天使の声 遠藤未希さん
この度の東日本大震災に伴い 被災された方々に
心よりお見舞いを申し上げるとともに
被災地の早期復旧を お祈り申し上げております
宮城県南三陸町の防災対策庁舎から防災無線で町民に避難を呼び掛け続け、
津波の犠牲になった町職員 遠藤未希さん=当時(24)=が埼玉県の公立学校で
4月から使われる道徳の教材に載る
遠藤さんを紹介する文章は「天使の声」というタイトル。
遠藤さんが上司の男性と一緒に「早く、早く、早く高台に逃げてください」などと
必死で叫び続ける様子が描かれ、「あの時の女性の声で無我夢中で高台に逃げた」と
語る町民の声を紹介している
http://www.youtube.com/watch?v=X8NozIMtWkU&feature=related
「遠藤さんの使命感や責任感には素晴らしいものがある。
人への思いやりや社会へ貢献する心を伝えたい」としている。
遠藤さんの父清喜さん(57)は「娘が生きた証しになる」と話し、
母美恵子さん(53)は「娘は自分より人のことを考える子だった。
子どもたちにも思いやりの心や命の大切さが伝わればいい」と涙を流した。
遠藤さんが防災無線で避難を呼び掛け続けた南三陸町の防災対策庁舎では、
遠藤さんを含む町職員ら39人が犠牲となった。
遠藤未希さんを紹介した教材の要旨は次の通り。
天使の声
誰にも気さくに接し、職場の仲間からは「未希さん」と慕われていた遠藤未希さん。
その名には、未来に希望をもって生きてほしいと親の願いが込められていた。
未希さんは、地元で就職を望む両親の思いをくみ、4年前に今の職場に就いた。
(昨年)9月には結婚式を挙げる予定であった。
突然、ドドーンという地響きとともに庁舎の天井が右に左に大きく揺れ始め、
棚の書類が一斉に落ちた。
「地震だ!」
誰もが飛ばされまいと必死に机にしがみついた。かつて誰も経験したことのない強い揺れであった。
未希さんは、「すぐ放送を」と思った。
はやる気持ちを抑え、未希さんは2階にある放送室に駆け込んだ。
防災対策庁舎の危機管理課で防災無線を担当していた。
「大津波警報が発令されました。町民の皆さんは早く、早く高台に避難してください」。
未希さんは、同僚の三浦さんと交代しながら祈る思いで放送をし続けた。
地震が発生して20分、すでに屋上には30人ほどの職員が上がっていた。
すると突然かん高い声がした。
「潮が引き始めたぞぉー」
午後3時15分、屋上から「津波が来たぞぉー」という叫び声が聞こえた。
未希さんは両手でマイクを握りしめて立ち上り、必死の思いで言い続けた。
「大きい津波がきています。早く、早く、早く高台に逃げてください。早く高台に逃げてください」。
重なり合う2人の声が絶叫の声と変わっていた。
津波はみるみるうちに黒くその姿を変え、グウォーンと不気味な音を立てながら、
すさまじい勢いで防潮水門を軽々超えてきた。容赦なく町をのみ込んでいく。
信じられない光景であった。
未希さんをはじめ、職員は一斉に席を立ち、屋上に続く外階段を駆け上がった。
その時、「きたぞぉー、絶対に手を離すな」という野太い声が聞こえてきた。
津波は、庁舎の屋上をも一気に襲いかかってきた。それは一瞬の出来事であった。
「おーい、大丈夫かぁー」「あぁー、あー…」。力のない声が聞こえた。
30人ほどいた職員の数は、わずか10人であった。
しかしそこに未希さんの姿は消えていた。
それを伝え知った母親の美恵子さんは、いつ娘が帰ってきてもいいようにと
未希さんの部屋を片づけ、待ち続けていた。
未希さんの遺体が見つかったのは、それから43日目の4月23日のこと
町民約1万7700人のうち、半数近くが避難して命拾いをした。
5月4日、しめやかに葬儀が行われた。
会場に駆けつけた町民は口々に
