」と関係が深い戦国武将がいます。
惟任(これとう)日向守 明智光秀です。
惟任は惟任氏と言う意味で、明智家が朝廷(天皇)から賜った姓という。
詳しくは、「惟任日向守とは 明智光秀が『これとう』になった理由」2021.01.12
「武将人物情報・史跡情報「歴史観」https://rekan.jp/1628/ を参照のこと

上記の記事から参考

 

惟任氏
南北朝時代の武将に美濃源氏の土岐頼貞がおり、足利尊氏に味方して戦功があり、美濃守護を任じられました。その九男に土岐九郎(長山頼基)がいますが、その美濃・長山城主である長山頼基の子・明智頼重(あけち-よりしげ)が、明智頼兼の娘と結婚して養嗣子となって明智家の家督を継ぎ、土岐明智氏の祖となりました。
その明智城主である養父・明智頼兼は、子の明智光行が早く亡くなったため、養子を迎えたともされます。
その早世した明智光行の母は、豊後・大神一族の娘でした。
豊後の大神氏(おおが)は、惟任氏(これとう)の祖でもあり、土岐明智家の祖となった明智頼重の子の一人が、惟任頼秀(惟任彦六)と称しています。
では、明智光秀が、なぜ、明智一族の姓名でもある惟任と称したのか?
これは、織田信長の命があったようです。

織田信長の命
織田信長は、全国統一の総仕上げは、九州になることがわかっており、どうやら、朝廷に働きかけて、一部の重臣に、九州にまつわる名族の氏名を与える勅許を得たとされています。1575年のことです。
実際に、簗田広正は別喜(戸次)姓を下賜されて、別喜右近(戸次右近)と名乗りましたが、豊後大神系の戸次氏と言う事になります。
丹羽長秀は鎮西九党のひとつで、明智光秀の惟任(これとう)に近い、惟住氏(これずみ)の名を賜り惟住長秀と名乗っています。
塙(ばん)直政は、九州・大蔵氏の嫡流である原田の姓を下賜されました。(塙正勝→原田直政)
これらと同じように、明智光秀は惟任と日向守(ひゅうがのかみ)を賜ったのです。


明智家は豊後の大神(おおが)一族が先祖のようです。
松尾芭蕉も豊後大神氏の流れで、その豊後大神氏の始祖は大神惟基(おおがこれもと)という。父は大神朝臣良臣(よしおみ)の息子・庶幾(これちか)。
芭蕉の神号・花本大神の請願に使われた系譜では、大神庶幾は嫗嶽(うばだけ)伝説の嫗嶽大菩薩となっています。庶幾の嫡男である大神惟基が豊後大神一族の始祖とされる。(No.66) 大神惟基の五男:臼杵九郎惟盛の臼杵氏から分かれた緒方氏は九州各地に尾形・緒形・小方・尾方等の名字をもって広がった。

「惟」の通字を持つ氏族が阿蘇氏です。そのほかに、大蔵流れの田尻氏がおられます。中祖は原田春種で、天慶3年(963)太宰少弐の原田春種公は、藤原純友を討伐できたのは神霊の加護によるとして、その子、泰種と共に山城国(京都)の男山八幡宮(石清水八幡宮)の神霊・大幡主を勧請し祀ったのが糸島の正八幡宮で、別名原田八幡宮ともいう。原田八幡宮は朝倉市小田にもあります。(No.224)
田尻氏、原田氏は大幡主奉斎です。

明智家の家紋は大幡主の神紋である「桔梗紋」です。
明智家は室町幕府・足利将軍に直接仕えていた「奉公衆」です。足利家は天照女神・大幡主奉斎ですので、大幡主に関係することが大です。

阿蘇氏の紋章は「違い鷹羽」で、鷹羽は大幡主の神紋です。鷹羽紋章は阿蘇氏専用紋ではありません。そうすると、阿蘇氏も大幡主に関係してきます。
「阿蘇」とは、「蘇の神」を祀るという意味だそうです。「蘇の神」とは?

