No.237 宝満宮巡礼・二宝満宮・山家宝満宮 ②

 
宮原誠一の神社見聞牒(237)
令和5年(2023年)10月30日
 

山家の宝満宮は宝満宮の元宮と福岡県神社誌由緒にあります。
太宰府市内山の竈門神社を創建したのは水沼君であり、宮号の「宝満宮」は後の時代とあり、時期は示されていません。この神社は比較的新しく、竈門神社の元宮ではありません。
「当社の宝満宮は竈門山宝満宮の本宮」とあり、竈門神社と宝満宮を別物と扱われているようです。他社の「宝満宮」は「山家の宝満宮」が元宮となるのでしょう。
しかし、「当社の山家宝満大神は思うに竈門大神と御一体なり」とあり、「宝満宮」と「宝満宮竈門神社」は同一とされていて、混同します。

 

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3.二の宝満宮  福岡県朝倉郡筑前町二(ふた)8
4.山家の宝満宮 福岡県筑紫野市山家2684−1
5.朝日の宝満宮 福岡県朝倉郡筑前町朝日265

 
 
二の宝満宮
二の宝満宮は寛文五年(1665)9月、山家の宝満宮を勧請し建立されました。
祭神は「玉依姫命」と純粋に表記され、山家の宝満宮の合祀神「神功皇后、応神天皇」はありません。

 

二の宝満宮の由緒から
この地には、むかし十三塚が東西に並んでいましたが、それを崩して寛文元年(1660)に町を作り、村名も十三塚と称していました。はじめ、町の南側は夜須郡に属し、北側は三笠郡に属していましたので、これを一村とし、二(ふた)村と称するようになりました。今は全て夜須郡に属しています。

 
二の宝満宮 福岡県朝倉郡筑前町二(ふた)8

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扁額「宝満宮」

 

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本殿向拝

 

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本殿扉には双龍のすかし彫り

 

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猿田彦大神(左) 大日靈貴命(中 天照女神) 松尾大明神(右)

 

正一位志賀姫大明神(左)、地蔵菩薩(右)、その後ろには十一面観音堂

 

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十一面観音(天照女神)

 

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氏子さん砥家門柱のフクロウ(大幡主の神使)

 
祭神の決め手となる社紋が、この神社にはありませんが、天照女神の印象が強いです。
拝殿左手には大日靈貴命(おおひるめむち =天照女神)の石塔があります。
拝殿右手には正一位志賀姫大明神のお堂、その後に十一面観音堂(天照女神)があります。
「正一位志賀姫」は福岡市志賀海神社の祭神で天照女神です。
本殿の扉には双龍のすかし彫りがあり、天照女神と大幡主を祀ります。

 
 
 
山家の宝満宮
山家の宝満宮は社号「宝満宮」の元宮と主張されています。
しかし、上臼井の宝満宮(福岡市博多区空港前四丁目)、
中津隈宝満神社(佐賀県三養基郡みやき町) は
内山の宝満宮竈門神社からの勧請となっています。
 
創建は宝満宮竈門神社がかなり古いですし、山家の宝満宮は室町時代の創建とされます。
「九州国立博物館 西都太宰府」によれば、永正18年(1521)4月に、筑前の豪族 筑紫満門の配下であり山家庄を領有していた砥綿氏(とわた)が建てたと言われています。
 
 砥綿氏(とわた)は福岡県が一番多い
 砥板氏(といた)は福岡県筑前町が一番多い
 砥上神社の氏子さんは砥綿氏と砥板氏がおられます
 
祭神は、玉依姫(たまよりひめ)、神功皇后、応神天皇とあり、神功皇后、応神天皇は後の合祀です。
 
山家の宝満宮 福岡県筑紫野市山家2684−1

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筑豊本線が通り、参道は陸橋で横断です

 

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社紋は大幡主の「三巴紋」

 

山家宝満宮縁起(抜粋) 福岡県神社誌
創立不詳、宝満宮由来書に曰く、当社山家宝満大神は勧請由来の義に在らす
化現より以来 降臨の本津宮にて 万代不易の廟窟也 と神俗共に申伝侍る
其後 人皇36代孝徳天皇 大化2年(646)丙午歳 神功皇后 応神天皇を奉祭せりと云ふ
宝満宮縁起一節に曰く、当社 山家宝満大神は蓋し竈門大神御一体なり 則ち筑前国御笠郡山家庄の県社として民生安堵の霊壇なり
永正18年(1521)辛巳 大檀那筑紫小野守 藤原朝臣 (砥綿)満門社殿造営すと棟札あり
天正15年(1587)小早川隆景公当国筑前を領し給ふ時 当社の宝満宮は竈門山宝満宮の本宮たるに依て神領一町五反の田地を寄附し給ふ
承応2(1653)癸巳暦夏吉辰 大檀那 松原筑前守 豊朝臣 忠之 社殿造営すとの棟札あり
宝満宮由来書の一節に曰く、欽明天皇の御宇(539-71)四月吉日選中申酉祭始と云々
西宮記に曰く、延喜15年(915)四月中九日 配祭始常云々 賀儀に葵祭有り 此の祭に勅使下り奉幣を捧げ 葵を以て祭らるる由 所見有之云々 祭過きて 其葵を大内に捧け奉る 此の祭は大事なりとあり

