秀樹のバックバンドは永尾公弘とザ ダーツ(11名編成ジャズバンド) 1973年〜
ヒデキがデビューした頃の楽しい伴奏時代のエピソードです 是非ヒデキを思い出していつまでも応援してあげて下さい ひとりでも懐かしく楽しんで読んで頂ければ幸いです
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当時秀樹の他にこのバンドはザ ピーナッツさんアイ ジョージさん岩崎ひろみちゃん等々の専属でもあり大変忙しいバンドでした
秀樹が18才の頃でデビューして少したってからの時代です
彼がまだ売り出し中の頃で全国ツアーに良く行きました、
当時秀樹のマネージャーH氏がステージでギターを弾く時があり、歌っている秀樹をファンが引っ張って客席に落ちた時はすぐギターをやめて秀樹を慌てて助けに行っていました・・・・爆笑
この時代は(1973年)地方によってはアイドルの公演は観に行っては行けないと言う学校も沢山ありビジネス上色々プロダクションは試行錯誤していた時でした
それでも学校の決まりを無視して会場に詰めかけてくれた沢山のファンがいたのです・・・・
当時小学生・中学生・高校生が中心で、たまに成人女性も見かけました 当時男性ファンは来られてなかった様に思います
多分この時のファンの方々は今50代60代になられたでしょうね
とにかく秀樹は若さあふれ疲れ知らずの年頃でステージを走りまくってのライブでした・・・
力あまって良くステージで転んでました…もうなんでもありの時代で全力・絶叫型でした
ファンの声援も声が束になってステージに飛んで来る感じで凄いのひと言でした
バックバンドはビデキのその凄いスタミナに必死でみんな演奏していました
一部終ったら楽屋で大の字になって僕なんかヘロヘロになって死んでいました(笑)
そして1時間30分後は又2部のステージで一部と同じ事を演奏するので気合い入れないと途中でヘタるので大変だったです
6〜7人のBMバックダンサーもずっと一緒で、ツアーに出ると彼女達のステージ衣装が汗でびしょびしょになるので公演終ってホテルに着くなりみんな衣装を工夫して乾かしていました
僕らも同じでホテルに着くなり即洗濯が始まる訳でして・・・笑
秀樹にツアーの時良く下着(パンツ)を頂きました 「ハイ ジャッキーお疲れ様」って・・・笑
一部のステージで出演者は熱演の為、滝にうたれた様に汗びっしょりになっていたので・・・
■劇場
浅草国際劇場・新宿コマ劇場・有楽町の日劇・・・等々
当時国際劇場では恒例のレビュー「夏の踊り」の終った時でステージはその夏の踊りに使用した大きな滝があり秀樹はその滝にうたれて「とどかぬ愛」を熱唱してエンディングの構成でした
この時劇場では映画「愛と誠」を上演していました
この劇場出演の少し前にバンドからダンサーまで軽井沢で3日間合宿があり全員童心に戻って楽しみました
秀樹先頭で全員レンタ自転車借りて軽井沢の山の中を競争したり地元の方々とコミュとったり合宿場で夜秀樹達とトランプやったりカレー食べたりして楽しんでいたのです
この時は音楽プロデューサーとしてチャッピー(元ワイルドワンズのキーボード)が担当していて常に二人は構成を練っていたのです 秀樹もがんがんチャッピーに音楽の意見を言っていました
当時マイクパフォーマンスでは出来るだけ軽くて小回りがきくマイクをスタッフと色々考えていました
包帯をマイクにぐるぐる巻きにしたり・・・マイクスタンド台を取って変わりの物を付けたり等々・・・
又この一週間の国際劇場ライブの時に僕らのバンドの中に入ってギターの芳野藤丸君がゲストプレイヤーとして演奏していました 彼はまだこの時は無名でしたが、その後秀樹のバックバンドとして又自己のバンドSHOGUNでも活躍されました
■ヒロイン オーデイション
映画「愛と誠」の愛役のヒロインのオーディションを銀座三越デパートの屋上で開催この時も秀樹は数曲歌うのでバンドも出演しました
審査員の秀樹とか、原作者の梶原一騎さん等々の5〜6人が審査されていましたが後の方はどういう方が審査されていたかは覚えていないです
バンドの前にずらり10代の女性が水着姿で数十人並んだ時は秀樹の伴奏していて良かったと、この時だけは思いました・・・笑
そして残念ですが若くしてこの前お亡くなりになられた早乙女愛さんが抜擢されたんです
審査終了後楽屋で早乙女ちゃんに「おめでとう」・・・良かった・・・って握手しました
手をにぎりたいだけだったんですが・・・笑
又国際劇場とか色々な会場に彼女はたまに顔出していました
■リサイタル
