戦後、アメリカに占領されてたのは沖縄だけではなく、奄美大島や小笠原諸島もそうでした。
その占領中の話で、昨日書いた「14歳の二等兵」の続きになります。
では、どうぞ。
中部地方にある大学に入った年の秋、父が亡くなったという便りが田舎から届いた。
僕は日本人だが、アメリカからの留学生という身分になっているので、勝手に奄美には帰れない。
文部省に帰省願いを出すも、いつまで経っても返事が来ない。予算が下りないのかもしれない。
仕方なく、春休みになるのを待って、僕は鹿児島の姉の家まで行った。
しかし、どうしたもんか。簡単に奄美大島に行けるはずもない。
策もなく、とりあえず港に行くと、偶然友人に出会った。
「お前はパスポートを持っているんだから、黙って船に乗り、出航したあと事務長に申し出て運賃を払えばいいんじゃないか」
それはいいアイデアかもしれない。僕は荷物を取りに戻った。
乗船するのは大きな貨客船。黒い船体に白い客室。真ん中の大きな黒い煙突には白い二重線が水平に描かれている。
僕は友人の荷物を運ぶふりしてそのまま三等の雑魚寝部屋に居座り出航を待った。
無事に船は港を離れたが、そう都合よく事は運ばなかった。
奄美に近づいた翌朝、事務長に話をしたが、厳しい顔で言われた。
「パスポートを持っていても、出入国管理庁のサインがなければ密航だ。名瀬(奄美の最大の街で港があり、実家もある)に着いたら警察に引き渡すから、部屋で待機しておれ」
友人にそのことを話すと今度はこうアドバイスしてきた。
「トランクは俺が持ってってやるから、お前は沖仲士(港湾労働者のこと)に紛れて下船するんだ」
入港20分前にボーイが呼びに来ることになっていたが、その前に僕は一番下にある倉庫に隠れた。
しかし、やはりそう簡単にはいかない。ボーイが探しにきて見つかった。
「こら、こんなところへ隠れても無駄だぞ」
捕まったら終わりだ。僕はおとなしく従うふりをしてドアを出た途端に走りだした。三等船室を抜け階段を上がる。
「待て~」
ボーイはどこまでも追ってくる。
待ってたまるか。
二等船室の廊下を走り、ドアを開け、甲板に出た。船首の方に逃げる。追っ手は二人に増えていた。
捕まれば、故郷の出迎えの人達の前を手錠されて船を下りることになる。そんな不名誉なことはなんとしても避けなければ。
甲板には塔や救命ボートやらいろいろな障害物が置かれている。そこを右や左に曲がりながら逃げる。
しかし、ついに後部甲板の端に追い詰められた。手すりを背にして左右を見る。両側から挟み撃ち。万事休すか。
もう船は港内にある築港(戦争で未完成の防波堤兼桟橋)近くに来ていた。
下を見る。甲板から海までは約8メートル。上から見るとかなりの高さだ。
「もう観念しろ」
じりじりと追っ手が迫り、左右から襲い掛かる。私はくるりと背を向け手すりを乗り越える。
「やめろ、危ないぞ」
追っ手の声を背中で聞きながら、青い海に飛び込んだ。
泳ぎは得意だったが、服のまま泳ぐのは大変だ。船のつくる波にのまれ、次第に船の後部に吸い寄せられていく。スクリューに巻き込まれたら逮捕どころか死んでしまう。
そこで特に泳ぎの邪魔になった革靴を脱ぎ捨てた。
絶対逃げ切ってやる。必死で泳ぐ。
が、そこへ水上警察のモーターボートがやってきた。
「これにつかまれ」
ロープの繋がった浮き輪が投げ込まれる。もうダメか。
でも、まだあきらめたくなかった。つかみそこなったふりして浮き輪をボートの後方に押しやる。ロープがスクリューに絡まり、ボートは身動きが取れなくなった。
警官の一人は海に飛び込んでロープをはずしにかかる。
そこへ、通りかかった艀(重い貨物を積んで航行するために作られている平底の船舶)が近寄ってきて、仲士が私を引き上げてくれた。
まだ三月なので、奄美の海とはいえ寒い。雲に太陽の光も遮られている。ガタガタ震えていると、同年代くらいの男が黙って上着をかけてくれた。優しさが身にしみる。
しかし、艀が築港に着くなり、「ありがとう」と言って走って逃げ出した。
しばらく走ったあと、後ろを振り返ると、50mほど後ろから自転車に乗った巡査が追いかけてきていた。
距離はどんどん縮まっていく。
まずい。今度こそ捕まる。
