お酒の相対性理論@村上龍/クリスマス
まずは、村上龍の「クリスマス」という短編小説からの抜粋
そのワインは、それまでわたしが飲んだワインと比べて酔い方も違った。いく
ら飲んでも神経が鈍くならなかった。酔っているという感覚はあるのだか、頭が
ふらついたり手先がしびれたり饒舌になることがなかった。そういうワインを飲
みながら、あの男がわたしだけに語りかけてくる声を聞き、からだの中で溶けて
いくようにあの男の言葉の意味を理解していく、そういう体験は初めてだった。
その女が休暇でよく友人たちとフランスやイタリアの田舎のオーベルジュへ行くんだと言ったとき、おれはその女は寂しい人だと思った。正確に言うと、寂しい人だと思ったわけじゃなくて、その女が発していた寂しさの波みたいなものを受信したということかな。もちろんその女は実際は寂しい人じゃないかも知れない。おれは単にミーティングで会っただけでその人のプライベートなことは何一つ知らないからな。だか恐ろしいことにそういうときのおれの直感は外れたことがないんだ。人の、甘えと依存と寂しさに関してはおれはほとんど間違うことがないんだ。おれたちはおいしいものを食べるために生きているわけじゃないし、おいしいものを食べたからといって人生が容易になるわけでもない。重要なのは何を食べるかじゃなくて、誰と食べるかだ。おいしいものを食べるよりも、誰と知り合うかというほうが重要なんだ。オーベルジュ巡りは、もう誰とも知り合う必要のない老人がやるものだ。初めて会ったときから今まで、お前からそういう寂しさを感じたことはない。
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読んでいて思ったのが、お酒も誰と飲むかということがすごく重要だな~っていうこと。
確かにお酒の美味しさには「絶対値」があります。日本酒の久保田(純米吟醸)とカップ酒とでは、明らかにその旨さには差があるけれど、機械ではない僕たちにとって、その絶対的なものって時としてあまり重要じゃなくて、一緒に飲む相手によって相対的に大きく変ってくると思うのです。
科学者アインシュタインは、自身の相対性理論を説明するときに、「熱いストーブに手を乗せると一分がまるで一時間ぐらいに感じられるけれど、美女と一緒に居ると一分ぐらいにしか感じられない」 という喩えをしたらしいですが、
お酒も一緒なのでは?嫌なヤツと飲むドンペリよりも、好きな子と飲むスパークリングワインです。
このことを僕は勝手にお酒の相対性理論と呼んでいます。
補記1:
オーベルジュとは「宿泊施設付きのレストラン」の意味らしいです。
補記2:
今回の短編「クリスマス」は龍先生のセンス溢れる文章でしたが、「空港にて」という短編集に収められています。彼の作品では「コインロッカーベイビーズ」と「五分後の世界」が圧倒的に好きです(つまりそれ以外は。。ってこと)
補記3:
もちろん、ひとり酒も好きですが、いいお酒ほど一人で飲むのは勿体無いな~と僕なんか思います。お酒、つまりアルコールの美味しさって多分、どうハッピーに酔っ払うかが大事かも。