今日は「ゼロの日」です。
昨日が3月21日で、3、2、1ですから、今日は0でしょう。
全てを手放し、ゼロになって自由になりましょう。
ということで、五七五でタイトルをつけてみました。
ちなみに、ゼロとは何もないとも言えますが、全てのプラスとマイナスがバランスが取れてる状態だとも言えます。
何もないようで、全てでもあります。
正反対のようで、同じことなのです。
同様に、
手放すことと、受け入れることも一見正反対の行為のようですが、実は同じことなのです。
手放すとは、否定することでも、排除することでもありません。
それは、執着しない、依存しない、恐れない、期待しない、ということです。
だから、どこかに投げ捨てるわけではなく、あるがままに放置するのが手放しです。
ただ、全てを手放すためには、まず、全てを受け入れなくてはいけません。
持ってないものは手放せませんから。
ということで、
いいことはもちろん、どんなに辛いことがあっても、どんなに嫌なことがあっても、それが、他人のことでも、自分のことでも、世界のことでも、全てをあるがままに受け入れるのです。
ただ、全てを受け入れるとは、全てを好きにならなければいけない、ということではありません。
人間として生きている以上、好き、嫌いや、自分に合うか、合わないか、ということはどうしても起きてくるでしょう。
でも、全てのものには存在意義があります。それを認め、肯定する、というのが、「受け入れる」ということです。
そもそも、自分の目に映る世界は、自分の内面が投影されたものです。
ですから、目の前に嫌な状況が現れても、それを許しましょう。
自分が創っている世界ですから、全ては自分の責任なのです。他人や環境を責めるのは筋違いです。
だからといって自分を責める必要もありません。人間ですから、そうなるのは仕方ないことですから。
そんな自分も受け入れ、許しましょう。
だいたい、自分のエゴや肉体、それを含むこの世界自体、幻ですからもともと意味はありません。それに自分が意味付けしているだけです。
自分が創ってるのに、敵だとか間違ってるとか、排除や否定をしてると、分離を促進するだけです。それでは、いつまでも二元性の世界から逃れることはできません。
これからは統合の時代です。
統合とは一つの考えや一つの趣味、嗜好に統一する、ということではなく、異なる価値観を認め、各個人の自由を認める、ということです。
そんなことをしたら、わがまま放題の無秩序な世界になる、という人もいるでしょう。
でも、全て自分の内面の表れですから、もし、そうなるなら、自分にそういう要素があるからです。
この世界は神が創っているのではなく、自分が創っているのです。
自分の中に愛しかなければ、愛ある世界しか表れません。
「木を植える男」ポール・コールマンは世界中を木を植えながら歩きました。紛争状態の国や治安の悪い街にも行きましたが、彼の防御法は防御しないことです。
防御するということは、自分に危害を与える相手を想定しています。
でも、彼はそんな人はいないと信じているのです。
ハートをオープンにして、恐れを持たず、愛を持ってフレンドリーに接することで、危害を加えられることなく旅することができたのです。
聖書に書かれているイエスではなく、本当のイエスの目には、全ての存在が愛しいものとしか映っていなかったはずです。
ですから、伝染病の患者でも、娼婦でも、皆に嫌われていた徴税人であろうと、全ての人を受け入れていました。
自分を殺そうとした人達でさえ許しました。
愛こそは神で、愛こそは全てです。
ただ、なかなか簡単にイエスのような心境や状態になるのは難しいかもしれません。
だから、リーボールを張ることやアファメーション唱えることを否定しているわけではありません。
あくまでも理想の状態を述べているにすぎません。
でも、全てを受け入れ、全てを手放す、と意図し、意識し続ければ、全てが良い方向に向かっていくはずです。
逆に、自分の中に不平不満や否定の思いがあれば、いくらポジティブシンキングをしても、いいことは起きません。
自分を変えれば相手が変わる、世界が変わる、というのは、気持ちの問題だということではありません。