既に疲れはピークに達していて、息も上がっていたが、最後の力を振り絞って走り、角を曲がって横丁に入った。巡査はそれに気付かずにまっすぐ走っていく。
ふう、ふう、ふう。心臓が破裂しそうだ。
そこから家の裏門までなんとかたどり着く。助かった。
中へ入るとお袋がずぶぬれの僕を見てびっくりしていた。持ってきてもらったタオルで体を拭いて服を着替えていると、兄貴に言われた。
「奥の部屋に隠れていろ」
長兄と僕は20歳以上離れていた。兄は当時貿易庁の役人をしていたので、船と水上警察に話をつけてくれた。
おかげで捕まることはなかった。
だが、密航してきてるので、帰りも密航で本土を目指すしかない。
今度は小さな船を乗り継いで、最後は硫黄島(小笠原諸島の硫黄島ではない)から機帆船で鹿児島に向かった。
しかし、嵐に遭い、波をかぶったせいかエンジンがいかれた。
船員が櫂をこいで本土最南端の佐多岬に向かい、なんとか翌朝に到着。
嵐は過ぎ去り、一転して雲ひとつない青空になっていた。
全員疲れ果て、浜辺で寝ていると警官に蹴られて起こされた。10人の乗客は逮捕され、警察署や裁判所で取り調べを受けることになった。
「お前たちはどこから来たんだ?」
他の者たちは、奄美から来た、と答えたので強制送還となった。
が、僕は「硫黄島へ行って帰ってきただけです」と言った。硫黄島は占領されてはいなかったからだ。日本から出ていないとなれば問題はない。
「貴様、密航だけでなく、嘘までつくと罪は重くなるぞ。貴様も奄美から来たんだろう?」
「いえ、硫黄島からです」
「調べればわかることだ。正直に言え。後で後悔することになるぞ」
警官は脅してきたが、僕はひるむことなく、証言を変えなかった。
結局、10日留置所にいただけで無罪放免となった。
大学の新学期は既に始まっていたが、とにかく無事戻ることが出来た。
以上です。
実はこれ「密航・命がけの進学」という本にも載ってる話です。その部分だけコピーをもらったんですが、そのまま写すと長くなるので、聞いた話も参考に短くして文体もかえてます。
その本には他の方の体験談もたくさん書かれいるようです。他の話は知らないので読んでみたいですが、図書館にはなかったです。
戦争は終わっても、こういった苦労があったのですね。
その占領中の話で、昨日書いた「14歳の二等兵」の続きになります。
では、どうぞ。
中部地方にある大学に入った年の秋、父が亡くなったという便りが田舎から届いた。
僕は日本人だが、アメリカからの留学生という身分になっているので、勝手に奄美には帰れない。
文部省に帰省願いを出すも、いつまで経っても返事が来ない。予算が下りないのかもしれない。
仕方なく、春休みになるのを待って、僕は鹿児島の姉の家まで行った。
しかし、どうしたもんか。簡単に奄美大島に行けるはずもない。
策もなく、とりあえず港に行くと、偶然友人に出会った。
「お前はパスポートを持っているんだから、黙って船に乗り、出航したあと事務長に申し出て運賃を払えばいいんじゃないか」
それはいいアイデアかもしれない。僕は荷物を取りに戻った。
乗船するのは大きな貨客船。黒い船体に白い客室。真ん中の大きな黒い煙突には白い二重線が水平に描かれている。
僕は友人の荷物を運ぶふりしてそのまま三等の雑魚寝部屋に居座り出航を待った。
無事に船は港を離れたが、そう都合よく事は運ばなかった。
奄美に近づいた翌朝、事務長に話をしたが、厳しい顔で言われた。
「パスポートを持っていても、出入国管理庁のサインがなければ密航だ。名瀬(奄美の最大の街で港があり、実家もある)に着いたら警察に引き渡すから、部屋で待機しておれ」
友人にそのことを話すと今度はこうアドバイスしてきた。
「トランクは俺が持ってってやるから、お前は沖仲士(港湾労働者のこと)に紛れて下船するんだ」
入港20分前にボーイが呼びに来ることになっていたが、その前に僕は一番下にある倉庫に隠れた。
しかし、やはりそう簡単にはいかない。ボーイが探しにきて見つかった。
「こら、こんなところへ隠れても無駄だぞ」
捕まったら終わりだ。僕はおとなしく従うふりをしてドアを出た途端に走りだした。三等船室を抜け階段を上がる。
「待て~」
ボーイはどこまでも追ってくる。
待ってたまるか。
二等船室の廊下を走り、ドアを開け、甲板に出た。船首の方に逃げる。追っ手は二人に増えていた。
