わたしのでき方~父のこと~

今回は父のこと。
父は昭和の16年、青森生まれ。
姉二人、妹二人に挟まれてる真ん中長男。
もう一人お姉さんがいたらしいけど、小さい時に亡くなってるみたい。

祖父は校長先生やってたり、町長さんやったりしてたみたい。(私が生まれて間もなく亡くなってるので私は知らない人)
そして、祖母も学校の先生。ずっと働いていたらしいので父はお姉さんに育てられたと言ってた(気がする)
父とは関係ないけど、祖母は第一回日本母親大会という会に参加してた写真が先日出てきて、うーん、おばあちゃんの思いがいますか私にもあるのかと思ったくらい。

父方は学校の先生をやってる方が多い家系でした。

祖父母共に厳しかったと聞いたことがある。

ただ、初めての長男、しかも男の子一人となったら時代的にはとっても喜び、愛されてたのではないかなと思う。
坊ちゃんだったと思う。(娘目線)

何でも自分が仕切りたがったし、 
言うことを聞かせようとしてた。
ただ、頼まれれば断れないというところもあったみたい。
悩みがある人のところには夜中でも飛んでいったりとか、会社の若い人をよく家に泊めてたりした。

あー、それと頑固。1度決めたらテコでも動かない感じ。

野球が大好きで、甲子園目指してたと。
でも大怪我をして断念。
そこから多分スポーツ新聞の記者になる思いになったのではないかと推測。
父は野球は年取ってもずっとやってた。
会社退職後は審判の資格も取るようなこともしてたかと。
ずっと巨人ファンで、小さい頃から父がお休みの時のよるのテレビは有無を言わせず野球だった。(子供時代は嫌だったな…)

実際に巨人軍担当の記者になり、今監督の原さんが入団する時代で、凄い花がある時代だったのではないかな。
王さんとも仲良しで。

ただ、そういう方たちと常に一緒に行動し、情報を得て、スピードで記事にしていくって、今の私からみたら凄い大変だったのではないかと思う。時間もない仕事。

凄いね根性の人でもあると思う。

父も大変だけど、母も大変。
冬のキャンプから始まってシーズン終わりまでほとんど家にいないから、一人子育て。
これは母の70歳のお誕生日の時に父から「申し訳なかった」という言葉があったな。

父は遊びの天才で、色々教えてもらった。その遊びの時間は大好きだった。 

家にはあまりいなかった父だけど、父の影響は、もろ色濃く受けてる私。

父が亡くなった時、自分の半分が無くなった気がして、あー、私は父からできてたんだと思った。

そして、亡くなってからの方が強く感じる父のこと。

この父との関係性を次回は詳しく書いていきますね。



ぜんけ けい

尊厳ファミリーリライズプロジェクト
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