No.235 三階松紋の佐賀県中津隈の宝満宮

 
宮原誠一の神社見聞牒(235)
令和5年(2023年)10月13日
 

太宰府市内山の宝満宮竈門神社の主祭神は、社説によれば鴨玉依姫とされています。神紋は桜紋と十六菊紋です。桜紋は鴨玉依姫の神紋ですが、桜紋は天照女神も使用されます。
福岡県北野町赤司の八幡神社の「止誉比咩神社本跡縁記」(豊姫縁起)によると、竈門神社を創建したのは水沼君と記してあります。水沼君は豊姫命(天照女神)を祀る北野町大城の中瀛宮(なかつのみや)を竈門(かまど)の嶺にたて、蚊田の渟名井(ぬない)の水を酌みて益影井(ますかげのい)に遷し、筑前国竈門神社を創立します。
現在、竈門神社上宮下宮には豊姫の天照女神と大幡主が祀られています。上宮は大幡主が主祭神、下宮は天照女神が主祭神となります。大幡主は下宮の境内社・五穀社に五穀神として祀られ、須佐社、式部稲荷社にも祀られています。
福岡空港東の丘の老松神社(空港前三丁目)の社紋は三笠松紋と三階松紋があり、三笠松紋と三階松紋は大幡主の神紋です。
宝満山は別名を御笠山(みかさやま)とも言われ、「御笠」「三笠」は大幡主に因む名称のようです。
 
老松神社は大幡主を祀り、神紋は三笠松紋と三階松紋となっていますが、竈門神社周辺の宝満宮では三笠松紋・三階松紋は見かけません。
ところが、佐賀県三養基郡みやき町中津隈の宝満神社では三笠松紋と三階松紋の神紋が使用されていました。
宝満神社で三笠松紋と三階松紋を見かけるのは、中津隈の宝満神社がはじめてです。桜紋ではありません。

 

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中津隈宝満神社の社頭

 

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中津隈宝満神社
新嘗祭(12月10日)の祭り期間の2017年12月14日に訪れて、幟旗に三階松紋が打たれ、その幟の多さに圧倒されました。しかし、宝満宮と三階松紋の関係が理解できずに、そのままとなっていました。
福岡空港東の丘の老松神社と宝満神社、太宰府市内山の宝満宮竈門神社を経て、三階松紋の中津隈宝満神社が理解できました。
中津隈宝満神社は内山の宝満宮竈門神社からの勧請です。その中津隈宝満神社が三笠松紋と三階松紋を使用されています。
 
中津隈宝満神社 佐賀県三養基郡みやき町中津隈3992

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一の鳥居「宝満宮」

 

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二の鳥居「宝満宮」

 

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拝 殿

 

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拝殿の奥

 

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中津隈宝満神社由来略記
祭神 玉依姫命 合祀(大山咋命、菅原道真公)
宝満神社は聖武天皇の天平四年(732) 筑前国竃門神社(大宰府市)の神霊を勧請し、松本に宮を建て奉敬す、この地に移されたのは、嵯峨天皇の弘仁元年(810) と由緒年紀に記されています。北茂安では千栗八幡宮に次いで古い創祀であり中津隈住民の氏神様として崇敬されてきました。
社殿の横に前方後円墳があり、この古墳は、神殿の部分により前方部が削られて、今では後円部のみが残っているという状態です。高さ約7メートル幅約36メートルで、発見された埴輪から紀元500年前後に築かれたものと推察され、この地方の豪族の墳墓と思われます  
祭神は佐賀県神社誌要によれば、祭神は勧請の宝満宮竈門神社に合わせて、玉依姫命、息長足姫命、誉田別命、合祀(猿田彦命、市杵嶋姫命、大山咋命、菅原道真公)となっています。
 
※境内社 井野原神社(鈿女命、猿田彦命) とありますが、見当たりません。近くの みやき町中津隈(干飯)に井野原神社があり、祭神も同一ですが、甘南備神社(かんなび)下宮となっています。

 
社殿の横に前方後円墳があり、社殿造営によって前方部が削られています。

 

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社殿の右横に前方後円墳跡があり、前方部が削られています

 

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飛龍、破風の両側には烏瓜の彫刻、その下は龍の彫刻

 

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ブドウにネズミの彫刻です

 

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三笠松紋と三階松紋

 

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本殿の波の彫刻

 

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墳丘上の印鑰社 祭神・天穂日命(豊玉彦)、中津隈南崎より遷宮
一般に印鑰神社の祭神は大幡主です             

 

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印と閂鑰(かんぬきかぎ)を持っておられます

 

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墳丘上の太神宮(左)、庚申社(右)

 

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狛犬の台座には「地紙紋に牡丹」

 

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社頭前・坂下池之嶋の弁財天の池、市杵嶋姫を祀ります、池には鯉が放流 
大幡主を祀る神社に市杵嶋姫ありです、市杵嶋姫は天照女神の置き換えです

 

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社殿・幟旗の三笠松紋・三階松紋、拝殿の向拝の龍の彫刻、破風両側には烏瓜の彫刻、本殿の波の彫刻、狛犬の台座には「地紙紋に牡丹」は大幡主を祀る痕跡です。祭神の鴨玉依姫、市杵嶋姫は天照女神の置き換えです。
さらに、境内社として、印鑰社、太神宮です。
中津隈宝満神社は宝満宮竈門神社と同様に、大幡主と天照女神を祀る神社だったのです。
 
 
 
下宮の井野原神社
中津隈宝満神社の東約400mの県道沿いに、甘南備神社下宮の井野原神社があります。
天鈿女命、猿田彦命の夫婦神を祀ります。
想像をたくましくすれば、猿田彦(伊の大神)を祀る「伊の原」神社でしょう。
 