 

No.80 朝倉恵蘇宿の筑後川を往復した三韓の貢船 ⑥ 2.旧朝倉町の恵蘇宿 から
「阿蘇山」は「可と蘇の神々が降りて来る山」、神々とは、伽耶、蘇の神、つまり、南九州、いわゆる日本書記で言う「熊襲」の国の神々です。「阿」の可は「伽耶 かや」の可で「可也」、編は柴刺と考えます。
よって、阿蘇山は南九州(阿蘇中心にした)の神々が降りて来る山と解釈しています。

呉の太伯王闔閭(こうりょ)の墓(虎丘)があるのが江蘇省蘇州市です。
呉王闔閭は松野連倭王系図によれば、九州王朝天皇家姫氏の太祖・夫差公の父君になります。

江蘇省蘇州市
春秋時代に闔閭が呉の都で、呉文化圏の中心であった。臥薪嘗胆、呉越同舟の舞台である。呉の君主の姓は姫(き)。春秋末期、呉は国王闔閭の時代に最盛期を迎え、BC 473年に越王の勾践により滅ぼされた。
夫差は越に闔閭を殺された後、薪の上に寝て復讐心を忘れなかった。胆を嘗めて復讐の心を呼び起こし、部屋に入るたびに部下に「汝、会稽の恥を忘れたか」と言わせて記憶を薄れさせないようにした。この故事から臥薪嘗胆の言葉が生まれた。

呉越同舟
BC473年、呉は越に滅ぼされ、BC334年、越は楚に滅ぼされた。楚国は始皇帝の秦に滅ぼされる。呉越の遺民は、揚子江以南の海岸沿いに国を構えた。
この様な国の乱れの中で、金属採取に長けた越人を交えた一族部民は呉王女姉妹(大日女・稚日女)を奉戴し、呉越同舟で船出をし、新天地の倭国へ向かった。
呉越は往古より倭国とは交流があり、倭国には金や水銀の鉱脈が露出しており、また住民は穏やかな人々である事が知られていた。
(「丹生都比売伝承」瀬藤禎祥 http://kamnavi.jp/ny/nyutu.htm 参照)
※熊本県球磨(呉と白族)では、金・水銀を産出します、また、翡翠もとれ勾玉も生産しました。大日女・稚日女は天照女神(大日孁・ヒミコ)、宗女イヨ(稚日孁)に引き継がれます。越の耳族は阿蘇から北陸の越国へ(神渟名川尊・崇神応神天皇系)

中国トレンドEXPRESS 2017年10月10日
まるで日本人? 江蘇人の気質は「繊細でまじめ」
「江蘇省の人の気質」にはどんな特徴があるのでしょうか。中国のQ&Aサイトによると、江蘇省の人は性格が穏やかで、文化や教育を重視し、理性的、決まりを良く守る傾向にあるそうです。いわゆる「真面目」なタイプと形容することができそうです。また、思慮深く将来設計をしっかりし、リスクを避ける反面、冒険心に欠けるというイメージでとらえられているようです。
話し方では婉曲表現を好み、ずけずけ物を言われると容易に傷ついてしまいます。些細なことにまで注意が行き届く反面それらを内に抱える傾向があるようで、うつ病になる人の割合は上海に次いで中国で2番目に高いそうです。こういった特徴にはどこか日本人と通じるところがあるようにも感じられます。(No.80)


松野連倭王系図の概略が正しいとすれば、大幡主は熊津彦(No.162 修正・松野連倭王系図)であり、呉王姫氏の分家であり、大幡主系の神々が天皇家と深い関わりがあっても不思議ではないのです。松野連倭王系図で熊津彦の横に「弟熊」を誅したとあり、「弟熊」は朝倉市矢野竹の羽白熊鷲ではないか、と思えるのです。そうすると、この羽白熊鷲戦争は神功皇后との争乱でなく、大幡主と天照女神(ヒミコ)の倭国平定ととらえることができるのです。