1973年郵便貯金会館にて 「ヒデキ・愛・絶叫」 リサイタルより
下の音源はYouTubeにどなたかがUPされたものをお借りしてます
当時のリサイタル音源です
このリサイタルには数十名のストリングスをはじめ10名以上のコーラスとダンサーと当時のトップスタジオミュージシャンも参加、トランペットに羽鳥さんトロンボーンにチャンピオン等々の面々を向かえての40名以上の演奏者で超贅沢なリサイタルでした
リハをしっかりやっていざ本番でしたが・・・所が本番に大ハプニングがあり幕が上がると同時にすさましい声援が起こり何も聞えない状態での演奏だったんです
ヒデキも勿論バンドの音は聞え辛い状態で歌ったと思います
やはり歌とバンドがずれる所も出てきたんです・・・
今はかえってこれがお宝でしようね・・・ライブの醍醐味
演奏する所はオケボックス(ステージの前の所)だったのでダイレクトにファンの声援が直接聞えて凄い感じになったんです・・・
声援もそうですがファンから物も飛んで来てそれを避けながらのステージでした
録音用のマイクには物が絡み倒れるとか・・ハプニングの連続のリサイタルでした
レコードをあとで聞くとドンッ とかゾリゾリなんて聞えてます・・・笑
曲目
1)ラブ
2)イエスタディー・ワンス・モア
3)アイ ビリーブ イン ミュージック
4)孤独の太陽
5)シー ラブス ユー
6)ラブミー テンダー
7)クレイジー ラブ
8)カトリーヌ
9)トライア リトル テンダーネス
10)愛は限りなく
11)ちぎれた愛
12)恋する季節
13)恋の約束
14)チャンスは一度
15)情熱の嵐
16)青春に賭けよう
17)愛の十字架
18)とどかぬ愛
19)君を忘れない
特に9曲目の「トライア リトル テンダーネス」の曲は前半超ベリースローで非常に難しいテンポですが秀樹はその難しい作品をお見事に歌い込んでいます
この歌は当時トムジョーンズも歌ってますがアレンジもトムとほとんど同じアレンジでした
18才の若さでこの様な難曲を選ぶ事も秀樹自身洋楽には自信があったんでしょうね
今の18歳くらいのジャニーズ系の歌手でこの様な作品は多分歌えないと思いますが・・・・
このリサイタルでの、秀樹の歌は前半じっくり語り口調の作品が多いです・・・又彼自身ファンに訴えかける様に実にお見事に歌っています
それから18曲目の「とどかぬ愛」も同じくスローナンバーを絶叫しての熱唱です 途中からは号泣しての歌唱になって行きました
元々海外の作品ですが彼は自分のオリジナルのように素晴らしく歌っています
この作詞は千家和也さんでアレンジは渡辺茂樹君です なかなか聴かせ処のツボを得た編曲です作詞家も作詞冥利に尽きる程のヒデキの歌唱だと思います 他の歌手はヒデキの様に心から魂の叫びを歌ってくれないと思います 無垢な18歳のヒデキだから出来たんでしょうね
この頃音楽アドバイザーとして又アレンジャーでもいつも一緒だった元ワイルドワンズのチャッピー事渡辺茂樹君が担当していてヒデキと作品の事を熱心に打ち合わせしていました
■ 野外ステージ
富士急ハイランドとかよみうりランド等々の野外ステージも当時積極的にこなしていて 又ほとんどが真夏のライブだったので色々ハプニングが起きました・・・
例えばヘリコプターの縄梯子からステージに降りて歌う予定が強風の為急遽変更して飛行場に一旦帰るとか・・・(笑)
同じ時期に野口五郎ちゃん郷ひろみ君の伴奏も沢山テレビ局でやっていました
「とどかぬ愛」 歌詞を紹介します 作詞 千家和也 編曲 渡辺茂樹
長い夜がやがてあける
人の声が外を通る
俺の胸にお前の手を
当ててお聞き愛の叫びを
何故分からぬこの気持ち
何故届かぬこの愛が
Que Je Tame 〃 〃
遠い鐘がやがて明ける
人の声が外を通る
涙をふいてお前は今背中を向けて
服を着がえる
何故分からぬこの気持ち
何故届かぬこの愛が
Que Je Tame 〃 〃
名前さえもおしえあわず
ただの一夜過ごしただけ
なのに古い昔からの
恋人たち そんな気がする
何故分からぬこの気持ち
何故届かぬこの愛が
Que Je Tame 〃 〃
庭に咲いた花も見ずに
バスの走る通りに出る
広いツバの帽子かぶり
泣いた顔をエリにうずめて
何故分からぬこの気持ち
何故届かぬこの愛が
Que Je Tame 〃 〃
何故分からぬこの気持ち
何故届かぬこの愛が
何故分からぬこの気持ち
何故届かぬこの愛が
Que Je Tame 〃 〃
以下繰り返し・・・ヒデキ後半号泣してのステージでした
ドラム
吉川憲 (ken-ken) blog管理人