No.232 柳瀬玉垂神社再考(神功皇后から豊姫と五七桐紋)
宮原誠一の神社見聞牒(232)
令和5年(2023年)9月07日
令和5年(2023年)9月16日追加
水沼君は豊姫命を祀る中瀛宮(なかつのみや)を竈門(かまど)の嶺にたて、蚊田の渟名井(ぬない)の水を酌みて益影井(ますかげのい)に遷し、筑前国竈門神社を創立しています。
その益影井が宝満山の八合目付近にありました。
宝満山中に益影井が存在することがわかり、水沼君が筑前国竈門神社を創立したことが現実味となりました。
このことから、竈門神社上宮下宮には天照女神と大幡主が祀られていることになります。上宮は大幡主が主祭神、下宮は天照女神が主祭神となります。
北野町赤司の八幡神社の「止誉比咩神社本跡縁記」(豊姫縁起)は参考になりました。
■赤司の八幡神社と日比生の豊姫神社
赤司の八幡神社
水沼君は豊姫命(天照女神)を道主貴(みちぬしむち)の神形代(みかたしろ)となし、筑紫中津宮の祭神となし、西海道(九州)の鎮守としています。世の人、道主貴を止誉比咩神社(とよひめじんじゃ)という。今の赤司の八幡神社の古宮です。本殿は神明造で、屋根には外削ぎの男千木と鰹木五本で伊勢外宮に相当します。
※道主貴の貴(むち)は宗廟(神社)の尊称
赤司の八幡神社 福岡県久留米市北野町赤司1765
拝殿前の蘇鉄(ソテツ)は海神(正八幡大幡主)を祀る
本殿は神明造 屋根には外削ぎの男千木と鰹木五本
日比生の豊姫神社
水沼君は豊姫命を祀る中津宮を竈門の嶺に起て、筑前国竈門神社を創立しています。後に、この竈門神社を改めて大城の日比生に移し、日比生宝満宮としています。現在の豊姫神社です。祭神は豊玉姫命となっていますが、由来からして、豊姫命=大日孁貴=天照女神です。
豊姫神社の本殿の神殿の扉には、天照女神の「十六菊紋」が打ってあります。本殿は神明造で、屋根には平削ぎの女千木と鰹木六本で伊勢内宮に相当します。
日比生の豊姫神社 福岡県久留米市北野町大城字日比生1115
本殿は神明造 屋根には平削ぎの女千木と鰹木六本
神殿の十六菊紋
豊姫神社の神紋は天照女神の「十六菊紋」
赤司八幡神社の神紋は大神宮大幡主の「三巴紋」
豊姫神社は伊勢内宮として、八幡神社は伊勢外宮として、離れて鎮座されています。
「十六菊紋」と「三巴紋」は筑前町の大己貴神社と同じです。天照女神と大幡主を祀ります。
筑前町の大己貴神社拝殿の神紋「三巴紋」と「菊花紋」
足利伊勢神社 栃木県足利市伊勢町二丁目3-1
天照皇大神と豊受皇大神を祀り、神紋は花菱と三巴紋です。
■現在の赤司八幡神社
現在の赤司八幡宮の祭神は次のようになっています。
御井郡惣廟 赤司八幡大神宮
一座 二座 三座
(左) 輿止比咩命 高良大神
(中) 道主貴 止譽比咩命 八幡大神
(右) 息長足姫尊 住吉大神
平成12年(2000)の祭神は、三座の主祭神・応神天皇、配神・高良大神、住吉大神でした。
神社説明では、
一座の道主貴は宗像三女神とされています。道主貴を宗像三女神とされたのは、後のことで、本来、道主貴=天照女神です。(宗像三女神=天照女神で、三女神は異名同一神です)
二座では、主祭神は止譽比咩命(とよひめ)=豊玉姫=豊姫、脇神の左は輿止比咩命(よどひめ)=豊姫(ゆたひめ)、右は息長足姫尊(おきながたらしひめ)の神功皇后です。
三座では、主祭神の八幡大神、配神の高良大神、住吉大神が、高良神社(高良宮)の祭神となります。赤司八幡神社は八幡神社なので、八幡大神を主祭神(中)に、高良大神を脇神にされています。高良大神のご神像の神紋は木瓜紋です。
高良神社の祭神は高良大神を主祭神に、八幡大神と住吉大神は脇神となります。
■高良玉垂命神社
高良神社と玉垂神社を合祀したのが「高良玉垂命神社」です。
水沼君が仁徳朝時代(367)、久留米市御井朝妻の味水御井神社(うまし・みず・みいじんじゃ)に高良玉垂命神社を創立したのが始まりとされます。高良玉垂命神社が高良大社(高良玉垂宮)の始まりです。
高良玉垂命神社の祭神です。
一座(豊姫宮) 二座(玉垂宮) 三座(高良宮)
(左) 輿止比咩命(ゆた姫) 八幡大神(正八幡大幡主)
(中) 道主貴(天照) 止譽比咩命(豊姫) 高良大神(彦火々出見命)
(右) 息長足姫命(神功皇后) 住吉大神(開化天皇)