相手や世界は結果なのです。だからそちらを変えようとしても変わりません。原因を変えてはじめて結果が変わります。
自分が原因なのですから、自分を変えるしかないのです。自分の思いや考え方を。
ダメな自分でもいいんです。欠点があってもいいんです。それを認め、受け入れ、仕方ない、とあきらめ、手放す。
全てを手放すために全てを受け入れる。それは、あるがままに受け入れ、あるがままに手放すこと。
ということは、それができれば、実は最初から最後まであるがままです。どちらも何もしてないのと同じなのです。
無為自然とはそういうことではないでしょうか。
ということで、受け入れることと手放すことは、同じだとも言えるのです。
そうやって、中庸、中道、真ん中のゼロの状態になれば、楽になって人生が好転していきます。
なぁんて偉そうに語ってますが、もちろん私はそれをやってる最中で、できてるわけではありません。だからこそ、お試しが来ます。全てを受け入れ全てを手放せるまでは、らせん階段を上るように、何度もお試しがくることでしょう。
でも、ひとつずつクリアしていくうちに、確信は深まっていきますから、楽しみながらお試しを迎えていこうと思います。
さて、今、「ゼロ」がキーワードのアニメや実写の映画や小説がヒットしています。ゼロ戦関係の「風たちぬ」「永遠のゼロ」や、アカデミー賞を取った「ゼログラビティ」とか。
これからの時代はゼロの時代とも言えるのかもしれません。
奇しくも、そらさんの小説も「ゼロの物語」です。これはSF冒険ファンタジーですが、この「ゼロ」というものを一番わかりやすく表現していると思います。
もちろん、物語としても非常に面白いですから、まだ読んでない方はお勧めですよ。
http://www.nigun-niiba.co.jp/ZERO/
ということで、ゼロの日にあたり、僭越ながら思うことを書かせていただきました。
あくまでも私の意見ですから、受け入れる必要はありませんよ。
他人の意見は参考程度にしといた方がいいですからね。盲信はいけません。
えっ? 今日がゼロの日って知らなかった?
そりゃそうでしょう。勝手に私が命名しただけですから。
では、再見
昨日が3月21日で、3、2、1ですから、今日は0でしょう。
全てを手放し、ゼロになって自由になりましょう。
ということで、五七五でタイトルをつけてみました。
ちなみに、ゼロとは何もないとも言えますが、全てのプラスとマイナスがバランスが取れてる状態だとも言えます。
何もないようで、全てでもあります。
正反対のようで、同じことなのです。
同様に、
手放すことと、受け入れることも一見正反対の行為のようですが、実は同じことなのです。
手放すとは、否定することでも、排除することでもありません。
それは、執着しない、依存しない、恐れない、期待しない、ということです。
だから、どこかに投げ捨てるわけではなく、あるがままに放置するのが手放しです。
ただ、全てを手放すためには、まず、全てを受け入れなくてはいけません。
持ってないものは手放せませんから。
ということで、
いいことはもちろん、どんなに辛いことがあっても、どんなに嫌なことがあっても、それが、他人のことでも、自分のことでも、世界のことでも、全てをあるがままに受け入れるのです。
ただ、全てを受け入れるとは、全てを好きにならなければいけない、ということではありません。
人間として生きている以上、好き、嫌いや、自分に合うか、合わないか、ということはどうしても起きてくるでしょう。
でも、全てのものには存在意義があります。それを認め、肯定する、というのが、「受け入れる」ということです。
そもそも、自分の目に映る世界は、自分の内面が投影されたものです。
ですから、目の前に嫌な状況が現れても、それを許しましょう。
自分が創っている世界ですから、全ては自分の責任なのです。他人や環境を責めるのは筋違いです。
だからといって自分を責める必要もありません。人間ですから、そうなるのは仕方ないことですから。
そんな自分も受け入れ、許しましょう。
だいたい、自分のエゴや肉体、それを含むこの世界自体、幻ですからもともと意味はありません。それに自分が意味付けしているだけです。