井野原神社 佐賀県三養基郡みやき町中津隈(干飯)3098-1

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鳥居扁額「甘南備神社下宮」とあります

 
甘南備神社(かんなび)は神奈備神社(佐賀県佐賀市大和町久池井春日3651)としてあります。
佐賀県神社誌要によれば、祭神は天児屋根命とありますが、大幡主を祀ります。
 
銘文に、宝満宮下宮、天明4年(1784) とあり、中津隈宝満神社の下宮と理解します。
すると、中津隈宝満神社は神奈備神社だったのでしょうか?
明治41年(1908) 中津隈宝満神社に一時遷し(明治の合祀令)、また現在地に戻したという。

 

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猿田彦(右)、天鈿女(左)、別名、井の神、津の神

 
井神津神は「井津の神 いつのかみ」と読め、「稜威の神 いつのかみ」は博多櫛田神社の神様で、大幡主と天照女神となります。天鈿女命と猿田彦命の夫婦神は天照女神と大幡主の置き換えです。
 
※五瀬命(いつせのみこと)  吾平津姫(神武帝皇后)の兄
古代の名を現代漢字で理解するには無理があります。
「五瀬」から宮崎県五ヶ瀬町に五瀬命は住んでいた、と理解されることがありますが、考えものです。五ヶ瀬町は、昭和31年8月に三ヶ所村、鞍岡村が合併して、五ヶ瀬町として町制を施行しました。五ヶ瀬川が地名の由来となっています。
五瀬(いつせ) → 井津瀬 → 伊都勢 →稜威勢 と変化します。
伊都勢:伊都(いつ)の男(夫)
稜威勢:聖なる男(夫)
と言う意味です。伊勢は伊国の夫という意味であり、大幡主であり、天照女神にとっては夫です。
稜威=厳、稜威嶋=厳嶋=市杵嶋姫 → 天照女神

 

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古代の有明海の海岸線に沿って神社群が並びます

 
 
板部の物部神社
井野原神社の北北東の板部に三階松紋をもった物部神社があります。
「物部神社」であり、三階松紋を持ち、さらに蘇鉄が植えてあり、祭神は物部氏の氏神・経津主神(ふつぬし=彦火々出見命)となっています。久留米市御井町の高良下宮社とイメージが重なるのです。
 
物部神社 佐賀県三養基郡みやき町中津隈板部2725

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鳥居扁額は「物部宮」

 

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拝殿の右手には大幡主の蘇鉄

 

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本殿の屋根には三笠松紋

 

 
西暦602年、聖徳太子の実弟・来目皇子(久米王)は撃新羅将軍として筑紫糸島(元岡)に赴任するにあたり、物部若宮部に当社の創祀を命じました。由緒による祭神は物部氏の氏神・経津主神(ふつぬしのかみ=彦火々出見命)となっています。由緒の内容からすると、来目皇子は奈良県でなく佐賀県みやき町の中津隈におられたことになります。
 
拝殿の向拝と本殿の屋根には三笠松紋、拝殿の鬼瓦には三階松紋、拝殿の右手には大幡主の蘇鉄が植えてあります。「物部神社」と三笠松紋と三階松紋からして、祭神は大幡主です。

 

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本殿左手の祇園社(大幡主)

 
社殿の形式からして、祭神は開化天皇(物部保連)も考えられますが、新羅の航海遠征は航海王・大幡主に祈願します。武人の神様・経津主神(彦火々出見命)も楫取りの船長さんです。
 
石上神宮(奈良県天理市布留町384)の布都御魂(ふつのみたま)は大幡主です。
香取神宮(千葉県香取市香取1697)の祭神は経津主神(ふつぬし)で、彦火々出見命が当てられますが、本当は大幡主です。「主」の付く神様は大幡主とみても大きな間違いはないようです。
 
中津隈宝満神社下宮の井野原神社の祭神は、天鈿女命と猿田彦命の夫婦神を祀るとなっていますが、天照女神と大幡主の置き換えです。
 
中津隈宝満神社と板部の物部神社の長年の宿題がやっと解決しました。
 
 
高良下宮社(高良玉垂命神社)  福岡県久留米市御井町387

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祇園社(左)、正殿(中)、幸神社(右)

 
高良下宮社(高良玉垂命神社)は物部神社です。
 
高良下宮社(高良玉垂命神社)の祭神
正殿の祭神は高良玉垂命(物部保連、住吉大神、龍彫刻)、物部膽咋連は後の追祀
左の祇園社の祭神は石清水八幡大幡主(八幡大神、牡丹彫刻)
右の幸神(こうじん)社の祭神は猿田彦神(高良大神、三階松彫刻)

 

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祇園社の牡丹彫刻(左)、正殿の龍彫刻(中)、幸神社の三階松彫刻(右)

 
高良神社は大幡主(八幡大神)を祭神とし、社殿には龍、牡丹、三階松、三笠松の彫刻があります。
天暦9年(955) 菅原道真公に「天満大自在天神」の称号が贈られた以降、筑後の安楽寺荘園にある高良神社は、祭神を大幡主にしたまま、天満神社、菅原神社に置き換わっています。梅鉢紋を持つ新しい御神体は菅原道真公の姿になっていますが、本当の祭神は大幡主のままが多いです。柳瀬玉垂神社の末社であった隣の竹松の天満神社は大幡主を祭神とする印鑰神社でした。さらに、その隣の大久保の天満神社も末社でしたが、元は大幡主を祭神とする印鑰神社でした。