No.231 大善寺玉垂宮と藤大臣と藤

 
宮原誠一の神社見聞牒(231) 
令和5年(2023年)9月05日  
令和5年(2023年)9月13日追加
 

まずは、高良玉垂宮神秘書 第1条の部分から

 

高良玉垂宮神秘書 第1条(部分)
神功皇后、異国征伐のち、三男月神 底筒男尊は皇后と夫妻となり給う。
嫡男日神の垂迹 表筒男尊は、皇后の御妹豊姫と夫妻なり。その御子は、大祝 日往子尊と申すなり。この底筒男尊、表筒男尊の二人は、皇后と共に皇宮におわします。
三男月神の垂迹 底筒男尊、皇宮に住まわれる間、位を設け、大政大臣物部保連と申し給う。藤大臣は干珠満珠を借り給う時の仮の名なり。
嫡男日神の垂迹 表筒男尊の大臣公をいかがすべきと仰せられれば、皇后やがてのたまう。添も天照大神の「ひまご」にておわします間柄、玄孫大臣物部大連と申し奉るべしとおおせけり。玄孫大臣と書いては、ひまご大臣と読めり。

高良玉垂宮神秘書 第6条
安曇磯良は、筑前国にては志賀明神、日立国にては鹿島大明神、大和国にては春日大明神と申すなり。

高良玉垂宮神秘書 第7条
皇后の御妹に二人おわします。一人は宝満大菩薩、一人は河上大明神になりたまう。これ豊姫のことなり。

 
三人の男子の御名は、嫡男は大祝の先祖で御名は表筒男尊で名は安曇磯良であり、後の玄孫大臣物部大連(おおつら)です。次男は崇神天皇で中筒男尊。三男は高良大菩薩で底筒男尊であり、名は大政大臣物部保連(やすつら)と云う。

住吉三神を整理すれば

 (嫡男) 表筒男尊 日神垂迹   玄孫大臣・物部大連 安曇磯良
 (次男) 中筒男尊 (贈)崇神天皇 ツヌガアラシト   御間城入彦
 (三男) 底筒男尊 月神垂迹   大政大臣・物部保連 開化天皇


となります。後に開化天皇は住吉大神となられます。

日神垂迹は天照女神、月神垂迹は大幡主です。
住吉の神がここで、すでに間違っていました。
「住吉」は古くは「住江」と書き、住江の神は海神です。大幡主です。

 

「三男月神の垂迹 底筒男尊、大政大臣物部保連と申し給う。藤大臣は干珠満珠を借り給う時の仮の名なり。」

 
大善寺玉垂宮の祭神は藤大臣で、後の開化天皇(高良玉垂命)と言われてきました。

 

大善寺玉垂宮HP https://tamataregu.or.jp/
祭神は、玉垂命(藤大臣(とうのおとど)・高良玉垂大菩薩とも称した)、八幡大神、住吉大神で創建は古く、凡そ1900年前の創祀と伝えられています。

 
大善寺玉垂宮の祭神は玉垂命で高良玉垂大菩薩、別名は藤大臣、と神社説明は言っています。実際は、藤大臣=八幡大神=住吉神で、藤大臣は大幡主です。
しかし玉垂命は女神です。玉垂命は開化天皇ではありません。後に開化天皇は住吉大神となられます。

藤大臣について、今までずっと疑問に思い、今日までやってきました。やはり間違っていました。高良玉垂宮神秘書も完全ではないようです。作者の意向が入っているようです。

 

高良玉垂宮神秘書 第142、237条
高良大菩薩は神功皇后崩御のあと、住み慣れた大宰府の皇居を出で、甥にあたる日往子尊を連れて、宝満川を小船で下り、やがて筑後においでになり、まず久留米市大善寺に着岸。ここで御船を新造して大舟で漕ぎだし、大川市酒見に上陸。風浪の宮九九社大権現を祀り、さらに有明海に出て、こんどは大牟田市黒崎に上陸。ここからまっすぐ北に陸行して山門郡瀬高イチカウラ、八女郡人形原を経て高良山に登り、八葉の石畳を築いて地主神たる高樹神を退け、ついに、この高良山に鎮座になった。