自分が創ってるのに、敵だとか間違ってるとか、排除や否定をしてると、分離を促進するだけです。それでは、いつまでも二元性の世界から逃れることはできません。
これからは統合の時代です。
統合とは一つの考えや一つの趣味、嗜好に統一する、ということではなく、異なる価値観を認め、各個人の自由を認める、ということです。
そんなことをしたら、わがまま放題の無秩序な世界になる、という人もいるでしょう。
でも、全て自分の内面の表れですから、もし、そうなるなら、自分にそういう要素があるからです。
この世界は神が創っているのではなく、自分が創っているのです。
自分の中に愛しかなければ、愛ある世界しか表れません。
「木を植える男」ポール・コールマンは世界中を木を植えながら歩きました。紛争状態の国や治安の悪い街にも行きましたが、彼の防御法は防御しないことです。
防御するということは、自分に危害を与える相手を想定しています。
でも、彼はそんな人はいないと信じているのです。
ハートをオープンにして、恐れを持たず、愛を持ってフレンドリーに接することで、危害を加えられることなく旅することができたのです。
聖書に書かれているイエスではなく、本当のイエスの目には、全ての存在が愛しいものとしか映っていなかったはずです。
ですから、伝染病の患者でも、娼婦でも、皆に嫌われていた徴税人であろうと、全ての人を受け入れていました。
自分を殺そうとした人達でさえ許しました。
愛こそは神で、愛こそは全てです。
ただ、なかなか簡単にイエスのような心境や状態になるのは難しいかもしれません。
だから、リーボールを張ることやアファメーション唱えることを否定しているわけではありません。
あくまでも理想の状態を述べているにすぎません。
でも、全てを受け入れ、全てを手放す、と意図し、意識し続ければ、全てが良い方向に向かっていくはずです。
逆に、自分の中に不平不満や否定の思いがあれば、いくらポジティブシンキングをしても、いいことは起きません。
自分を変えれば相手が変わる、世界が変わる、というのは、気持ちの問題だということではありません。
相手や世界は結果なのです。だからそちらを変えようとしても変わりません。原因を変えてはじめて結果が変わります。
自分が原因なのですから、自分を変えるしかないのです。自分の思いや考え方を。
ダメな自分でもいいんです。欠点があってもいいんです。それを認め、受け入れ、仕方ない、とあきらめ、手放す。
全てを手放すために全てを受け入れる。それは、あるがままに受け入れ、あるがままに手放すこと。
ということは、それができれば、実は最初から最後まであるがままです。どちらも何もしてないのと同じなのです。
無為自然とはそういうことではないでしょうか。
ということで、受け入れることと手放すことは、同じだとも言えるのです。
そうやって、中庸、中道、真ん中のゼロの状態になれば、楽になって人生が好転していきます。
なぁんて偉そうに語ってますが、もちろん私はそれをやってる最中で、できてるわけではありません。だからこそ、お試しが来ます。全てを受け入れ全てを手放せるまでは、らせん階段を上るように、何度もお試しがくることでしょう。
でも、ひとつずつクリアしていくうちに、確信は深まっていきますから、楽しみながらお試しを迎えていこうと思います。
さて、今、「ゼロ」がキーワードのアニメや実写の映画や小説がヒットしています。ゼロ戦関係の「風たちぬ」「永遠のゼロ」や、アカデミー賞を取った「ゼログラビティ」とか。
これからの時代はゼロの時代とも言えるのかもしれません。
奇しくも、そらさんの小説も「ゼロの物語」です。これはSF冒険ファンタジーですが、この「ゼロ」というものを一番わかりやすく表現していると思います。
もちろん、物語としても非常に面白いですから、まだ読んでない方はお勧めですよ。
http://www.nigun-niiba.co.jp/ZERO/
ということで、ゼロの日にあたり、僭越ながら思うことを書かせていただきました。
あくまでも私の意見ですから、受け入れる必要はありませんよ。
他人の意見は参考程度にしといた方がいいですからね。盲信はいけません。
えっ? 今日がゼロの日って知らなかった?
そりゃそうでしょう。勝手に私が命名しただけですから。
では、再見