2010年公開のアメリカ映画「インセプション」です。
監督は「ダークナイト」のクリストファー・ノーラン。
レオナルド・ディカプリオ、渡辺謙、マリオン・コティヤールなどの出演によるSFサスペンス映画です。
さぁ、この映画、かなり難解で書くことが多いので長くなりますよ。
映画の中に仕掛けられた数々の謎などを私が好きな映画評論家町山氏の解説を引用して書いていきます。
物語を極簡単に説明すると、他人の夢に入り込んでアイディアを盗み出すという企業スパイのコブが仲間達とある作戦を実行するというものです。
その作戦とは、ある男の夢に入り込み、情報を盗むのではなくインセプション(埋め込み)すること。
映画を観ないと何のことか分からないと思います。
映画を観ても分からない人がかなり多かったらしいですが。
それぐらい難解な作りになっていて、その一番の難解ポイントが「夢の中で見る夢」の存在です。
単に現実と夢の2つの世界があるのではなく、現実で寝て見ている夢の中でまた寝て夢を見て・・・と深層心理の奥深くまで世界は移っていくのです。
この段階の部分が映画の物語の肝になっているので観ながらしっかりと「今は夢の中の夢の中の夢だ」という感じで頭でしっかり理解しながら観ましょう。
この映画は今年のアカデミー賞の撮影賞、音楽編集賞など4部門を受賞しています。
作品賞にもノミネートされ、映画の完成度がいかに高かったかを表しています。
特に映像が恐ろしいほど凄いのです。
夢の中の理不尽さや、不気味なほど現実を帯びた部分などを最新の映像マジックで作り上げています。
スタッフロールでディカプリオの後に渡辺謙の名前が出ますが、本当にディカプリオに次ぐ役といっても過言ではありません。
映画を観るまで「渡辺謙はチョイ役だろう」ぐらいで思っていたのですが、完全に重要なキャラクターです。
ハリウッドのしかもこれだけ注目される大作に日本人の役者が堂々と英語で演技しているのを見るのは嬉しい限りですね。
ちなみに渡辺謙はノーラン監督の「バットマン・ビギンズ」で悪役もやっています。
ノーラン監督お気に入りなんでしょうね、凄い、凄いぜケン・ワタナベ。
さてさて、ではいよいよこの映画の謎の部分の説明を。
映画の中でアリアドネという女性が出てくるんですが、これはギリシャ神話でミノタウロスの迷宮に入っていく勇者に1本の糸を渡し迷わないように手助けをする女性の名前からとっています。
映画の中でも主人公ディカプリオの手助けをし夢の中で迷わないようにします。
次にディカプリオの妻の名前がマロリーなのですが、通称モルです。
このモルという名前はラテン語で「悪」の意味です。
映画の中でディカプリオを惑わす妻を悪として位置づけているのでしょうね。
続いて映画の中で流れる音楽です。
夢から覚める時に流れる音楽としてエディット・ピアフの「水に流して」という曲が使われています。
これはディカプリオの妻役のマリオン・コティヤールが2007年に出演した「エディット・ピアフ」という映画でラストに流れる曲なのです。
そして最後夢の中の夢の夢・・・といった最下層の部分のシーンで低く恐い音楽がバックで流れています。
これは実は「水に流して」の再生速度、レコードでいう回転数を落としまくった状態の曲なんです。
理由は、現実で流れる時間と夢の時間では速度が違うためです。
皆さん夢を見た時すごい長い夢だったのに1時間ほどしか寝てなかったということがよくあるでしょう。
この状態は脳が凄いスピードで夢を構築しているため現実の時間より長く体感しているんですね。
つまり本当の体が聞いている「水に流して」が夢の夢の夢の・・・と落ちていくと再生速度が遅くなり聞こえてくるのがあの低く恐い音楽になるわけです。
って、これ普通に観てて誰が気付くんだろう・・・。
あとこの作品には色んな絵画や建造物が出てきて、それぞれに意味があるのですが。
その1つにフランシス・ベーコンの絵が壁に飾られているシーンがあります。
これを覚えておいて、後に出てくる夢の中でコブとアリアドネの橋のシーンが出てきます。
この橋は「ラストタンゴ・イン・パリ」という映画で妻に死なれた主人公が叫ぶというシーンの場所がこの橋なんですね。
そして「ラストタンゴ・イン・パリ」はフランシス・ベーコンの絵画からインスパイアされて作られた映画なのです。
これを繋げることで、この「インセプション」という映画は「ラストタンゴ・イン・パリ」と同じように主人公が妻に死なれてしまったということを表しているんですね。
普通に観てても気付きませんし、知らなくてもこの映画は充分おもしろいですよ。
で更にですね、ディカプリオがこの映画の前に出演した映画は「シャッターアイランド」と「レボリューショナリー・ロード」なんですが。
この2作品ともに妻に死なれた男を演じているんです。
つまりこの「インセプション」はディカプリオにとって3作続けて妻に死なれた男の役なんですね。
そろそろ「ん?」と思われた人も多いと思いますが、この映画は現実と映画の世界の区別を限りなくあいまいにしているんです。
マリオン・コティヤールの「エディット・ピアフ」の曲を使ったり、ディカプリオの前の出演作とダブらせてみたり。
実際の映画のシーンと同じ場所で撮影してみたり、壁に飾られた絵画だったり。
映画の物語とは関係ないんですが、これがクリストファー・ノーランが仕掛けた最大のトリックなのではと自分は思いました。
自分が今見ているこの映画の世界と自分が今まで見た映画の記憶と、どっちが現実なんだろう。
自分が観た映画の記憶がこの映画の中に現れ、まるで反映されているかのように感じてしまう。
それはこの映画が取り扱った「夢」というものにそっくりで、映画の中で何度も夢に入り夢から覚めてを繰り返す主人公たちのように自分の今は夢なのではなかろうかと錯覚してしまう。
そして映画のラスト、無事家に帰ってきたディカプリオ。
テーブルの上で回すコマのようなもの。
これは夢か現実かを区別する大事なアイテムとして映画の中で語られてきました。
回り続ければ夢、止まってしまえば現実。
回るコマ・・・少しブレながら回るコマ・・・回る・・・止まる・・・どっちだ・・・。
THE END・・・という終わり方です。
さぁ、どっちだ、ディカプリオは無事帰ってきたのか、それともまだ夢の中なのか。
それを回るコマに託しコマの最後を見せないということは、この映画の最初から最後までいったい何が夢で何が現実だったのかすら分からなくなります。
これを書いている自分は本当に現実を生きているのだろうか・・・。
オススメ度84%