 
「高良大菩薩は神功皇后崩御のあと、住み慣れた大宰府の皇居を出で」
これでは、何となく高良大菩薩は開化天皇ととれます。
しかし、なぜ、実子でない日往子尊を連れて出るのでしょう。

「神功皇后崩御のあと、高良大菩薩は住み慣れた大宰府の皇居を出で」と変更します。
「甥にあたる日往子尊を連れて」を取ります。
すると、高良大菩薩は開化天皇で意味が通じるのです。

高良玉垂宮神秘書は「天照女神と大幡主」と「神功皇后と開化天皇」の関係がごっちゃになっています。
大善寺、大川市酒見、大牟田市黒崎、八女郡人形原の地名は大幡主関連です。当初の高良の神とは大幡主です。そして、最後は高良山に落ち着きになる。
当初の「高良」は亀の「甲羅」と書きました。大幡主の甲羅です。次に「高羅」、次に「高良」となりました。
「河原」は「かわら」または「こうら」と呼びます。「香春」も「かわら」です。高良神社を瓦神社とも書きました。
高良も河原も香春も瓦も同じなのです。高良玉垂神社の基本は「天照女神と大幡主」に関係します。
 
 
 
高良玉垂命神社の創立
水沼君は中瀛宮(なかつみや)に道主貴の神形代として豊姫(天照女神)を祀り、筑後国御井郡河北庄(こうこだ)の止誉比咩神社(豊姫神社)といい、今の赤司八幡神社の古宮です。

高良神社と玉垂神社を合祀したのが「高良玉垂命神社」です。
水沼君(水間君)が仁徳朝時代(367)に味水御井神社(うまし・みず・みいじんじゃ 久留米市御井朝妻)に高良玉垂命神社を創立したのが始まりとされます。高良玉垂命神社が高良大社(高良玉垂宮)の原型です。

 

止誉比咩神社本跡縁記(豊姫縁起)
応神天皇9年4月、武内宿祢を筑紫に遣わし、左衛に居ませ、百姓を監察せしめる。後の人、神廟を起て、蚊田の渟名井(かだのぬない)の水を酌みて、浅水間の井(あさづまのい)に移し、これを祭る。高良玉垂命神社、これなり。

 

味水御井神社 福岡県久留米市御井朝妻一丁目5

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赤司の豊比咩神社は、平安時代延長2年(924)、相殿に山城国(現京都府)の石清水八幡宮より八幡大神を勧請し合祀、「御井郡惣廟」へ、この延長2年の勧請合祀が赤司八幡神社の創建となります。しかし、社号は止誉比咩神社のままです。八幡神社に社号を変更したのは、戦国時代末の大友宗麟(1530-1587年)と当社社人との荒荘の後となります。

現在の赤司八幡宮の祭神は次のようになっています。

御井郡惣廟 赤司八幡大神宮
   一座   二座     三座
(左)      輿止比咩命  高良大神
(中) 道主貴  止譽比咩命  八幡大神
(右)      息長足姫尊  住吉大神

平成12年(2000)時点での赤司八幡宮の祭神は、主祭神が応神天皇、配神は高良大神、住吉大神でした。(後に変更となります)

開化天皇(住吉大神)と息長足姫が祀られたのは、久留米市御井朝妻の味水御井神社がある高良玉垂命神社です。仁徳天皇の御宇(367)、水沼君(水間君)が祀りました。朝妻が高良玉垂宮の始まりです。
その後、社殿は御井町山川に遷宮し、履中天皇の御宇(400)に高良山に遷宮しています。
豊比咩神社の高良宮は延長2年(924)以前に焼失したことになります。その後延長2年(924)、石清水八幡宮より高良宮を勧請し、再建されたことになります。焼失しなければ、石清水八幡宮からの勧請は必要ありません。