※ 道主貴=天照女神=豊姫(豊比咩)
高良玉垂命神社を簡素に表現すれば、
豊姫宮(豊比咩)、玉垂宮(天照女神)、高良宮(大幡主)の三殿となります。
二座が玉垂宮、三座が高良宮、合わせて高良玉垂宮です。
高良玉垂命神社は、豊姫宮と玉垂宮と高良宮の三殿からなります。
後に、高良玉垂命神社は御井朝妻から山川に遷宮し、さらに履中元年(400)高良山に遷宮します。後に女神三柱の玉垂宮は別の地に遷され、高良山は豊姫宮と高良宮の二殿になります。戦後すぐに豊姫宮は廃社され、ご神体は御客座に遷されました。
現在の高良大社の社殿は高良宮のみの高良神社となっています。
(追加) 高良大社 福岡県久留米市御井町1
十六菊紋と三巴紋、社殿への上がり階段口の両部鳥居
豊姫=天照女神を祀る両部鳥居
■田主丸町柳瀬の玉垂神社
福岡県神社誌の祭神表記は武内宿禰を主祭神に、相殿の右殿に春日大神、左殿に住吉大神を祀ります。本殿内には神殿の祠が三殿あります。三殿共に女神を祀り、表記とは異なります。
本殿には五七桐紋、拝殿には五三桐紋が打ってあります。
五三桐紋は祭の長提灯にも打ってあり、五七桐紋は幔幕にも打ってあります。(No.01)
柳瀬の玉垂神社 福岡県久留米市田主丸町八幡(柳瀬)394
拝殿の引き戸には四個の金色の五三桐紋
長提灯の五三桐紋と幔幕の五七桐紋
本殿の五七桐紋と「玉垂神社」名盤
境内社の八幡社(正八幡大幡主)三巴紋
柳瀬神社の創立は、大幡主を祀る八幡神社から始まるのです。
後に、高良山から玉垂宮が遷され、柳瀬玉垂神社とな るのです。
玉垂宮の輿入れです。
それで、祖母の伝承とおり、高良のお姉さん(天照女神)は柳瀬の大幡主に嫁ってこられた、ということになります。
鎌倉時代初めの承元二年(1208)、柳瀬玉垂神社は大幡主を前面に出し主祭神となし柳瀬八幡神社となります。石原日記に曰く「柳瀬大菩薩 柳瀬村建立 右 春日大明神 左 住吉大明神」
この時でも玉垂宮の三女神は祀られていました。主祭神が変わっただけでした。
鎌倉時代から江戸時代までは八幡神を奉斎する柳瀬神社(八幡神社)と称し、この神社に因んで、この地域一帯の地籍は大字八幡(やはた 八幡村)とされました。
明治になり、玉垂宮に改宮することに決定。明治6年(1873)の社格設定に伴う郷社を返上し、村社として遷宮を計画。明治7年(1874)8月の暴風大雨洪水の水害で流出倒壊し、現在の地(字 西内畠394)に玉垂神社が遷座されたのは明治12年(1879)で、明治31年(1898)春、本殿を石祠に改建しています。八幡神の正八幡大幡主は境内社の八幡社に遷されました。この遷座の際、五社の末社は廃神され、御神像の木像は拝殿天井裏に密かに安置されました。
それでも祭神表示は、祭神に武内宿祢、相殿に(右)春日大神(左)住吉大神を強要されました。
高良神社の開花天皇は武内宿祢の名によって徹底的に消されています。このため、開花天皇の存在影が薄いのです。皇統である武内宿祢は壱岐真根子事件で大臣降下の人、その武内宿祢が記紀では神功皇后と組み英雄扱いです。武内宿祢を祀る神社は鳥取の宇倍神社です。
8年前の私は、百嶋学と見合わせ、柳瀬の玉垂神社は五七桐紋の開化天皇と五三桐紋の神功皇后が祀られていると思っていました。
本殿には女神の三殿があるのみです。開化天皇のご神体を探すも見当たりませんでした。
結局、柳瀬の玉垂神社は、玉垂宮の三女神と境内社八幡社の大幡主が祀られているのみでした。
今の柳瀬の玉垂神社は、豊姫(天照女神・玉垂宮)を主祭神となし、祭神・八幡神(正八幡大幡主)は参道脇に遷座です。
柳瀬の玉垂神社の本殿の扉に刻まれた文字「事六帝伐三韓」と五七桐紋、
50年前では文字の青緑色も鮮明でした。
「事六帝、三韓を伐つ」(ことろくてい、さんかんをうつ)と読めます。
「六帝」は神功皇后なのです。
これらからすると、本殿の中殿には神功皇后が祀られていると思ってしまいます。
開化天皇と神功皇后を祭神とする伝承は、大幡主(高良宮)と天照女神(玉垂宮)の隠しに利用されたのでした。開化天皇は大幡主を隠し、神功皇后は天照女神を隠してきました。
柳瀬の玉垂神社の伝承された祭神は
開化天皇 五七桐紋
神功皇后 五三桐紋
本当の主祭神は
天照女神(玉垂宮) 五七桐紋 花菱紋=伊勢神宮(内外)の神紋
