追悼 ディック・スレーター | ケン・マツモトの「この素晴らしき世界」

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ディック・スレーターが今月18日(現地時間)に心臓病で亡くなったそうだ。

 

スレーターの日本での絶頂期は、昭和55年の第8回チャンピオン・カーニバル(CC)でジャンボ鶴田と決勝戦を争った頃だと言われる(ジャンボが初優勝し、スレーターは準優勝。)。このときのCCにはファンク一家の若手として似た立場にあったテッド・デビアスも出場していたが、スレーターの方が格上の扱いを受けていた。

 

ちょうどこの頃は私がプロレスを見始めた時期に当たる。私が初めて買ったプロレス雑誌である『デラックス・プロレス』の昭和55年7月号に第8回CCの記事が載っていたのを覚えている。当時小学3年生だった私の地元では全日の中継は深夜枠だったため、全日のレスラーをすぐにテレビで見ることはなかったが(ちなみにその年の夏休みにミル・マスカラス目当てで初めて夜中まで起きて全日中継を見たのだが、眠すぎて途中で寝てしまったらしく、翌朝覚えていたのはプリンス・トンガが登場した最初の試合だけだったのも懐かしい思い出だ。)、スレーターに関しては雑誌などの情報だけでファンになり、いわば私の中での「まだ見ぬ強豪」の筆頭だったと言ってもよいだろう。

 

実際、この頃のスレーターは日本のファンに人気があり、ベースボール・マガジン社から出ていた『プロレス・アルバム』シリーズでもスレーターはけっこう前の方の番号で出ていたはずだ(デビアスの『プロレス・アルバム』はなかったのでこの点でも差がついていた。)。

 

最初にテレビでスレーターを見たのがいつかというのははっきり覚えていないが、昭和57年の世界最強タッグ決定リーグ戦にハーリー・レイスとのタッグで出場したときの試合は間違いなく見た記憶がある(当初レイス&ジミー・スヌーカ組の予定だったがスヌーカの代打でスレータ―出場。)。順位こそファンクス、馬場&鶴田組、ハンセン&ブロディ組の後塵を拝したが、このチームは大変魅力的なチームだった。

 

長年疑問だったのは、なぜ一時期全日の外人の中で次期エース候補ナンバーワンだったスレーターがある時期からパッとしなくなったかだ。Wikipediaを見ると「1981年の交通事故後は精彩を欠き始めトップ戦線からは脱落していった」という記述がある。この「1981年の交通事故原因説」は比較的よく聞く説明のように思うが、本当にそうなのか。

 

今はYouTubeで昔の試合の映像を見ることができるが、1981年の前後でスレーターの試合ぶりにそれほど落差があるようには思われない。実際、上記の昭和57年の最強タッグ決定リーグ戦も交通事故後だが、ハンセン&ブロディ組と対等に渡り合っている。

 

推測するに、昭和56年春までの全日ではヒールとしてブッチャー軍団がおり、ファンクス対ブッチャー軍団が大きな看板の一つだった。昭和55年当時のスレーター推しの背景には、近い将来のテリー・ファンク引退を見据えてテリーに代わってブッチャー軍団と対決する白人ベビーフェイスを育成する必要があったのではないだろうか。

 

ところが、昭和56年春にブッチャーが新日に移籍し、それに代わって年末にハンセンが新日から全日に移籍したことから、昭和58年のテリー引退まではザ・ファンクスとハンセン&ブロディの「新鮮な」抗争が中心となる。そして、日本陣営では天龍が急成長を遂げたため、テリー引退後はハンセン&ブロディ対鶴龍コンビで行ける目途がつき、特にテリーに代わる白人ベビーフェイスを用意する必要もなくなったし、日本陣営と敵対する外人サイドのエースとしてもスレーターより身体が大きく旧エースのザ・ファンクスとの直接対決を通じて実力を証明してきたハンセン&ブロディ(ハンセンに至っては馬場のライバルである猪木にも勝ったことがある。)の方が適任という判断があったのではないだろうか。

 

また、人気絶頂の頃のスレーターには「次期NWA世界王者の有力候補」という肩書がついていた。NWA世界王座を至高の価値とする当時の全日では特に大きな意味のある肩書だが、本国の米国においても、1981年にはリック・フレアーが初めてNWA世界王者につき、レイス時代からフレアー時代への世代交代が始まっていたので、その頃にはもはやスレーターは「次期NWA世界王者の有力候補」でもなくなっていたのではないだろうか。

 

これらはファンの身贔屓による勝手な推測に過ぎないかもしれない。しかし、スレーターがトップ戦線から脱落したのは、交通事故をきっかけに本人の実力が落ちたというよりはむしろ周囲の状況の変化によるところが大きいのであり(もちろん運も実力のうちとも言うが。)、スレーターは終始「精彩を欠く」ようなことはなく、いいレスラーだったというのが私の説である。実力があり、成功のチャンスも目前にしながら、残念ながら超一流と言えるほどの実績まではつかめなかったところも私好みのレスラーだった。「喧嘩番長」のご冥福をお祈りします。