赤司八幡大神宮の仔細(私説)です。

   一座(豊姫宮)  二座(玉垂宮)     三座(高良宮)
(左)         輿止比咩命(よど姫)  八幡大神(正八幡大幡主) 三巴紋
(中) 道主貴(天照)  止譽比咩命(豊姫)   高良大神(彦火々出見命) 木瓜紋
(右)         息長足姫命(神功皇后) 住吉大神(開化天皇)   五七桐紋

  ※豊玉姫=豊姫=天照女神、よど姫=ゆた姫

高良大社の資料から、初期の高良玉垂命神社は、豊姫宮と玉垂宮と高良宮の三殿です。
履中元年(400)高良山に遷り、磐井戦乱(527)後に女神三柱の玉垂宮は別の地に事情があって遷され、高良山は豊姫宮と高良宮の二殿になります。
戦後すぐに豊姫宮は撤去され、ご神体は御客座に遷されました。豊姫宮の存在はGHQの意向に沿わなかったのでしょう。現在の高良大社は高良宮のみの高良神社となっています。

 

高良大社
祭神 向かって右より、八幡大神、高良玉垂命、住吉大神
本殿内には御客座があり、豊姫大神が合祀されている
由来
創立は仁徳天皇55年(367)、78年(390)大善寺玉垂宮創立
履中元年(400) 高良山に社殿を創建し、高良玉垂宮と称する
和銅5年(712) 辛島乙目が鷹居社を造り八幡神を初めて祀る、宇佐宮創立
天平勝宝元年(749) 宇佐宮が九州の宗廟神社となる
大同2年(807) 元石清水八幡宮創立
天安2年(858) 高良玉垂神及び比咩神等正殿遇失火
貞観元年(859) 石清水八幡宮、山城国男山に創立
延長2年(924) 赤司豊比咩神社、高良宮を勧請
承暦4年(1080) 炎上消失。以後、歴史的記録は途絶えます
承元2年(1208) 柳瀬玉垂宮を柳瀬八幡宮に変更
明治4年(1871) 高良玉垂宮を高良神社と改称、国幣中社に列せられる
昭和20年(1945) 豊姫宮は終戦後廃社となり、ご神体は本殿の客間に移される
昭和22年(1947) 社格廃止により、高良神社を高良大社と改称

 

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大善寺玉垂宮
「高良玉垂宮」は高良大社の宮号です。玉垂宮と高良宮を合わせて高良玉垂宮です。
今の高良大社は女神の玉垂宮はありませんので、「高良宮」です。

大善寺玉垂宮の一の鳥居の扁額は「玉垂宮」の玉垂神社で、高良神社ではありません。

大善寺玉垂宮本殿の神紋の三巴紋は、大幡主が主祭神となりますが、玉垂命(豊姫=天照女神)を前面に出し玉垂宮に改変されました。当初は天照と大幡主を祀る高良玉垂宮だったのでしょう。本殿の神紋の三巴紋と男千木は昔の名残でしょう。大幡主は本殿左奥の祇園社に出された可能性があります。柳瀬の玉垂宮と同じ経緯です。

柳瀬玉垂宮は、鎌倉時代に天照女神を隠して、大幡主を前面に出して柳瀬八幡神社となります。明治になり玉垂宮に戻されて、大幡主は境内社の八幡社に出されます。神額は玉垂宮です。今の柳瀬の玉垂宮の登記名は玉垂命神社と昔の名残を留めています。

 

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大善寺玉垂宮の境内図

 

大善寺玉垂宮 福岡県久留米市大善寺町宮本1463

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一の大鳥居「玉垂宮」

 

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二の鳥居(元和鳥居)

 

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惣門、両脇に門神様

 

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楼門と回廊

 

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楼門の彫刻(翁と龍、左右は獅子)

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拝殿に三巴紋と三巴紋の提灯、左奥は祇園社

 