 
山家宝満宮縁起からすると、創立は結構古くなりますが、「大化2年(646)丙午歳 神功皇后 応神天皇を奉祭せり」とあり、大分八幡宮の創立が神亀3年(726)、宇佐八幡宮の創立が725年であり、創立年代の真偽に異議ありです。
 
由緒記に葵祭のことが記述され、欽明天皇の御宇の四月中申酉に葵祭を始めた。祭が終わって、その葵を内裏に捧け奉り、この祭は大事なり、とあります。

 

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拝殿右手の厳島神社(左)、八幡大神宮(中)、徳満宮(右)

 

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厳島神社(左)、八幡大神宮(中 大幡主)

 

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本殿左側の山王社(中)、その他不明

 

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本殿後ろの天嫗社(左 てんおうしゃ)、その他は不明

 

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※天嫗社(てんおうしゃ) 誰を基準にした老婆か?玉依姫の祖母の天照女神?
 ここの宝満宮に祀られているのは大幡主と天照女神

 

中津屋神社 (なかつやじんじゃ) 福岡県朝倉郡筑前町筑前町砥上980-1
砥上神社(とかみじんじゃ)
天文12年(1543)大内田勘解由重国(当社・初代宮司)初めて祭祀をなす。
砥上神社は砥神(兎上)神社か? 祭神は大己貴命=大幡主
 
砥上神社(星宮神社)  栃木県宇都宮市下砥上町741
主祭神:磐裂命・根裂命
 
砥上神社 栃木県宇都宮市下砥上町478
主祭神 高龗神
    火具土神=軻遇突智,磐裂神,根裂神
十神神社ともいう
星宮神社=磐裂乃命、根裂乃命、經津主乃命
熊野神社=伊邪那岐命、伊邪那美命
神明宮=天照皇大神
読乃社=月読命
住吉神社=中筒男命
八雲神社=素戔男命
八幡神社=誉田別命
 
※磐裂命・根裂命・金裂命は大幡主
高龗神は「火の神」で大幡主、闇龗神は「水の神」で天照女神、二柱は貴船神社の祭神
龗(おかみ)は龍の古語で、龍神や水神であり、水や雨を司る神様

 
 
 
蜷貝(にながい)と杭
玉依姫と天照女神と神功皇后の関係はさて置いて、干珠満珠と新羅海戦の話です。(No.04)
 
干珠・満珠の玉
山家の宝満宮の由緒では、神功皇后の異国征伐時に、玉依姫が海神・豊玉彦に干珠・満珠の玉を借受けます。この玉は白と青の勾玉とされています。
しかし、高良大社由緒(高良玉垂宮縁起)では、豊姫が竜王宮に借受けに行くとなっています。

 
高良玉垂宮神秘書 第509条
干珠満珠を龍宮にて賜ったのち、玉を龍宮から高良へ持って行き、神代(くましろ)に納められたとも申すなり、故に神代(くましろ)を神の代と書くなり。また、神辺(くまべ)を神のほとりと書くなり。その玉を神代に納められるなり。また、河上に在るとも云う。干珠は白い玉、満珠は青い玉なり。長さ五寸ほどなり。頭は太く、尾は細いと云う。それ故に高良を玉垂宮と申すなり。
 
「高良玉垂宮縁起」での海戦の様子
新羅軍と海戦に及ぶ時、藤大臣、干珠の玉を海中に投ずるとたちまち潮は引き、新羅の軍船倒れ、兵士、船を降りて攻めくる。弓矢と鉾の戦闘となる。藤大臣、八目鏑矢を放つと新羅軍は劣勢を知り退散を始める。その時、藤大臣、満珠の玉を投じて、潮が満ちる。新羅兵士、波間に漂い没す。これに因み、高良を玉垂宮と号す。

 
異国征伐の折に、干珠満珠を潮汐の満ち引きに利用した、とありますが、どのように利用したのでしょうか。二つの玉が、物理的に潮汐を制御できるはずがない。これは喩えの話で、藤大臣は干潮満潮の潮汐原理を知っておられ、海戦に干潮満潮の潮汐を利用する作戦に出たのではなかろうかと思うのです。
 
大善寺玉垂宮の社伝に曰く、引き潮の時に新羅の船が倒れ、倭軍の船は蜷貝が守って倒れなかった。

 

蜷城地区振興会「蜷城(ひなしろ)の名の由来」 福岡県朝倉市林田
皇后、九州の悪者退治の時、潮干玉を使って川の水を枯らし、川蜷に頼んで一晩のうちに城を作り、今度は潮満玉を使って一度に水を入れ、水攻めにて滅ぼすようにと、神告を受られる。川蜷が守った里をニナシロと呼び、ニナシロがなまってヒナシロとなった、と云う。

