No.234 草野氏の十一面千手観音と坂本神社

 
宮原誠一の神社見聞牒(234)
令和5年(2023年)10月07日
 

筑後国守の草野氏が作成した十一面観音と千手観音が、それぞれ、千栗妙覚院(佐賀県三養基郡みやき町白壁)、山本山観興寺(福岡県久留米市山本町耳納)にあることがわかりました。
草野氏の発祥は佐賀唐津市の鏡山で、後に佐賀市高木瀬に移り、さらに久留米市草野に移り、戦国期末に豊臣秀吉に滅ぼされるまで続きました。
高木瀬にしばらく居を構えたことから、土地名の「高木瀬」から許氏高木流れと言われていますが、列記とした大幡主奉斎です。そして、十一面観音と千手観音(垂迹・天照女神)も祀っています。日吉神社(久留米市草野町矢作)には坂本命(久留米藩社方開基)を主祭神に、相殿・御魂社の祭神として大国魂神(大幡主)、天照女神が祀られていています。御魂社は倭大国魂神社です。
草野太郎経門の十一面観音と千手観音の話は白雉年中(650年-)ですから、草野氏は佐賀唐津市の鏡山時代以前に、草野町山本に居を構えていたことになり、元々、筑後草野出身であり、大幡主奉斎だったのです。
 
日吉神社 福岡県久留米市草野町矢作773-1

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ご神体台座には草野家の家紋「十二日足紋」が打たれています(No.199)

 
草野氏と十一面観音と千手観音に纏わる話です。
草野氏が筑後川ほとりの北野町石崎に祀った十一面観音が洪水で流され、下流の佐賀県みやき町千栗土居に観音像が流れ着き、豆津村嘉村に安置されたという。
 
 
千栗妙覚院
佐賀県三養基郡みやき町に、旧千栗八幡宮神宮寺であった千栗妙覚院(天台宗 千栗山 弥勒寺 妙覚院)があります。千栗妙覚院の宇土の観音堂には十一面観音が祀られています。筑後川上流から千栗土居に観音像が流れ着き、二度の流出の末、千栗妙覚院(宇土の地)に安置し、宇土観世音という。「北茂安町の史話伝説」に、この宇土観世音菩薩御縁起(白雉650年-)が詳しく記載されています。

 

宇土観世音菩薩御縁起(白雉年中650年-)「北茂安町の史話伝説」から要約
白雉年中、筑後草野城主草野太郎経門が日田郡石井郷を狩りで訪れた際、日下部の長者の娘を悪党から救出。悪党は経門が放った一矢に倒れ逃げ去る。悪党が逃げ去った所に矢がささって血が流れている大木あり。その夜、草野経門は長者宅に泊まるも、その夜、経門の枕元に高僧が立ちて言うには。
この山に茂る木の精なり、この木で観世音像にならんと誓いを立て、この事を長者に頼み受け入れてくれた。しかし、長者は、この木を切り倒したままで、そのまま放置した。吾は長者に祟り、娘だけになったが、この日、はからずしも経門に会い、宿世の因縁と思い、この木に観世音像を刻み給えと願った。
草野経門は了解し、水流が増える頃を計らい、この木を筑後川に流し、草野に近い筑後川沿いの北野石崎村にて陸揚げし、千手観音を彫り草野山本村に安置、もう一体の十一面観音を彫り石崎村に安置した。
数百年経ち、石崎村の十一面観音は洪水で流され、北茂安の土居に観音像が流れ着き、豆津村嘉村に安置した。ほどなく石崎村から尋ね来たりて連れ帰ったが、再び洪水に会い、また、北茂安の土居に観音像が流れ着いた。今度は石崎村から尋ね来ず、十一面観音像を千栗山の玉泉院に預け祀ることにした。
ある夜、当院の叡海の霊夢に現れ「吾を石貝の宇土に安置せよ。されば、信者の諸難を救い、女人の難産を救わん」と。叡海、この十一面観音を宇土の地に安置し、宇土観世音という。

 
十一面観音菩薩像は北野町石崎から千栗妙覚院に祀られ、もう一体の千手観音像は草野山本村の寺に安置されました。現在の山本山観興寺です。その東隣には老松神社が鎮座です。
十一面観音も千手観音も垂迹・天照女神です。
 