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本殿の屋根には外削ぎの男千木と鰹木7本、神紋は三巴紋

 

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拝殿向拝の菊花の彫刻と三巴紋

 

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祇園社と三巴紋、祭神はスサノオではありません大幡主です

 

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現在の祇園社と恵比須社(祇園社の三巴紋が外されています)

 

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神宮寺の鐘楼、平嶽宮、天満宮

 

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由来と社殿痕跡から見る大善寺玉垂宮の変遷(想定)
現在の大善寺玉垂宮の本殿には外削ぎの男千木と鰹木7本、神紋は三巴紋。拝殿には菊花の彫刻と三巴紋。楼門には翁と龍、その左右には獅子彫刻です。境内には虎の石造、金明孟宗竹、蘇鉄があります。
これらからすると、祭神は藤大臣=大幡主となります。

由緒記の祭神は玉垂命(=藤大臣)であるという。
境内社には祇園社、生目八幡宮があり、これらの本来の祭神は大幡主です。
しかし、現在の祭神は玉垂命であるという、高良玉垂命は開化天皇であり藤大臣であるといいますが、開化天皇ではありません。後に開化天皇は住吉大神となられます。
祭神は玉垂命であり、玉垂命は女神です。

すると、創立時は玉垂命と藤大臣を祀る高良玉垂宮と見たほうがよいようです。
後に詳しく述べますが、玉垂命は女神であり、豊姫であり、天照女神です。藤大臣は大幡主です。

創立時は玉垂命(豊姫=天照女神・菊花紋)を主祭神に、高良宮(藤大臣=大幡主・三巴紋)を祀る高良玉垂宮(平削ぎの女千木と鰹木7本)だったのでしょう。

ある時期に、玉垂命(豊姫=天照女神)は後ろに下がられ、藤大臣(=大幡主)を祭神とする高良宮(外削ぎの男千木と鰹木7本)となった。

次の時代に玉垂命(豊姫=天照女神)が主祭神に戻され、玉垂宮となった。しかし社殿形式の男千木と鰹木7本と三巴紋はそのままされ、大幡主は本殿左奥の祇園社に出された可能性があります。現在の姿です。

このように大善寺玉垂宮の変遷を想定するのです。

現在の由緒はちぐはぐですが、玉垂命(天照女神)を中殿に、八幡大神(大幡主=藤大臣)を左殿に、住吉大神(開化天皇)を右殿となっています。高良大神は記載がないので、変形した高良玉垂宮となります。
玉垂命(天照女神)と八幡大神(大幡主=藤大臣)を祀って高良玉垂宮となります。
大善寺玉垂宮であれば、玉垂命(天照女神)のみを祀ります。

 

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拝殿前の蘇鉄

 

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大幡主の虎の石造

 

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大幡主の金明孟宗竹

 

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天照皇大神宮

 

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玉垂宮の獅子舞

 

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狭野神社 大幡主(塞の神)と天照女神 
宮崎県高原町の狭野神社ではありません
ご神体は国造りの御祖神を表しています

 
 
大善寺玉垂宮の藤大臣
大善寺玉垂宮は玉垂宮の豊姫と高良宮の大幡主を祀るのが基本となります。
それで、玉垂命は女神の天照女神=豊姫です。玉垂命は開化天皇ではありません。藤大臣は大幡主です。
神社の境内に藤棚を見かけることがあります。
この藤棚は開化天皇の藤大臣から来ている、と教わりました。
しかし、神社巡りが多くなるにつれて、藤棚は開化天皇を祀る高良神社の専用でないことに気づきました。むしろ、大幡主を祀る神社に藤棚を見かけるのです。藤棚を高良神社の専用と勘違いしたのは、高良神社は大幡主と開化天皇を共に祀るからです。大幡主を祀る塩土神社にも藤棚はあります。大幡主を祀る祇園神社にも藤棚はあります。日吉神社にも藤棚があります。