捕まれば、故郷の出迎えの人達の前を手錠されて船を下りることになる。そんな不名誉なことはなんとしても避けなければ。
甲板には塔や救命ボートやらいろいろな障害物が置かれている。そこを右や左に曲がりながら逃げる。
しかし、ついに後部甲板の端に追い詰められた。手すりを背にして左右を見る。両側から挟み撃ち。万事休すか。
もう船は港内にある築港(戦争で未完成の防波堤兼桟橋)近くに来ていた。
下を見る。甲板から海までは約8メートル。上から見るとかなりの高さだ。
「もう観念しろ」
じりじりと追っ手が迫り、左右から襲い掛かる。私はくるりと背を向け手すりを乗り越える。
「やめろ、危ないぞ」
追っ手の声を背中で聞きながら、青い海に飛び込んだ。
泳ぎは得意だったが、服のまま泳ぐのは大変だ。船のつくる波にのまれ、次第に船の後部に吸い寄せられていく。スクリューに巻き込まれたら逮捕どころか死んでしまう。
そこで特に泳ぎの邪魔になった革靴を脱ぎ捨てた。
絶対逃げ切ってやる。必死で泳ぐ。
が、そこへ水上警察のモーターボートがやってきた。
「これにつかまれ」
ロープの繋がった浮き輪が投げ込まれる。もうダメか。
でも、まだあきらめたくなかった。つかみそこなったふりして浮き輪をボートの後方に押しやる。ロープがスクリューに絡まり、ボートは身動きが取れなくなった。
警官の一人は海に飛び込んでロープをはずしにかかる。
そこへ、通りかかった艀(重い貨物を積んで航行するために作られている平底の船舶)が近寄ってきて、仲士が私を引き上げてくれた。
まだ三月なので、奄美の海とはいえ寒い。雲に太陽の光も遮られている。ガタガタ震えていると、同年代くらいの男が黙って上着をかけてくれた。優しさが身にしみる。
しかし、艀が築港に着くなり、「ありがとう」と言って走って逃げ出した。
しばらく走ったあと、後ろを振り返ると、50mほど後ろから自転車に乗った巡査が追いかけてきていた。
距離はどんどん縮まっていく。
まずい。今度こそ捕まる。
既に疲れはピークに達していて、息も上がっていたが、最後の力を振り絞って走り、角を曲がって横丁に入った。巡査はそれに気付かずにまっすぐ走っていく。
ふう、ふう、ふう。心臓が破裂しそうだ。
そこから家の裏門までなんとかたどり着く。助かった。
中へ入るとお袋がずぶぬれの僕を見てびっくりしていた。持ってきてもらったタオルで体を拭いて服を着替えていると、兄貴に言われた。
「奥の部屋に隠れていろ」
長兄と僕は20歳以上離れていた。兄は当時貿易庁の役人をしていたので、船と水上警察に話をつけてくれた。
おかげで捕まることはなかった。
だが、密航してきてるので、帰りも密航で本土を目指すしかない。
今度は小さな船を乗り継いで、最後は硫黄島(小笠原諸島の硫黄島ではない)から機帆船で鹿児島に向かった。
しかし、嵐に遭い、波をかぶったせいかエンジンがいかれた。
船員が櫂をこいで本土最南端の佐多岬に向かい、なんとか翌朝に到着。
嵐は過ぎ去り、一転して雲ひとつない青空になっていた。
全員疲れ果て、浜辺で寝ていると警官に蹴られて起こされた。10人の乗客は逮捕され、警察署や裁判所で取り調べを受けることになった。
「お前たちはどこから来たんだ?」
他の者たちは、奄美から来た、と答えたので強制送還となった。
が、僕は「硫黄島へ行って帰ってきただけです」と言った。硫黄島は占領されてはいなかったからだ。日本から出ていないとなれば問題はない。
「貴様、密航だけでなく、嘘までつくと罪は重くなるぞ。貴様も奄美から来たんだろう?」
「いえ、硫黄島からです」
「調べればわかることだ。正直に言え。後で後悔することになるぞ」
警官は脅してきたが、僕はひるむことなく、証言を変えなかった。
結局、10日留置所にいただけで無罪放免となった。
大学の新学期は既に始まっていたが、とにかく無事戻ることが出来た。
以上です。
実はこれ「密航・命がけの進学」という本にも載ってる話です。その部分だけコピーをもらったんですが、そのまま写すと長くなるので、聞いた話も参考に短くして文体もかえてます。
その本には他の方の体験談もたくさん書かれいるようです。他の話は知らないので読んでみたいですが、図書館にはなかったです。
戦争は終わっても、こういった苦労があったのですね。