 
いずれの伝承にも、蜷貝が皇軍の手助けに一役かっています。そして、この蜷貝は何かの「象徴・喩え」と見たほうが考えやすです。ヒントは「引き潮の時に新羅の船が倒れ、倭軍の船は蜷貝が守って倒れなかった」の伝説と干潮満潮の潮汐原理を組み合わせて、戦いを考えてみました。

 

皇軍・倭軍の軍船は潮が満ち初めの潮位が低い頃、アリナレ河の河口に差し掛かると、各軍船は横一列に並び、船の両舷に用意した杭を縦列に5本ほど打ち立て、船底が海底に接しても倒れないように支えとした。作業が終わると、軍船は遡上し、新羅軍船と矢合戦となる。倭軍は満潮を過ぎ、引き潮になるまでの6時間ほど戦いを続けた。潮が引き始めると緩やかに後退し、杭が打ってある間に船を留めて、また矢応戦。やがて、新羅軍の船底は地に接し横転する。倭軍の船は両脇の杭に支えられ立位を維持、新羅軍に矢を仕掛け、陸上戦を展開。次の満ち潮を待つこと2時間、潮は満ち、新羅軍は船を捨てて敗走。と云う話が展開できます。

 
「引き潮の時に新羅の船が倒れ、倭軍の船は軍の貝が守って倒れなかった」の伝説は、打ち立てた杭が「蜷貝」であったと想定されます。
朝倉市林田の蜷城伝説の一夜城の蜷城も杭の城、つまり「柵の城」であったと想定します。おとりに騙され柵に閉じ込められた賊は満潮の水攻めに会い、壊滅した。当時の有明海の潮汐は筑後川の上流の蜷城まで及んでいたと考えられます。
同様に後の時代に、この杭と干満潮を利用して、海戦を交え、自軍を勝利に導いた将軍がいました。ベトナム軍(越軍)と元軍の戦い、ベトナムの元寇版である「白藤江の戦い」です。

 

白藤江の戦い(越軍と元軍の海戦)
1288年4月、越軍「陳国峻」は白藤江の潮位の上下を日々調べ、干潮時に川口底に川口を横断するように杭を打ち両岸に伏兵を配した。元軍ウマルが指揮する船団は、騎兵の護衛を伴い白藤江を遡上した。元軍の戦船が杭を打ち込んだ地点を過ぎると、越軍陳国峻の軽舟が出撃し、すぐに負けを装って後退した。追撃した元軍が伏兵の地点にたどり着くと、両岸から越軍の小舟がなだれ込み攻撃をしかけた。ちょうど潮が引きはじめた時刻だった。元軍の船団は退却しかけ、杭打ちの地点にさしかかると、干潮で水位が下がり、元軍の戦船は船底を川底の杭に掛け退路を阻まれた。そこに陳越軍は火をつけた筏を潮に乗せて流し、船団を炎上させ、元軍の戦船を壊滅させた。

 
「干珠満珠と新羅海戦」の想定話です。
 
また、白と青の干珠満珠は信号旗にも例えることができます。
白旗は落潮・干潮に差し掛かったときの合図旗、青旗は張潮・満潮に差し掛かったときの合図旗として、藤大臣が乗った旗艦から各軍船に合図を送って自軍の統率に使用したのではなかろうかと思っています。

 
 
 
八幡宮の放生会(ほうじょうえ)とは
長い間、蜷が杭に例えられるのか不明でした。
ヒントをいただき、それなりに理解ができました。
 
 蜷「にな」
 蜷局「とぐろ」は蛇を連想、蛇を伸ばせば棒になる
 
蜷を解けば棒・杭になる。
事代主の杖もヘビでした。上の方でとぐろを巻いています。
 
筑前の蜷打ち → 林田の蜷城
肥前の蜷打ち → 佐賀の吉野ヶ里
 
この蜷と杭が八幡宮の放生会に係わってくるのです。
大きな戦乱があり、終戦になると戦没者の慰霊供養が行なわれます。
新羅征伐の折、戦没者の遺体を持って来た杭等で焼却し、その灰は海に放流されました。
この動作が、蜷貝を放流することで戦没者慰霊供養と理解されたのでした。
 
時代は下がって、養老4年(720)の大隅薩摩の隼人の乱の終戦の折、戦没者の慰霊供養が八幡古表神社(福岡県築上郡吉富町)で行なわれました。その際、故事にならい、蜷貝が放流されました。これが八幡宮の放生会の起原ではないか、と思っています。

 

八幡古表神社 福岡県築上郡吉富町小犬丸353-1
山国川が近くを流れており、川向かいは大分県中津市です。
社紋は花菱紋です。

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ひとつあがりのカフェテラス 12.八幡古表神社・古要神社とアカル姫① 2016/10/24

 
英彦山神宮の社紋も花菱紋です。
花菱紋を社紋とする神社は、祭神名がいずれであろうと、天照女神、大幡主を祀る大神宮です。

 
なぜ八幡神社に放生会があるのか。
新羅征伐の当事者が神功皇后と武内大臣の伝説に置き換えられているのか。
本当の当事者は誰なのか?