やっと気づきました。
藤棚の「藤」は天照女神を表し、「棚」は大幡主を表すと。

 

歌舞伎の藤娘
藤の絡んだ松の大木は、松が男(大幡主)を、藤が女(天照)を象徴。
藤の絡んだ松の大木の前に、藤の枝を手にした藤の精が、意のままにならない男心を切々と嘆きつつ踊り振乱になるのです。

 
藤には欠点がありまして、自分の体を自分で支えることができません。
よって、人間が棚を作って支えてあげるか、それとも、ほかの木につるを伸ばし 自分を支えるしかないのです。周りに木がなければ、自生は難しいようです。

藤子(天照)には相棒が必要なのです。頼りになる松男(大幡主)が必要なのです。
天照ヒミコの鬼道たけでは倭国大乱の平定は難しかったでしょう。
大幡主の手助けが必要だったのです。

藤棚は天照女神と大幡主の象徴だったのです。

それで、古典七夕は、天照が「織姫」を、大幡主「彦星」に例えられています。
真鍋氏の「大幡主が天照大神の御手を引いて、西九州から東九州の宇佐に遷し奉ったと云う物語は、何か牽牛と織女の七夕祭のはるか以前の神話ではなかったかと想像されます。」と。
大幡主と女神の天照大神は古典七夕関係にあったというのです。それどころか、夫婦であったとみるのです。
「大幡主は天照の手を引いて宇佐嶋へ・・・」は、大幡主と天照女神を古典七夕神に見立てた七夕彦と七夕姫の七夕です。
次世代の七夕神(たなばた)が犬飼神(海幸彦)と七夕姫(市杵島姫)、
次が山幸彦と天鈿女命の機織神(たなばた)、
となります。

各地の七夕神社の祭神は大幡主と市杵島姫が基本のようです。市杵島姫は天照女神の置き換えです。

 
 
藤が天照女神と大幡主に関係することがわかりました。
藤と関係して、気になる神社があります。宮地嶽神社です。
同様に、藤と関係して、気になる氏姓があります。藤原氏です。
宮地嶽神社は、百嶋学では開化天皇と神功皇后とその皇子二人を祀ります。実際は、開化天皇は隠されているとします。神社由緒では神功皇后とその皇子二人を祀ります。
福岡県神社誌の神社由緒によれば、宮地嶽大明神は安倍丞相とあるのです。
高良玉垂宮神秘書では、開化天皇は大政大臣物部保連、安曇磯良は玄孫大臣物部大連とあります。開化天皇と神功皇后の長子が仁徳天皇です。
さらに、由緒では宗像三女神が追祀です。神功皇后が宗像三女神を特に崇敬せらる故、合祀するとあります。

 福津市の宮地嶽神社の祭神(福岡県神社誌由緒)
 安倍丞相(じょうしょう) 息長足比売命
 勝村大神(藤高麿)
 勝頼大神(藤助麿)


二人の皇子の名に藤がつくのです。
すると、安倍丞相は恐らく藤大臣(大幡主)ではないかと。宮地嶽神社の主祭神は大幡主であり、開化天皇ではないのではと。宮地嶽神社の奥の院の宮地嶽古墳の神紋は大幡主の三笠松紋。
丞相は「相国」であり、総理大臣級なので、高良玉垂宮神秘書では開化天皇は大政大臣としていますし、孝元天皇の大政大臣とすれば、安倍丞相は開化天皇となります。
開化天皇の名は大幡主を隠すとすれば、安倍丞相は藤大臣(大幡主)となります。
大幡主に関する重要神社・大和神社(奈良県天理市新泉町星山306)は日本(倭)大国魂大神、左殿に大物主、右殿に天照大神を祀り、境内社に朝日神社(朝日豊盛神=勝村大神)、高龗神社、事代主神社、厳島神社と祀られているのが説明できません。
宮地嶽神社も「大幡主と天照女神」を隠すために、「開化天皇と神功皇后」は利用されている可能性があります。
これらは他の神社との整合性を見てみる必要がありますが、間違いないでしょう。
 