大幡主(高良宮) 五三桐紋 三巴紋 → 境内社に出される
となります。
現在の主祭神は玉垂宮豊姫の天照女神です。
10月9日の「おくんち例大祭」の獅子舞は、天照女神への奉納だったのです。
※大幡主の息子、孫娘とされる「豊玉彦」「豊玉姫」「玉依姫」に「玉」の字がつくのか、私は天照女神の「玉垂命」から来ていると思っています。
2016年(平成28年)10月9日
■各地の高良玉垂宮(参考資料メッセージ14 覚書メモ)
玉垂神社 佐賀県武雄市北方町大字志久4738
祭神が高良山玉垂宮の豊比咩、玉垂宮の豊比咩は天照女神です。
由緒が真当な神社です。
玉垂神社 佐賀県武雄市花島14724
社紋が日の丸扇紋で武雄神社と同じ、大幡主を祀ります。
武雄神社 佐賀県武雄市武雄町武雄5335
社紋が扇紋で、大幡主(塩竈神)を祀ります。
海童神社 佐賀県武雄市北方町大字志久4305
社紋は「十二日足紋」、赤司八幡宮の副紋が十二日足紋で大幡主を祀ります。
富久の高良玉垂命神社 福岡県筑後市富久814
獅子と牡丹、その奥は鯉、五七桐紋に鶴と亀と鳳凰は大幡主、天照に関係
侍島の玉垂命神社 福岡県三潴郡大木町侍島160
市杵島姫の両部鳥居で天照、祇園紋は大幡主、天照に関係
高良玉垂命社 福岡県三潴郡大木町奥牟田1
獅子、十六菊花紋、鳳凰、花菱は天照に関係
葛城一言主神社 奈良県御所市森脇432
神紋は半菊に一字紋、さら九曜星に三枚笹紋で大幡主を祀ります。
葛城神社 佐賀県三養基郡みやき町天建寺2069
祭神は桂木一言主神・仁徳天皇他
神紋も半菊に一字紋、副紋が三つ巴紋、ご神体に三つ星紋があり大幡主です。
鹿路神社 佐賀県神埼市脊振町鹿路253
祭神は桂木一言主神=大幡主
葛城(桂木甲羅)は神功皇后の場所でなく、大幡主、天照に関係する場所
福岡県みやま市には、柳瀬の玉垂神社と同じような性質の神社がよくあります。
ある八幡神社では、社紋に五七桐紋、聖母宮には十六菊紋と花菱紋。百嶋学に知識がある人は、この神社は「開化天皇と神功皇后」を祀る神社と早とちりするでしょう。
また、ある玉垂神社では「五七桐紋と五三桐紋」を見ただけで、この神社は「開化天皇と神功皇后」を祀る神社と早とちりするでしょう。
そうではありません。これらの神社は「大幡主(高良宮)と天照女神(玉垂宮)」を祀る高良玉垂宮なのです。
玉垂神社の祭神が武内宿祢、そんなはずがない、若い時は理解に随分と考えました。
神社変遷の記録があれば村内には公開してほしい、祭神表示の偽りはもう止めてほしい、と願うのです。時代の変遷はやむを得ないとしても、もう秘密にする時代ではありません。
最近、仏教寺院の本堂内をじっくり見る機会があるのですが、大体の形式は神社と変わりありません。しかし、開放感が全く違います。仏教寺院は開放的で、本尊も建物もよく鑑賞できます。神社はというと、開放的でありません。本殿の扉は年中閉めっぱなし、扉は開いても御簾で隠す。ひどい神社では、50年以上は本殿の扉を開けないで掃除もない、祠はほこりをかぶり崩れかけています。ご神体は、一般人は見てはいけないものとの恐れがあるのでしょうか。
祭りの時は、本殿の扉を開き、ご神体が見れる神社もあります。
閉鎖的では、どの神様を祀っているかも確認できず、由緒を信ずるしかありません。しかし、その由緒もどこまで正しいか?
昔の春の大祭では、境内もしくは原っぱに幔幕を張り、ご神体を本殿から出し、上座に据え、氏子は下座に並び、神事が終われば直会の会食です。氏神様と氏子が対面し語らう唯一の機会でした。ご神体を本殿から出していては、ご神体も痛みます。何年になるかわかりませんが、その時は化粧直しで、新しくなってもらいます。実に開放的でした。
自分の氏神神社にはどの神様が祀られているかもわからない、それでは氏子の意識は希薄になります。ひいては、神社建物の維持すら意識希薄になりかねません。いつしか時が経てば社殿の再建築も必要になります。経済基盤の弱い村では再建築は無理でしょう。観光的な神社で賽銭の上がりの良い神社は問題なく維持できましょう。
本来の日本神道とは、氏神様と氏子関係の先祖崇拝です。伊勢神宮の天照大神を頂点とする一神教ではありません。明治の宗教政策は先の大戦で終わりました。違った氏神様を押し付けてはいけません。正しい由緒に戻させてください。