久々のお天気。
ひと部屋やっとお掃除できました。
今日はうちの様子から。
相変わらず、3人が学校を休み、それに乗じて3男も保育園休んでます。
長男に聞いてみました。
「学校休んでゲームばかりしていていい感じ?」
「うーん、いいとは思ってない。」
心から楽しいようではなく、でもいえにいるとゲームしかする気になれないらしく
それしてるみたいです。
「楽しくない」
これが問題だと思います。
そう、次男も長女も家にいても、楽しそな感じはするんです。
苦手と思う人(次男の場合、家族以外全員という気はします)や場所の中には絶対に
行かないという決断を小さい頃からしています。
特に次男はお兄ちゃんが家にいるようになってから
話相手ができたので元気倍増なかんじします。
長女は自分で楽しみ見つけるタイプなので、自ら選択し何かしらして楽しんでます。
今日はさっきお友達が来て遊びに行きました。
三男は保育園お休みでき、お兄ちゃん達と遊べて、一番元気いっぱい、楽しさいっぱいです。
とりあえず、自分のいもちに正直だといえばものすごく正直んなんです。
でもね、長男だけは心から楽しめてないんです。
私としては、学校へ行く行かないより、そこのところが気になります。
学校へ行く行かないの自分の中での迷い。
今までの生活、人に合わせることが多かった長男。
多分無意識に私にも気を使ってきてた。
自分の意思で何をどうしていいかわからないのかもしれない。
人間自分自身のことってほかの人と比較して、見てることが多いと思います。
親にこう言われた、友達にこ言われた、先生にこう言われた。
ほかの人見て、こうあるべきかも、こうやるべきだ。
こんな性格かも。こんな人になりたい。でも自分はこうかも。
そんな自分に○×つけて、結局自分はなんだかわからない。
正直な気持ちが見つからに状態。
自分がなんだかわからないのに、心から楽しめるはずないかなって思います。
人それぞれ判断基準を持ってる中、自分に正直に生きるってかなりの勇気がいると思います。
それでなくても、小さい時から、集団にわせることを良しとされている日本の教育。
個の気持ち、意見が通りにくい。
子育てにしても、先生にしても、社会の判断基準だったり、個人の判断基準に合わせて、
子供を育てようとするので、子供は自分の判断基準ンと上からの判断基準のなかでそうとう戦っていると思います。
人が本当に心から輝けるようになるための教育。
それにはまず、この判断基準をゼロ化っせることが必要出し、その判断基準を作り出す人間そのものがなんなのかを知ることが必要と思います。
人間が人間を支配するために行われて来た教育。
これを打ち破るには判断基準に観点固定されてることを知ること、
その観点を移動上昇できるようになること、
本当の人間がなんのか知ること、
人間と人間がともに無限の可能性を開花させることができることが必要です。
人間の尊厳性そのもの教育。
それを主流にしていきたい。