 
大善寺玉垂宮の生目神社
楼門をくぐると右手奥に生目八幡宮があります。
元宮は宮崎市の生目神社で、祭神は品陀和気命と平(藤原)景清公ですが、八幡応神天皇を祀ることから生目(活目)八幡宮とも称します。「活目」が活目入彦五十狭茅尊(いきめいりひこいさちのみこと垂仁天皇)の名にあることから、古宮の祭神は活目入彦ではとの声がありますが、違います。
古宮で本来の祭神は「イキメ神」です。神紋は「二つ巴紋」です。
「イキメ神」は魏志倭人伝のヒミコ女王(天照女神)の時代までさかのぼります。

大善寺玉垂宮の生目八幡宮

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生目神社 宮崎県宮崎市大字生目345
主祭神 品陀和気命(ほんだわけのみこと)と藤原景清公
相殿  彦火瓊々杵尊、彦火々出見尊、鵜茅葺不合尊

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生目神社の本来の祭神は大幡主を祀ります

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向拝の四本柱は高良神社を想起させます

 

「魏志倭人伝」部分 (NO.64)
末廬國からから東南に陸行すること五百里で、伊都国に到着する。長官を爾支(にき)、次官を泄謨觚(せもこ)・柄渠觚(へくこ)という。千余戸があり、代々王がいたが、かれらは皆、女王国に服属しており、帯方郡からの使者が倭と往来するとき、つねに駐るところである。
これから先は、東南、奴国に至るのに百里。長官を兕馬觚(しばこ)、次官を卑奴母離(ひなもり)という。二万余戸がある。
おなじく、東、不弥国に至るのに百里。長官を多模、次官を卑奴母離という。千余家がある。 また、南、投馬国に至るに水行二十日。長官を弥弥(みみ)、次官を弥弥那利(みみなり)という。五万余戸ばかりがある。
また、南、邪馬台国に至るのに水行十日(または)陸行一月。ここが女王の都するところで、長官を伊支馬(いきめ)、次官以下を弥馬升(みまし)・弥馬獲支(みまかき)・奴佳鞮(ぬかで)という。七万余戸ばかりがある。
(中略)
そして、その南にあるのが狗奴国で、男子を王とし、長官に狗古智卑狗(くこちひこ)がある。この国は女王国に服属していない。

 
魏志倭人伝のヒミコ女王(天照大神) (No.219)
魏志倭人伝のヒミコ女王の時代に、伊都国に長官がおり、「爾支 にき」という。
伊都国は今の糸島地方であり、長官の爾支はニギハヤヒ(山幸彦)であった。
投馬国(つま)にも長官がおり、「弥弥 みみ」という。投馬国(つま)は今の宇佐地方であり、長官の弥弥は天児屋根命(あめのこやねの 海幸彦)であった。
さらにその南、邪馬台国は女王の都する所で、その官(長官)を伊支馬(いきめ)といった。伊支馬は生馬(いきめ)・往馬(いこま)とも呼ばれ、副官は「ヒナモリ」です。現役時代のヒミコ女王を大日孁貴(おおひるめむち)と言いました。後の天照女神です。
往馬(いこま)大社の祭神は伊古麻都比古神、伊古麻都比賣神で、生目神社が古宮で、主祭神は平景清公ですが、本来の祭神は生馬(いきめ)です。

熊襲惣領とは生目神社の祭神、別の表現では生駒神社の祭神です。神社は奈良の生駒山にあります。この生駒神社の前身が生目神社です。
ヒミコのヤマト連合の長官が伊支馬(いきめ)でヒミコの補佐役です。伊支馬は生馬(いきめ)・往馬(いこま)とも書き、大国主つまり大幡主です。

 

