彼女はまだ意識が戻らないけど、夫の方は奇跡的に回復した。
「幸…飛行機が堕ちるとき…俺…お前と子供たちが乗ってなくて良かったって…思った…」
「夫婦喧嘩して良かったってこと?」
「お前が直情径行型の女で良かったってこと」
「あなたが浮気者でよかったってことでしょ」
「ばか。…幸…ごめん…。俺…死んだ方が良かった?」
「ばか…。なんでそんなこと言うの?」
「だって…」
って夫が寂しそうな顔をした。
ずっと寂しい思いをしてたのは、お互い様なのかもしれない…。
「ねぇ…何か欲しいもの、ある?」
あなたの好きな食べ物。聞きたい音楽。
なんでも持って来てあげる。
「幸…」
って夫が手を差し伸べた。
「なに?」
その手を取って、顔を寄せる。
夫の手がそっとあたしを抱き寄せた。
あたしは夫の胸に耳を当てた。
トクトクトク…。
「…生きてて…よかった…」
夫がしみじみとそう言った。あたしも、同じ思いだった。
だけど…
自分だけ喜ぶわけにはいかなかった。
自分がキャンセルした席に健ちゃんの彼女が座ったことは…一体、どんな運命のいたずらなのか…。
健ちゃんが夫の病室にお見舞いに来て、
彼女が生きてることを救助隊に知らせてくれてありがとうございましたと、深々とお辞儀をした。
健ちゃんが病室を出たあとで、あたしは健ちゃんの後を追いかけた。
「…健ちゃん…」
健ちゃんの方が泣きたいに決まってるのに、あたしが泣いたらダメだと思って必死に涙をこらえた。
なのに、健ちゃんが優しくあたしを見つめて、そっと肩に手を置いたから、
あたしは堪らず健ちゃんに抱きついて、ワッと泣き出してしまった。
「ごめんなさい…っ…ごめんなさい…っ」
「なぁんでさっちゃんが謝んだよ」
あたしの背中をあやすように叩いて笑いながら言った。
「健ちゃ…ぁあん…っ」
あたしは、大好きな健ちゃんの幸せを、誰よりも願って来たんだよずっと…。
なのに、あたしのせいで…。
「さっちゃん…。いい子だね…さっちゃんは。…って2人の子持ちのママに言うセリフじゃないよね?」
「健ちゃん…ほんとに、彼女と…結婚…するの?」
意識が回復する確率は低い、そう言われていた。
「あ。なんだ。それで泣いてたの?」
って健ちゃんが眉尻を下げて、あたしを指差して笑う。
「なんだよ。自分はあんなイケメンと結婚してるくせにさ、俺が誰かのものになんのは嫌なんだ」
って腕を組んであたしを上目遣いで睨んだ。
「ち、違うよっ」
「違うか。俺の方がイケメンだよな確かに」
って顎をさすってニンマリ笑う。
「そこ?」
ってあたしがつられて笑うと、ふいに健ちゃんの手が伸びてきて親指であたしの頬の涙を拭った。
「笑ってろよ。さっちゃん。絶対その方が可愛いから」
「健ちゃん…」
ダメ…。また泣きそう…。
健ちゃんがふいに腕を組んだまま俯いた。
長い前髪に隠れて、表情はわからない。
健ちゃん…。
意識の戻らない彼女の寝顔を見ながら、どんな思いでいるの?
何度も記憶の中の彼女の笑顔を再生してるの?
兄貴か誰かに…弱音は吐けてる?
「…これから…役所行くんだ」
って健ちゃんが顔を上げた。
それから、あたしに向かっておいでって両手を広げた。
「独身最後だからさ」
って笑った。
あたしは、健ちゃんの胸に飛び込んだ。健ちゃんがギュッと抱き締めてくれて、あたしも健ちゃんにしがみついた。
「明日からは浮気になっちゃうからな」
「…あたしは?」
「え?」
「あたしは独身じゃないんですけど」
「あ。そっか!」
って素っ頓狂な声を出すからあたしは思わず笑ってしまった。健ちゃん可愛い。
しばらくハグして、それから…
「じゃ…行くよ…」
って健ちゃんがあたしを離した。
にっこり笑って、後ずさりながらあたしに手を振る。
あたしは、いったいどんな顔をしていたのだろう。
健ちゃんが、ウィンクして片手を唇にあて…チュッてキスを投げてくれた。
「バイバイ。行ってきます」
「行ってらっしゃい」
バイバイ。大好きな健ちゃん。
…こうして、この日、
健ちゃんは長い独身生活に終止符を打ち、生涯の伴侶を得た。
健ちゃんに微笑みかけることも
健ちゃんに声をかけることも
「健ちゃん」
と名前を呼ぶことすらない
…生涯の伴侶を。