アマプラで前科者を見ました。剛くんの演技も、有村架純の演技もよかったし、徐々に明かされる登場人物の過去という流れにも引き付けられました。
とはいえ、号泣してのめり込めたかというと、そうではありません。
観ている間、ずっと違和感がつきまとっていたからです。
実は、見終わってすぐにすごく長い時間をかけて感想を書きました。一応書き終わったんだけど、UPする気にならなかった。
しばらく放置していたものを読み返して、また書き直しているうちに、なぜ違和感を感じたか、はっきりしました。
以下、盛大にネタバレを含みます!
一言で言うと、私のジェンダー感覚に引っかかったんですね。被害に遭った女性の心理を軽視していると感じたんです。これは男のためのファンタジー映画か?と思った。
ラスト、感動の場面ではありましたが、前科者の男を抱きしめて恋人でもない若い女が「いつでも私を頼って」なんて、もはやファンタジーでしょ。これ、男にとって都合が良過ぎる。
いや、このシチュエーション、間違いなく工藤は阿川先生に惚れちゃうよね?阿川先生、そこ織り込み済みですか?それとも、このふたり、ただの前科者と保護司の関係越えちゃった感じ?←下世話な脳みそ、やや混乱。
味方のいない男に優しくすると、ほぼ間違いなく惚れられるんですよ。そんなことは女ならみんな自覚しとります。
凶悪犯罪者には男が多い。性被害者の多くは女子供。不審者に対する警戒レベルや嫌悪感には、ジェンダーギャップがあるでしょう。
前科者の男性に寄り添う保護司という立場は、若い女性にとって最もハードルの高いものです。相手が性犯罪者なら心理的にムリだろうな。保護司は前科者を選べるのだろうか。
だから、かつて被害者でもあった若い女性が保護司をするという設定そのものが、被害者や女性の目線を軽視している(ちゃんとその人達の感情に向き合っていない)という印象を受けたんです。
中学生のときに暴漢に襲われる(しかも目の前で人が殺された)という経験をしたら、特に男性の犯罪者は彼女にとって恐怖や嫌悪の対象でしかないでしょう。
しかし、彼女はその恐怖や嫌悪の感情を乗り越え、よりによって警察ではなく保護司の側として生きる道を選ぶ。
んなわけあるか‼︎
通りすがりの女子中学生にバカにされたと勘違いして殺そうとする男って、もう女にとってはキモい!怖い!しかないでしょ。(このシチュエーションって、駅で自分を笑った女を殺したヒメアノの森田と似てる。)
話は逸れますが、つくづくヒメアノの剛くんはよかった。(←思い出した)
ピュアと狂気がないまぜになった殺人鬼森田。それは工藤よりもうんと受け入れ難い非人間的な男で、全く共感も理解もできないのに、それでも、リアルな傷ついた犯罪者としてスクリーンの中に存在していました。
閑話休題。
「寄り添う人がいたらあの人も罪を犯さなかったかも」って、それはそうかもしれないけど、「じゃあ私が」ってなる⁇(前科者がみんな剛くんなら保護司は抽選かもれんが)
寄り添うのは、被害経験の無い方、惚れられても困らない方にお願いしたい。と、私が彼女なら思う。
主人公が保護司になった経緯は、一見理に適っているようで、実は説得力がない。それは、犯罪被害に遭った女性の心理をすっ飛ばしてるからなんじゃないかと思いました。
それから、この映画を見ている間、ずっと思っていたことは、犯罪被害者や遺族の方たちは、この映画をどんなふうに観るだろう、ということです。
主人公が保護司になるきっかけとなった、「諦めるな」という言葉。
それは、命がある者に対してのみ言えるもので、もはや人間として生き返る機会を完全に奪われた被害者や、諦めることを強いられた遺族にとっては、酷な言葉です。
加害者が実は被害者でもあったというのはよくある話で、同情の余地もないわけではない。社会にも問題がある。
この映画に限っては、工藤や弟は可哀想だし、被害者は悪人。でも、世の中には無差別殺人というのもありますからね。
殺された人はやり直すどころか生き返ることすらできないのに、殺した人は人生をやり直せる。その圧倒的な不公平感をどうしたらいい?
その不公平さと折り合いをつけられない限り、殺人を犯した前科者に対する社会の厳しさは変わらないんじゃないんだろうか。
加害者の更生を含めた犯罪の予防が社会の問題として提起されるとき、じゃあ起きてしまった犯罪については?被害者や遺族の救済についてはどうすれば?と問いたくなる。
社会にとっては予防が大事だけど、遺族にとっては、それは第一義ではない。