こんにちは。
以前から書いてますが、【判断基準に観点固定】の問題って、知ってますか?

最近これが、やっぱりだいもんだいでもあり、でもこれがあるからこそ進化できるんだと思うことあったので、書いていきたいと思います。

人は産まれた時にはなにも規定を持たず産まれて来るわけです。

その規定を作るのが言葉。
ママから始まってこれは何、あれは何がでてきて、それに対して意味付け、価値付けがあり用途が決まってくるわけです。

日本人であれば日本語を覚え、
そこでコミュニケーションをとるわけです。

そして、その間に考え、感情がつながってくる。

たとえば目の前の犬。
初めは周りの人から「あれはわんわんよ。」と規定されます。
4本足で立つのがわんわんとイメージで記憶する。
だから、最初はどんな動物みても「わんわん」

そのうちに猫を見て「にゃんにゃん」と規定される。

よくみると、わんわんとの違いがある。

そう、この違いをとってそれぞれに名前をつけて規定する。

で、もうちょっとすると、その名前をつけたものと関係するようになる。
わんわんにさわるとしっぽふる。可愛い。
わんわんに手出したら噛まれた。怖い。
にゃんにゃんにさわろうとしたら、逃げられた。寂しい。
にゃんにゃんが高いところへ登った。格好いい。

こんな風に人それぞれの関わりから、考え、感情がつけられ、一度つけられたイメージはパターン化していくから、そのものみた瞬間にふっと思う。

犬見て可愛い。
犬見て怖い。
猫見て寂しい。
猫見て格好いい。

出会った人にもそう。
人をみた瞬間に自分の過去の思いと結びつけて、この人こんな人。だから大好き。だから嫌い。と思ってしまう。

同じもの、同じ人、同じ言葉を見ても、人それぞれのイメージがあり、無意識にそれが絶対と思い込んだ状態で、色々なものと関係を築いているんですね。

自分のイメージ絶対と思ってる二人が出会おうとすると、多くの日本人が相手の言うこと受け入れようとして本当は違うのと思いながら、自己否定し、相手にあわせてしまい、ストレスになるということ繰り返します。


だから、コミュニケーションに当然ズレが起きるんです。


誰かが生み出した言葉に、自分だけの勝手な背景つけて、それを絶対と思ってる。またはその背景あることに気づかずに、そのまま相手に反応してしまって、なんかスッキリしない。

何にも無かったところから、判断基準を作り出し、でもそれを意識化できず、同じパターンを繰り返す判断基準に観点固定してしまい、一人の世界を繰り広げてる。

でも一人では寂しいと思うから、出会おうとする。

けど、そこにはズレがあるから、スッキリしないし、傷つくも傷つける恐怖もあるし、怒りも生まれる、悲しみも生まれる。

出会いたいのに、敵をつくってしまう感じで、ほんと悲しい。

この【判断基準に観点固定】問題。次回はもうちょっと詳しく書いていきますね。

心共育コーディネーターのkeiでした。



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