「あの時の女性の声で無我夢中で高台に逃げた。
あの放送がなければ今ごろは自分は生きていなかっただろう」と、
涙を流しながら写真に手を合わせた。
変わり果てた娘を前に両親は、無念さを押し殺しながら
「生きていてほしかった。本当にご苦労様。ありがとう」
とつぶやいた。
出棺の時、雨も降っていないのに、西の空にひとすじの虹が出た。
未希さんの声は「天使の声」として町民の心に深く刻まれている。
■東日本大震災(ひがしにほんだいしんさい)
2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震とそれに伴って発生した津波、
及びその後の余震により引き起こされた大規模地震災害である。
2011年(平成23年)3月11日14時46分18秒(日本時間)、
宮城県牡鹿半島の東南東沖130kmの海底を震源として発生した東北地方太平洋沖地震は、
日本における観測史上最大の規模、マグニチュード (Mw) 9.0を記録し、
震源域は岩手県沖から茨城県沖までの南北約500km、
東西約200kmの広範囲に及んだこの地震により、
場所によっては波高10m以上、最大遡上高40.5mにも上る大津波が発生し、
東北地方と関東地方の太平洋沿岸部に壊滅的な被害をもたらした
2011年(平成23年)12月2日時点で、震災による死者・行方不明者は約2万人、
建築物の全壊・半壊は合わせて35万戸以上、ピーク時の避難者は40万人以上、
停電世帯は800万戸以上、断水世帯は180万戸以上に上った。
政府は震災による被害額を16兆から25兆円と試算している
警察庁は、2011年12月22日現在、死者は15,843人、重軽傷者は5,890人、
警察に届出があった行方不明者は3,469人であると発表している(ただし未確認情報を含む)。
日本国内で起きた自然災害で死者・行方不明者の合計が1万人を超えたのは戦後初めてであり、
大津波や大震動に襲われた青森県から千葉県までの太平洋沿岸を中心に、
1都1道10県で死者・行方不明者が、また1都1道18県で負傷者が発生した
警察庁は岩手県・宮城県・福島県で検視された13,135人の詳細を発表した。
検視を終えた遺体は男性5,971人、女性7,036人
死因 水死: 92.5%(12,143人)
圧死・損傷死: 4.4%(578人)
火災による焼死: 1.1%(148人)
死因不明: 2%(266人)
年齢 80歳以上: 22.1%(2,454人)
70 - 79歳: 24%(2,663人)
60 - 69歳: 19.1%(2,124人)
9歳以下や10歳代、20歳代はいずれも4%以下だった。
今回の震災での犠牲者の死因の殆どが水死であった理由として、
津波がその大元にあることは言うまでも無いが、
犠牲者を増やした因子として、津波の中に含まれた大量の砂と海底のヘドロ、
港湾施設の重油などの有害物質が挙げられている。
通常の海水であれば、多少飲み込んだとしても人体の組成成分に近いこともあり、
それが原因となってすぐに命の危険に晒される訳ではない。
しかし、砂が肺に入れば気管を詰まらせ、有害物質は身体を侵し、
津波に抗う体力を急速に奪ってしまう
このようにして侵された肺は、生還した後もしばしば「津波肺」と呼ばれる肺炎を引き起こし、
さらに新たな犠牲者を生む
一方、約90%が倒壊した家屋や家具の下敷きによる圧死であった阪神・淡路大震災と大きく異なり
、最大震度7を記録した宮城県栗原市では一人も死者は出なかった
岩手県・宮城県・福島県の沿岸部では、津波によって多くの住宅が流され、
全壊戸数は宮城県で8万2,697戸、岩手県で2万0,184戸、福島県で1万8,990戸
(いずれも12月12日現在)にのぼった。