覚書メモ
京都市北区の平野神社
高野新笠(桓武天皇生母)の祖神として大和国において祀られていたが、延暦元年(782)平城京の田村後宮に祀られていた。桓武天皇による平安京遷都に伴って、大内裏近くに移し祀られたのが平野神社の創建になるとされる。
古くは平氏・源氏・高階氏・清原氏・中原氏・大江氏(高野新笠の母方の氏族)・菅原氏・秋篠氏といった臣籍降下氏族・土師氏系氏族から氏神として崇敬され、桓武天皇の第三皇子である葛原親王の子孫である平氏とは特に強い結びつきにあったという。
所在地 京都府京都市北区平野宮本町1
神紋は「桜」
祭神
北の第一殿から順に1殿1柱ずつ祀られている
 第一殿:今木皇大神(いまきのすめおおかみ、今木神)主祭神
 第二殿:久度大神(くどのおおかみ、久度神)
 第三殿:古開大神(ふるあきのおおかみ、古開神)
 第四殿:比売大神(ひめのおおかみ、比売神/比咩神)
創建
(推定)平安京遷都から延暦年間(794年-806年)
平野社の祭神は当初は今木神・久度神・古開神の三神であったが、後に相殿に比売神が加えられ四神になったという。
今木皇大神
創建以前は平城京の「田村後宮」に鎮座のところ、桓武天皇の父である光仁天皇の私的な社とされ、その夫人である高野新笠が祖神としての「今木神」を祀っていたもの。
久度大神
久度神社(奈良県北葛城郡王寺町久度四丁目9-1)
平安遷都とともに平野神社(京都市北区)に遷座され、祭神は八幡神、住吉神、春日神であったが、京都に遷られた久度神は昭和43年(1968)、平野神社より勧請され元宮に戻られることになった。

高野新笠と井上内親王
高野新笠は天智天皇の孫にあたる白壁王(後の光仁天皇)の宮人(側室)となり、天平9年(737年)に山部王(後の桓武天皇)の母となる。
白壁王は天平16年(744)、称徳天皇の異母妹である井上内親王(いかみないしんのう)を正妃に迎える。宝亀元年(770年)、称徳天皇の崩御により天武系皇統が断絶すると、亡き聖武天皇の皇女を正妃としていることを理由に62歳で光仁天皇に即位。皇后には井上内親王、皇太子にはその子他戸親王。
ところが、宝亀3年(772)3月に井上皇后は光仁天皇呪詛による大逆を図った罪で皇后を廃位され、他戸親王も同年5月に廃太子となった。翌宝亀4年10月には母子ともに庶人に落とされ、大和国の没官の邸に幽閉。2年後の宝亀6年(775)4月幽閉先で他戸廃太子と同日に急死している。おそらく暗殺であろう。ここに天武系皇統は実質断絶することになります。
その後、井上廃后と他戸廃太子は怨霊となり、天変地異をもたらしたのだという。後に両人は鎮魂され、再度皇后と皇太子が追号された。

井上内親王の母
県犬養 広刀自(あがたいぬかい の ひろとじ)で、聖武天皇の夫人。
聖武天皇の皇后は藤原不比等と県犬養橘三千代の娘の安宿媛で、光明皇后となり、皇后との間には阿倍内親王(後の孝謙天皇・称徳天皇)が生まれている。
称徳天皇には跡継ぎがなく、井上内親王とその子他戸親王の死により、天武系皇統は断絶することになる。


再び宮崎神宮の祭神について
宮﨑神宮HP https://miyazakijingu.or.jp/publics/index/3/
 祭神 神日本磐余彦天皇(神武天皇)
 相殿 鵜鷀草葺不合尊(父)玉依姫命(御母君)

日本書紀での神武天皇の表記
祭神・和風諡号・神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)
皇后・吾平津姫(あいらつひめ)の間に手研耳命(たぎしみみのみこと)を生む。

 

宮﨑神宮の創建 https://miyazakijingu.or.jp/publics/index/18/
社伝によれば、本宮は神武天皇の孫にあたる健磐龍命(たけいわたつのみこと・阿蘇神社の祭神)が九州の長官に就任した際、祖父のご遺徳たたえるために鎮祭したのが始まりと伝えられています。下って第10代崇神天皇、第12代景行天皇の熊襲(くまそ)ご征討の際に社殿のご造営があり、ついで第15代応神天皇の御代、日向の国造が修造鎮祭(しゅうぞうちんさい)した旨が旧記に伝えられています。