往馬(いこま)大社 奈良県生駒市壱分町1527-1
祭神
伊古麻都比古神(大国主=大幡主)
伊古麻都比賣神(天照女神)
追祀
氣長足比賣命(神功皇后)
足仲津比古命(仲哀天皇)
譽田別命(応神天皇)
葛城高額姫命(神功皇后の母)
息長宿禰王(神功皇后の父)
摂末社 祓戸社(瀬織津姫神=天照女神)、水神社、稲荷社、戎神社(大幡主)
北末社 大山祇社、春日社、神明社(天照大神)、仁徳天皇社、豊受比賣社
南末社 月読社、猿田彦社、住吉社、伊弉諾社
その他 観音堂十一面観音(天照女神)
境外末社 高良社、春日社(別院)

都萬神社(つま)  宮崎県西都市大字妻1
祭神 木花開耶姫命
実際の祭神は木花開耶姫でなくて、天照女神と大幡主です
神紋は桜紋、千木は女千木で、祭神は木花開耶姫と思われますが、違います

都農神社(つの)  宮崎県児湯郡都農町大字川北13294
祭神 大己貴命
実際の祭神は大己貴=大幡主です

 
 
高良玉垂宮神秘書 第6条 第7条
記紀で「大幡主」の名称が使えなかったように、高良玉垂宮神秘書でも「大幡主」の名称が使えなかったようです。

 

高良玉垂宮神秘書 第6条
安曇磯良は、筑前国にては志賀明神、日立国にては鹿島大明神、大和国にては春日大明神と申すなり。

 
第6条は明らかにおかしいです。
「安曇磯良」は「大幡主」に置き換えるべきです。

 

大幡主は、筑前国にては志賀明神(綿津見神)、日立国にては鹿島大明神(武甕槌命)、大和国にては春日大明神(武甕槌命)と申すなり。

 
第6条はこれで意味が通じます。
鹿島神宮の鹿島大神は武甕槌命であり、大幡主なのです。
春日大社の春日大神も武甕槌命であり、大幡主なのです。
綿津見神=武甕槌命=大幡主なのです。
第7条もおかしいです。

 

高良玉垂宮神秘書 第7条
皇后の御妹に二人おわします。一人は宝満大菩薩、一人は河上大明神になりたまう。これ豊姫のことなり。

 
神功皇后に二人の妹はおりません。二人が豊姫であることは確かです。
宝満大菩薩は宝満宮の祭神で、豊姫であり、天照女神です。
河上大明神は與止比咩神社の祭神で、豊姫(ゆた姫)とされますが、佐賀県の嘉瀬川谷沿いにある淀姫神社の祭神は豊姫であり、淀姫であり、天照女神です。

佐賀の神埼の櫛田神社に始まり、久保泉、大和町、富士町古湯、富士町上無津呂、長野峠を越えて糸島に出る長野川流域、そして曽根一帯は天照女神と大幡主の領域です。この地域では徹底して天照女神の存在は消されました。大幡主も消されましたが、痕跡が残っています。

「イザナギ・イザナミ」の名は「大幡主と天照女神」を隠すために利用されたように、
「開化天皇と神功皇后」
「安曇磯良と豊姫」
の関係も「大幡主と天照女神」を隠すために利用されています。
祭神がダブって混乱するのです。

「No.206 高良下宮社と川上姫(ヨド姫)を祀るお堂 2022年10月25日」において、川上姫を紹介しましたが、「髙良宮宿禰の神室の加輪髪媛(かわかみひめ)」は「開化天皇と豊姫」の関係と捉えました。しかし、百嶋学から離れて俯瞰すると、「髙良宮の神室の加輪髪媛」は「大幡主(高良宮)と天照女神(玉垂宮)」の関係になるのです。

柳瀬の玉垂宮の祭神は百嶋学と見合わせて「開化天皇と神功皇后」と思って来ましたが、ずっと疑問でした。開化天皇が見つからないのです。柳瀬の玉垂神社で確認できるのは「大幡主と天照女神」です。
詳しくは以降の記事で述べます。