千栗妙覚院 佐賀県三養基郡みやき町白壁2411
ご本尊 愛染明王

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千栗妙覚院HPから
http://www.tendai924.com/chiriku-myoukakuin/index.html
神亀元年(724)の開山と古文書に記されている。大分県宇佐神宮より勧請された千栗八幡宮の神宮寺として、「千栗山弥勒寺妙覚院八幡宮」と称し、本尊に弥勒菩薩を祭った典型的な神仏習合の形態を取っていた。
藩政時には藩主鍋島家の祈願所となって「国中天台一宗頭人」として隆盛を極めた。
現在の伽藍は昭和44年(1969)の火災で寺院の全てを焼失した後に、当山檀徒各家、特に、フランスベッド株式会社前会長の故池田実氏の協力と教区内寺院や関係者各位のお力添えによって建立されたものである。

 
昭和44年(1969)の火災で寺院の全てを焼失した後に建立された、とあります。
もはや、十一面観音菩薩像も焼失でしょうか。
 
 
山本山 観興寺
草野経門が千手観音を草野の山本村に安置した寺は、現在の山本山観興寺です。
その東隣には老松神社が鎮座です。
 
山本山 観興寺 福岡県久留米市山本町耳納2129

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観興寺案内板
山本山 普光院 観興寺は曹洞宗の名刹で、天智天皇の御代、白雉(はくち)年中(650年頃)草野太郎経門が豊後国串川山(現日田市)に狩をし、榧かやの木の霊木を得て、これで千手観音の像を彫刻し、それを本尊として当山を開基、伽藍がらん堂坊三十六坊を建立したのが始まりといわれています。
特に天智天皇により「普光院」の勅額を賜ったほどで、境内の小池から、大宰府の都府楼と同じ「観興寺」の銘の入った布目瓦が出たことがあり、草野氏の信仰と当時の隆盛がしのばれます。
寺宝としては、千手観音の霊木にまつわる鎌倉後期の作と伝えられる「観興寺縁起」二幅があり、重要文化財として指定され、現在国立博物館に保存されていますが、同寺には、天保11年(1840)に描かれた写図があります。

 

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菊花の彫刻

 
 
観興寺東隣の老松神社
観興寺東隣に老松神社が鎮座です。社紋は八日足紋で、本殿には大幡主の三巴紋の彫刻があります。この老松神社は大幡主を祀る神社です。
「十二日足紋」「八日足紋」は草野家の家紋です。

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左が老松神社入口、右が観興寺入口

 
東隣の老松神社 福岡県久留米市山本町耳納 2131

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社頭 一の鳥居

 

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壊れかけた随神門

 

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拝 殿

 

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拝殿かえる股の菊花彫刻

 

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かえる股(裏)にも菊花の彫刻

 

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社紋は八日足紋

 

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本殿の八日足紋

 

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大幡主の三巴紋(本殿彫刻)

 

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境内社の天満宮

 
福岡県神社誌によれば、天智天皇年中(650年頃)鎮座で、山本郡の宗社であったという。観興寺と同時期の創立でしょう。
観興寺と老松神社は直線的ではありませんが、対面されています。
 
 
北野町石崎の日吉神社(坂本神社)
草野経門が十一面観音菩薩像を安置した筑後川辺の北野町石崎は現在、日吉神社が鎮座です。かつては、坂本神社と天満神社が古宮でした。
 
石崎の日吉神社(坂本神社)  福岡県久留米市北野町石崎(字屋敷)25

祭神・大山咋命 合祀(罔象女命・事代主命・久那度神・菅原神) 事代主命・久那度神=大幡主

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拝殿の両脇には蘇鉄、その前には藤棚、左は天満神社鳥居

 

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一の鳥居、二の鳥居、扁額は「日吉神社」

 

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拝殿の社紋は剣花菱

 

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猿田彦神、坂本神社扁額(古宮)、天満神社扁額

 
日吉神社の参道は本殿からみて、鳥居を通り、高良山の高良大社の神殿に向っていて、高良大社との関連が想定できます。実際の古宮は九体皇子の一人の坂本命を祀る坂本神社でした。
社紋である剣花菱紋は九州王朝を支えた家系の紋です。
拝殿前の両脇には蘇鉄、その前には藤棚があり、祭神が大幡主であることが想定できます。

 

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境内社・天満宮

 

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右から宮地嶽大明神・恵比須神(事代主)・天満宮・天満宮・不明

 