宮崎神宮の元宮・皇宮神社の祭神 https://miyazakijingu.or.jp/publics/index/23/
 祭神 神日本磐余彦天皇(神武天皇)
 相殿 吾平津姫命、手研耳命、渟名川耳命(ぬなかわみみ)

皇后が吾平津姫で、その子が手研耳命ならば、
神武天皇は阿蘇(越)の神、神沼河耳命(神渟名川耳尊)となります。

ある神社では
神社由緒で神武天皇を名乗られる方が二人おられる。
 綏靖天皇(神沼河耳命・神渟名川耳尊)
 崇神天皇(御眞木入日子印恵命・御間城入彦五十瓊殖天皇)

和風諡号で「渟中」を持つ天皇は

代数  漢風諡号      和風諡号(古事記)   和風諡号(日本書紀)
2代  綏靖天皇(すいぜい) 神沼河耳命      神渟名川耳尊
30代 敏達天皇(びたつ)  沼名倉太珠敷命    渟中倉太珠敷尊
40代 天武天皇(てんむ)  天渟中原瀛真人天皇  浄御原天皇

和風諡号で「豊」を持つ天皇は

代数  漢風諡号  和風諡号(古事記)   和風諡号(日本書紀)
31代 用明天皇  橘豊日命       橘豊日天皇
33代 推古天皇  豊御食炊屋比売命   豊御食炊屋姫尊
35代 皇極天皇  天豊財重日足姫天皇  天豊財重日足姫尊 → 斉明天皇(37)
36代 孝徳天皇  天万豊日天皇     天万豊日天皇
42代 文武天皇  倭根子豊祖父天皇   天之眞宗豊祖父天皇
43代 元明天皇  日本根子天津御代豊国成姫天皇 日本根子天津御代豊国成姫天皇

和風諡号で「渟中」を持つ天皇は天武天皇系(越)
和風諡号で「豊」 を持つ天皇は天智天皇系(呉)
※文武天皇の父系は天武天皇系、母系は天智天皇系、万世一系とは天照の母系を指すのか?


神武天皇が正八幡大幡主だったら・・・
神武天皇が大幡主だったら、いろんな神社由緒の違和感が少なく説明ができます。
たとえば、
神武天皇を祀る福岡市南区柏原の羽黒神社(No.136)
百嶋先生は羽黒神社の祭神は神武天皇と言われる。
私は、合同トレッキング2回の訪問で、羽黒神社の祭神は埴安彦の大幡主と感じました。
ブログ No.136 では、百嶋説を優先して論考しましたが、今でも違和感が残っています。
(私を支持していただいた読者の皆様、すみません)
羽黒神社の祭神を大幡主と天照女神とすると、違和感なく説明できるのです。2023年1月29日のトレッキングの羽黒神社・五社神社・埴安神社の説明に違和感がなくなるのです。
熊本県球磨郡多良木町の王宮神社しかり。神武天皇=大幡主としたら、説明が楽になり、さらに深い所まで球磨を論考することができます。(No.86)
No.133 私説・伊勢神宮 令和2年(2020年)02月01日 で述べましたように、歴史はすべて仮説の上に成り立っているのです。神武天皇=正八幡大幡主が確証されることはまずないでしょう?

※老神神社 熊本県人吉市老神町22

19

文化遺産オンライン「人吉老神神社」http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/124577

老神神社(おいがみ)の神紋は五七桐紋、本殿の向拝は四本柱、鳥居は厳島神社の両部鳥居です。これからしても、祭神は天照女神と推定できます。
老神神社は霧島神社を勧請したと伝えられ、霧島神社の祭神は瓊瓊杵尊、相殿に木花咲耶姫尊、神倭磐余彦尊他を祀ります。社紋は桜に十六菊紋で、本当の主祭神は天照女神と大幡主でしょう。