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参道は高良大社に向かいます

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氏子・稲吉家家紋「陰二段地紙紋」

 
扇紋、地紙紋の家系は大幡主奉斎です。
日吉神社の参道は本殿からみて高良山の高良大社の神殿に向っている。これから、古宮は高良神社であることが想定できる。実際の古宮は坂本神社でした。石崎区と隣村の高良区の氏子さん達は高良大社と結びつく過去の経緯があり、高良大社の50年越しの御神幸祭の行列には、要員として手伝いを要請されるという。もともと50年に1度、御神幸祭が開催されていたが「継承が困難」との理由で規模を短縮。前前回は20年ぶりに2012年(平成4)年10月に、平成4年から20年後の平成24年10月御井町・山川町・高良内町の三地区を神輿が巡る神幸祭がコンパクトにまとめた形で行われました。隣の畑で仕事されていた年配の方は、戦前は石崎区と隣村の高良区の氏子さん達総出で御神幸の要員として参加しました、と言われました。
 
 
 
みやき町と高良は繋がっている
草野町山本の観興寺と老松神社を、2017年6月訪問した時、この寺社について、さっぱり何も分かりませんでした。まして、観興寺と老松神社の関連性も。そのまま放置でした。
最近、佐賀県三養基郡みやき町の御嶽(みたけ)神社を調べる機会がありました。
御嶽神社を調べていたら、千栗妙覚院の十一面観音の存在を知ることができ、さらに調べると、その十一面観音が筑後草野城主草野経門に由来し、草野経門は北野町石崎に十一面観音を、千手観音を草野町山本に安置したことがわかりました。
千手観音を草野町山本に安置した寺が、現在の山本山観興寺。
十一面観音を北野町石崎に安置した神社が坂本神社(現日吉神社)。
観興寺と老松神社の解析が一気に進みました。
観興寺の隣には同時期に大幡主を祀る老松神社も創立されています。
坂本神社も老松神社も高良山の高良神社(大社)に繋がっていくのです。
 
十一面観音=千手観音=天照女神、老松神=大幡主=御嶽神→高良大神
 
 
御嶽(三嶽)神社 佐賀県三養基郡みやき町大字白壁字石貝2660

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祭神 国常立尊、大穴持命、少名彦命 元は千栗城本丸にあったが、現在地に遷宮。
御嶽(みたけ)神社が正式名称、鳥居には「三嶽神社」とあります。(北茂安町史 P1274)
平林の若宮神社(仁徳天皇)を合祀。

 

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拝殿、右後方は藤棚

 

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狛犬台座の地紙紋に二巴紋、二巴紋は生目神=大幡主

 

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境内祠「五穀神」手前左、「弁財天」奥左二

 
御嶽神社の祭神は国常立尊、大穴持命、少名彦命となっていますが、これらの祭神名は大幡主の異名同一神です。
狛犬台座には地紙紋に二巴紋があり、二巴紋は生目神(大幡主)の紋で、これらの紋からしても、祭神は大幡主です。
 
 
千栗妙覚院(天台宗 千栗山 弥勒寺 妙覚院)は旧千栗八幡宮神宮寺でした。
 
千栗八幡宮(正八幡)  佐賀県三養基郡みやき町白壁千栗2403

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一の鳥居の扁額は「正八幡一宮」

 

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拝殿向拝の四本柱は高良大社を想起させます

 

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千栗八幡宮は応神八幡を祀るとありますが、実際には「正八幡神」大幡主を祀ります。一の鳥居の扁額は「正八幡一宮」とあり、鳥居の右横に宮地嶽神社が鎮座です。また、祭神に難波皇子(仁徳天皇)、宇治皇子(菟道稚郎子)が祀られています。
由緒によれば、神亀元年(724)聖武天皇の勅を奉じて養父郡司 壬生春成が、この地に社殿を造営。724年は正八幡宇佐宮時代です。その以前に鳩森稲荷神社が先に鎮座されています。(No.99)

 

 

宇佐神宮の概暦(No.159)
539年 欽明天皇即位
545年 八幡古表神社創建
571年 八幡神が宇佐の地に現れる。(大神比義らが祀る。八幡神の霊験は不正確)
663年 白村江の戦い
706年 稲積六神社(稲積神社)創建、稲積山に鎮座
712年 辛島勝乙目が鷹居社を造り八幡神を初めて祀る
716年 辛島氏は鷹居社から八幡神を小山田社に移す
725年 宇佐亀山に一之殿(八幡大神)が造営
726年 大分八幡宮創建
729年 宇佐亀山に二之殿(比咩大神)が造営
749年 九州の宗廟神社となる
765年 妻垣神社建立
807年 元石清水八幡宮創立
823年 宇佐亀山に三之殿(神功皇后)が造営